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言の葉辞典 『轍』②

2023-11-04 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『轍』②

 ❖ 襲 名 ❖

 襲名(しゅうめい)は、名を継ぐこと。名を襲うことの意で、先人と同じ名前を意図的に使うことを言う。

 ▼人名の襲名

 祖先もしくは先代の個人名を継承すること。

 日本における襲名

 かつての武家や農家・商家では、家督を継ぎ新たな家長となった者が、先代あるいは父方祖先の個人名を襲名し改名する習慣が広くあった(祖名相続)。
 これは、世代が代わっても家業、家職の連続性、職能水準の保持の内外への表明という意味があり、その家が獲得した社会的信用、顧客や仕入れ先や同業者などからの評価に応じ、社会的期待を裏切ることのない家業、家職を保持する努力が後継者には要求された。

 江戸時代の百姓は、苗字の公称が禁じられていたため、字に代表される通称を家の固有の名前、すなわち先祖相伝の家名とし、代替りの際に父から嫡男へと相続することによって、代々同じ名前を名乗り続けた。
 江戸時代の慣習を集成した「全国民事慣例類集」によると、襲名は、家督相続が伴って行われ、公儀へ差し出す帳簿において、代々その家を代表する名である「公儀名」つまり「其家の通名(称)」に改めるのが通例であった。
 そのとき前戸主が健在の場合は、隠居し改名することになるが、戸主は代々変わっても名は変えないことになる。実印もまた代々同じ品を用いるものとされた。

 歴史的には、当時の経済的な先進地帯であった近畿地方などでは、14世紀後半から15世紀にはすでに襲名が行われていた記録が残っている。

 伝統芸能の襲名

 歌舞伎や落語などの伝統芸能、茶道・生け花などの家元や相撲界などでは、名前が家柄の権威や伝統あるいは個人の技術を表し、その資格を持つ者が継承する。
 この場合は、継承する者が先代と血縁関係にあるとは限らず、師弟関係にあってあくまでも個人的な技能の能力から判断される(相撲の年寄名跡においては先代の入婿となることも多い。
 佐田の山晋松や琴ノ若晴將など)。 
 日本だと実名の改名に家庭裁判所の承認(法的な判断)が求められるが、芸能などの襲名であれば比較的認められやすい傾向にある。
 戸籍上の本名か、芸名・筆名(変名)との区別を問わずに用いるが、通常の襲名だと歌舞伎や落語などで名跡を継ぐことを想像する人が多いのかようである。
 珍しい例として、初代桂文枝は、明治維新で戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした。
 伝統芸能以外では、ヤクザや的屋の世界において親分の地位を継承する襲名披露が行われている。
 これは初代、又は先代の姓名を個人が継承をするものではなく、組や一家の名字が跡目を通じて継承される、いわゆる名跡として認知される。

 競技・スポーツにおいては、大相撲で師匠や所属部屋の名力士の四股名を襲名することがあり、こうして伝統あるものとなった四股名は出世名と呼ばれる。
 また、現役力士が引退して年寄となる際には「引退して年寄○○を襲名」となる。
 行司については、三役格の行司から立行司に昇格した時点でまず序列第2位の「式守伊之助」を襲名して、その後に最高位の立行司に昇格する時点で「木村庄之助」を襲名することが慣例となっている。
 登録名やリングネームが襲名されることはほとんどなく、プロレスで2世レスラーが『父親のリングネーム+ジュニア』を名乗ることがあるほか、『タイガーマスク』のように覆面レスラーが代替わりする際にも襲名と表現されることがある。

 西洋における襲名

 一般的に、Jr.(ジュニア)が襲名の準備として用いられ、父親が他界する事で、Jr.の表記を外して襲名する(リングネームの例になるが、ドリー・ファンク・ジュニアのように父親の他界後も「ジュニア」の付いた名前を維持することもある)。

 ▼船名の襲名

 海上自衛隊を含む海軍、海運会社では、特に活躍した艦船の名前をその艦船の退役後に後代の艦船が引き継ぐことがある。 この場合、先代の艦船の名前をそのままつけることもあれば、先代の艦船の名前に襲名の回数を意味する数字等を付けることもある。

 ❒2015年現在において現役の艦船がある、長期にわたって襲名されてきた艦船名の例

 軍艦

 イギリス海軍

 ✰ヴィクトリー 6代目
 初代は1569年就役の42門艦。

 アメリカ海軍

 ✰ワスプ 10代目
 初代は1775年就役のスクーナー。

 ✰ボクサー 6代目
 初代は1815年就役のブリッグ。

 ✰エセックス 5代目
 初代は1799年就役のフリゲート。

 ✰キアサージ 4代目
 初代は1862年就役のスループ。

 ✰ボノム・リシャール 3代目
 初代はジョン・ポール・ジョーンズが1779年にフランス国王ルイ16世から与えられたフリゲート「Duc de Durae」を改名したもの。

 商船

 ✰クイーン・エリザベス - キュナード・ライン 3代目
 初代は1940年就役の80000トン級客船。

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 ❖ 世 襲 ❖

 世襲(せしゅう)とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を、子孫が代々承継することである。

 ▼世襲の種類

 ・襲爵:家に伝わる爵位を世襲すること  
 ・襲位:位階・地位などを世襲すること
 ・襲名:先祖伝来の名跡などを世襲すること

 また、法的な根拠を有する場合に限らず、事実上の場合について言うこともある。

 ▼歴史

 古代・中世世界における多くの政治体制においては、その支配者の地位(皇帝や国王、諸侯などの地位)は、血縁関係を基礎とした継承によって独占的に占有されることが通常であった。
 このような固定された君主の家系を王朝と称する。

 それにより、社会の中で支配する階層(支配者)と支配される階層(被支配者、臣民)の分化が生じてきた。
 日本においても、大日本帝国憲法下では皇室の皇位(万世一系)をはじめ、族籍(華族・士族・平民)の世襲が定められており、これを打破するには閨閥を繋ぐか、よほど傑出した功績を挙げて爵位を受ける他なかった。
 また、日本国憲法にも皇位が世襲される旨の定め(第2条)がある。

 貴族制度・階級制度が存在する国でも、両班でありなおかつ科挙に通らなければ政治に関われない李氏朝鮮や、試験に通って出世すれば平民の子でも指導層に立てる可能性がある大英帝国や大日本帝国のような例まで、その度合いには大差がある。

 ✔日本における世襲

 大化の改新以前の日本は氏族社会であり、氏人は氏上に統率され、氏上の地位は子孫などによって継承された。
 天皇の統治が確立すると、氏上は朝廷に一定の奉仕を行い、相続の対象も祭祀とともに家業や家名が重要視された。氏上の地位は被相続者の選定により代々子または血縁者に継承された。

 奈良時代には唐朝の律令を取り入れ法体系を整備した。
 律令は形式的には近代に至るまで存在したが、これが実質的効力を持ったのは平安時代前期までであった。
 継嗣令に蔭位の制が規定されており、皇親、諸王、官人五位以上の者の子または孫で嫡子孫となる者は一定の位階に叙されて、官人として祖父の跡を継承した。
 嫡子は嫡妻長子を第一順位とし、ない場合は直系卑属や養子から選んだ。六位以下内八位以上の嫡子は位子の制により官人登用の道が開かれていた。
 のち、庶子も嫡子を立てることが許されたが、これは家業、家産継承のためである。
 すなわち、継嗣令は家の世襲を意図したものであった。
 この制度は、平安時代を通じて守られ、庶民の場合も「嫡嫡相承」といって、家業、家産が継承された。また、平安時代には古代の氏族制が一部で復活し、一族の氏上が氏人を統率するが氏上の地位も世襲的に継承された。
 この代表例が源平藤橘である。

 中世は武家による封建体制が確立し社会組織が一変した。
 すでに平安時代末期には各地で血縁団体、家族共同体である武士団が組織され、一族の族長を家督と呼び、家督は族人に対し軍事的統率権を持った。
 家督の地位は嫡子によって代々継承された。中世では一族が分岐して単一の家を構成し、財産(土地)の慣習的な分割相続と封建的勤務を調和するため、諸子の中から惣領を選別し他の庶子を物的に支配する惣領制が発達した。
 この体制により惣領は一族の家督に人的統制を受ける一方で、惣領として家の継承者となった。家督も惣領もともに嫡子がその地位を世襲した。
 家督制も惣領制も南北朝時代から室町時代からにかけて次第に崩れ、庶子は惣領から独立し、室町時代末期には嫡子が家名と家産を併せて継承する長子単独相続に変化した。

 江戸時代は厳格な身分制度が確立し職業が固定したため、上下を通じて家の世襲制が一般化した。
 武士の場合、家の存続は封録の継承にあり、主君の干渉を伴う封禄相続が実現し、相続の効果として家名と家産を取得した。相続人は嫡出長子であるが、長子のない場合は届出、願出によって嫡子を定めて家の存続を計った。
 庶民は家業と家産を継承したが、家名の相続は消滅した。
 相続は長男(惣領)の単独相続が一般的であったが、東北地方を中心に「姉家督」と呼ばれる相続が行われており、漁村や長野県諏訪地方では末子相続の慣習のある地方もあった。

 ▼世襲政治家

 世襲政治家は、世襲である政治家のこと。

 ✔概説

 近代の代表民主政治においては、血統ではなく人民の選挙によって選ばれた政治家が国会議員(選良)として政治を担うこととなる。
 一方で、親が政治家であれば、選挙に当選して政治家となるためのさまざまなメリットを享受することとなり、そのようなメリットを活かした政治家が少なからず登場することとなる。
 このような政治家が、比喩的に「世襲」であると呼ばれる。
 場合によっては、数代にわたって有力な政治家を輩出する家系すら登場する。
 また、政治家一族が政治家一族、更には大資本家や貴族と婚姻を通じて閨閥として関係が強化される例もみられる。

 世襲政治家については、既存政治家の事実上の家業となる一方で、既存政治家と縁戚関係がない人材の立候補を事実上妨げているという批判があり、また政治団体の世襲による相続税逃れなどが指摘されている。
 こうした批判がある一方で、世襲を容認しその候補を議員にするのは有権者であるという擁護論もある。
 一部の政党では、選挙区の地盤を世襲した候補の擁立を自粛している。

 政治家の家庭で育つことから早くから政治に目覚め、親の知名度や人脈、支持基盤、財力をうまく活かして若いうちから実績を積むのには有利である。
 親の秘書等を経て政治家となるケースもある。
 また、若年で政界入りすることもできる世襲政治家は当選回数を重ねることで政治的影響力を増大させ、若くして政界入りすることが難しい非世襲の政治家よりも優位性がある。

 世襲議員と非世襲議員の被説明変数を基準にしたパフォーマンス指標には、質問主意書提出数を除いて 有意な差は見られないとする研究もある。

 また独裁政治が行われている国家においては、君主国ではない場合にも権力基盤が引き継がれ、最高指導者等の政権要職者について事実上の世襲が行われることがある。

 ✔北アメリカ

 アメリカ

 他の先進国と同様、アメリカの選挙でも大金を動かす資産力が必要となるため、同一の一族から多数の政治家を輩出することが多い。
 特に、ジョン・F・ケネディ第35代大統領のケネディ家や、ジョージ・H・W・ブッシュ第41代大統領とジョージ・W・ブッシュ第43代大統領のブッシュ家などの一族から出た政治家は数多い。
 大統領や連邦議会議員・州知事などの政治家を多く出す一族を揶揄して「王朝」と呼ばれることもあるが、当事者達はそう呼ばれることを嫌っている。

 ブッシュ家のほかに親子で大統領になった例は、アダムズ家の第2代大統領ジョン・アダムズと第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズの親子がある。

 カナダ

 ピエール・トルドーの息子であるジャスティン・トルドーは首相になった。

 ✔南アメリカ

 ペルー

 アルベルト・フジモリの子供であるケイコ・フジモリ、ケンジ・フジモリは国会議員である。
 ケイコは親子2代の大統領を目指したが対立候補に敗れた。

 ✔アジア

 日本

 日本では、大日本帝国憲法下に設置されていた貴族院が世襲制議員などにより構成されていた(ただし単純に門地だけで議員になれたのは皇族と、侯爵以上の爵位の議員のみであり、伯爵以下については同爵者による選挙があった)。
 日本国憲法が施行された1947年以降は、全ての公職政治家が選挙により国民の信任によって選出されている。

 今日、マスメディア等にて「世襲議員」と称されるのは、国会議員職を世襲したいわゆる二世議員等であることが多い。
 この場合の世襲議員とは概ね、親や祖父母をはじめとする親族が作った選挙区での地盤(後援会。いわゆる「三バン」の一つ)をそのまま継承して選挙に当選した政治家のことを指す。
 自民党の世襲議員のほとんどがこれである。

 北海道選出の日本社会党衆議院議員である2代目岡田春夫は父親が北海道選出の立憲民政党衆議院議員であった初代岡田春夫であり、出身政党が異なるが、選挙区が同じであり地盤を世襲したとして世襲とみなされている。
 選挙区が違う場合など、世襲で受け継ぐ地盤がなく直接の恩恵を受けていない場合は、世襲と見なさないことが多い。
 しかし、親子などの親族関係があれば世襲とみなすという考えもある。
 その考えでは父笹川良一(大阪府選挙区選出)の退職から40年後に当選(立候補自体は父退職から26年後)した笹川堯(群馬県選挙区選出)も、選挙区が異なっており40年間の空白期間が存在するが、父親が国会議員ということで世襲政治家に入っている。
 世襲でよく用いられる手法は、有力議員が次の選挙の数ヶ月前に引退を表明して、後継者として子や孫を指名するものである。
 他の候補に準備期間を与えないために引退・後継者指名を選挙直前まで遅らせるが、この手法はアンフェアだとの指摘がある。指名された後継者は、党の支部などから公認を得て、次の選挙を戦うことになる(党の支部といっても小選挙区支部長は当の世襲させようとする有力議員であることがほとんどである。
 江藤隆美が引退して江藤拓に世襲させようとした際には県連で「親父が支部長で支部推薦候補が息子なんて話は通らない」と問題になったが結局通過している)。
 後継者の指名前に世襲となる後継者を秘書として働かせている事例も多い。
 その一方で、世襲候補として擁立されて当選した世襲政治家が「自分は政治家に向いていない」などの理由で、高齢や病気でもないのに国会議員在職中に次回選挙への不出馬表明という形で引退表明して世襲を終わらせる例もある(例: 63歳の久野統一郎、52歳の木村隆秀)。

 また政治家を引退しないまま子や兄弟姉妹を別の選挙(または選挙区)に立候補させる場合もあるが、こちらは後継者という意味合いは薄まる(例: 鳩山威一郎参議院議員と鳩山邦夫衆議院議員・中曽根康弘衆議院議員と中曽根弘文参議院議員・石原慎太郎衆議院議員と石原伸晃衆議院議員・河野洋平衆議院議員と河野太郎衆議院議員・安倍晋三衆議院議員と岸信夫衆議院議員・羽田孜衆議院議員と羽田雄一郎参議院議員)。
 政治家一家は子どもが生まれた時から選挙に出ることを想定しているためか、自書式投票である日本においては難しい漢字を用いた読みにくい名前は極力避けられ、平易な漢字で多くの人が読みやすい名前をつけたり、名前の一文字を共通させる(通字)など親子関係がはっきりとわかる名前をつける例が多い。
 中には立候補の際に先代の名前に改名する例もある(例: 岡田春夫・山村新治郎・中村喜四郎)。
 古くからの名家の子孫が当該地域から立候補をして当選して政治家になる場合も世襲扱いされることがある。
 例として、旧久留米藩主であり有馬伯爵家の当主である有馬頼寧が襲爵前に久留米から衆議院選挙に当選して衆議院議員になった例や、旧肥前鹿島藩主であり鹿島鍋島家の当主である鍋島直紹が佐賀県知事選挙に当選して佐賀県知事になった例が世襲と扱われた例もある(どちらとも公選政治家の子孫ではない)。
 また長州藩士で島根県令・佐藤信寛の子孫が佐藤栄作、岸信介(旧姓佐藤。岸家へ養子入り)、岸信夫、岸信千世、安倍晋三である。

 世襲政治家は、日本では長らく与党として政権を担当し、権力に近い立場にあった保守派、即ち自由民主党に多いが、日本社会党・民社党などにも若干の例が見られる(自民党は小泉政権下で安倍晋三幹事長が候補者公募制度を導入し、公認候補者の選定過程に変化が見られたが、公募による候補者選定はあくまで補完的役割にとどまり、同じ新人であれば世襲候補者が優先的に公認を獲得する)。
 社会党では河上丈太郎、松本治一郎、江田三郎、山花秀雄、横路節雄などの幹部の実子・養子が政治家となっており、社会党から分裂した民社党や社会民主連合にも世襲政治家が存在した。
 また新自由クラブは幹部のほとんどが国会議員・地方議員を父に持つ世襲政治家であった(このことを理由に「新自由クラブは長持ちしない」と結党時に指摘した議員もいた。
 自民党以外の政党にも世襲政治家は存在しており、民主党ではかつての最高幹部である鳩山由紀夫・小沢一郎・羽田孜はいずれも世襲政治家であった。
 一方、公明党と日本共産党には世襲政治家はほとんど存在しない。
 日本共産党は「“三バン”を受け継がない地方議員と国会議員では世襲とはなり得ない」と定義しており、共産党候補者の選挙費用は全額党が負担し、引退者が後継を指名したりもしないため、世襲国会議員は共産党にいないとする。
 また母川田悦子(2000年から2003年まで衆議院東京都第21区選出議員)の落選から4年後に当選した川田龍平(2007年から2013年まで参議院東京都選挙区選出議員、2013年から参議院比例区選出議員)も、世間的には母親より息子が先に知名度が高く注目を集めていた点はあるが、母親が国会議員であったことや選挙区が重複していたことや母親の秘書を務めていたことから川田も世襲政治家に入っている。

 同一選挙区における世襲候補は「三バン」を保持し、他の新人候補と比べて有利に選挙戦に臨む条件が揃っているため、当選後は地盤固めをすることで次の選挙戦を有利に進めることが可能である。
 また引退に伴う世襲の際に、資金管理団体を非課税で相続できることも問題視されている(他の民間団体の資本金相続は相続税の納税対象に該当する)。
 同一選挙区に複数の公認希望者が存在する場合は分裂選挙になることもある。後継者指名前に政治家が死去した場合の弔い選挙においては分裂選挙が起こりやすい。
 例えば中川一郎が急死した際には、息子の中川昭一と秘書の鈴木宗男の分裂選挙になっている(当時は中選挙区制であったため結果的には両者とも当選)。
 政権交代が起こった第45回衆議院議員総選挙では、自由民主党が歴史的大敗を喫したが、このとき自民党で当選した119人のうち世襲議員は50人と、非世襲議員よりも選挙に強いことを実証した。
 この結果、自民党衆議院議員に占める世襲議員の割合は、解散前の32%から42%、ほぼ4割となった。
 2017年10月の第48回衆議院議員総選挙の小選挙区当選者のうち、自民党は世襲議員が33%(218人中72人)を占めた。

 なお、世襲候補が立候補した選挙で、世襲させた側の先代の政治家(中川昭一でいえば中川一郎)の名前を書いた投票については、世襲候補の得票とはならず無効票となるという事例が1950年の参議院選挙で存在する(櫻内義雄、小瀧彬の項を参照)。
 2023年7月現在の世襲4世の政治家は古屋圭司、小泉進次郎、川崎秀人、林芳正(1代とび)、橘慶一郎(1代とび)、麻生太郎、岸信千世の7人である。
 なお5世は鳩山二郎と平沼正二郎の二人だけで上記合わせて所属政党はいずれも自民党である。

 ✔世襲制限

 GHQ下の日本では公職追放令によって公職追放該当者の三親等内の親族と配偶者は一定期間は対象の職への就任が禁止される規定があったが、公選公職に関しては公職追放該当者以外の三親等の親族や配偶者は規制対象外だったため立候補することができ、公職政治家の世襲制限は行われなかった。
 世襲政治家を問題視する立場から、親族の選挙区からの立候補規制などの世襲立候補の法規制案が浮上するが、日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて(中略)門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」や国会議員についてはさらに日本国憲法第44条「両議院の議員(中略)の資格は(中略)門地(中略)によつて差別してはならない」において「門地の差別」に該当し、法規制には憲法規定の問題が浮上する可能性が存在する。

 2008年に、民主党は世襲立候補規制の法案作成に着手するが、先述の憲法規定の問題もあり世襲の立候補規制を断念し、世襲の制限については資金管理団体の世襲禁止を盛り込むことになった。
 また2009年には法案成立とは無関係に、党の内規として資金管理団体及び選挙区を親族に継がせる事は認めない旨を定めた。
 民主党は「制限される世襲」として以下の条件を全て満たす者と規定している。

 1.現職議員の配偶者及び三親等内の親族であること。

 2.当該議員の引退、転出に伴って連続立候補をすること。

 3.同一選挙区から立候補すること。

 これから国政に参入する新人については、以上の条件を全て満たす場合これを公認候補としないことを決めた。
 ただしこの内規は第45回衆議院議員総選挙から適用されるものであり、これ以前に世襲した候補者に対しては遡及されるものではない。
 第46回衆議院議員総選挙で元首相の羽田孜が引退し、参議院議員・国土交通大臣だった子息の羽田雄一郎が後継出馬を表明した際には、この内規に抵触するとして出馬断念に至っている。

 なお、第45回衆議院議員総選挙で福島1区から当選した石原洋三郎は父が2003年まで福島1区を地盤とする衆議院議員であった石原健太郎であるが、6年間の空白がある。
 民主党は同一選挙区でも6年間の空白があれば一等親の親族の立候補を認めている。
 また2003年衆院選と2005年衆院選は福島1区で石原健太郎の長男(石原洋三郎の兄でもある)である石原信市郎を公認候補として擁立しており(2回とも落選)、旧自由党時代も含めて福島1区から2000年衆院選、2003年衆院選、2005年衆院選、2009年衆院選と連続して石原一族を政党公認候補として擁立し続けていることになる。
 民主党は国政選挙で落選して国会議員になったことがない候補については世襲制限規定に含まれないとして、同一選挙区から世襲候補が連続して立候補することを認めた。
 他にも、石井登志郎(兵庫7区当選議員)が養父(伯父)の石井一(2005年まで衆議院兵庫1区選出議員・2007年当選参議院議員)と選挙区は重なっていないが同一県内の選挙区において衆議院立候補に限れば4年間の空白期間を経て世襲をした例や菅川洋(広島1区立候補・復活当選)は父の菅川健二(2001年まで参議院広島県選挙区選出議員)と衆参は異なるが選挙区が重複する中で8年間の空白期間を経て世襲をした例や高橋英行(愛媛4区選出議員)は祖父の高橋英吉(1969年まで衆議院旧愛媛3区選出議員)と40年の空白期間を経て世襲した例があった。

 制限の対象となるのはあくまでも「現職議員」の後継者に限られていたため、第47回衆議院議員総選挙では新潟6区において前回総選挙で落選し政界を引退した筒井信隆の娘婿である梅谷守が後継として筒井に続き民主党公認で立候補した(落選、その後2021年の第49回衆議院議員総選挙で初当選)。
 この内規は民進党でも踏襲されたが、その事実上の後身にあたる立憲民主党には引き継がれておらず、結党後初の国政選挙となる2021年4月に行われた羽田雄一郎の死去に伴う参議院長野県選挙区補欠選挙では雄一郎の弟にあたる羽田次郎が公認され当選した。
 さらに第49回衆議院議員総選挙に際して当時の党代表であった枝野幸男は「世襲だからと機械的に否定するのは硬直的だ」と述べ、一律に世襲制限は設けず候補者ごとに判断する考えを示した。
 同選挙では北海道3区で荒井聰の後継として長男の荒井優が公認され、比例復活当選している。

 自民党も第45回総選挙から世襲制限を試みたが、検討段階で既に自民党の公認を得ていた千葉1区の臼井正一(父が臼井日出男)と神奈川11区の小泉進次郎(父が小泉純一郎)の2名はそのまま公認され、世襲制限については当面期限を定めないとすることとした。
 ところが解散後に自民党が示したマニフェストでは「次回(第46回)総選挙から世襲制限を行う」旨が記述された[10](制限される条件と、遡及しない点については民主党と同じ)。
 さらにマニフェスト決定後に青森1区の公募候補者として決定された津島淳(父が津島雄二)は党本部の公認を得られず[11]、対応が二転し、結果として候補者によってまちまちの対応をとる事になった。
 2009年衆院選後に登場した自民党新執行部は「世襲制限は尊重しつつも、候補者選定において世襲を優遇せずに広く人材を集める公募制の観点から議論する」とし、世襲制限の議論を白紙に戻す考えを明らかにした。
 2010年参院選では「世襲候補に無原則な公認または推薦はしない」ことを公約に盛り込んだ。
 引退する若林正俊の後継者として公募を経て長男の若林健太が、立候補を表明していた青木幹雄が選挙直前に病気が発覚して不出馬を表明した際には島根県連が緊急に長男の青木一彦がそれぞれ公認候補とされ、2人とも当選を果たした。
 2011年1月、自民党は衆院選のマニフェストを修正し、各都道府県連が行う公募のプロセスを経ることを条件に世襲制限を撤回する方針を固めた。
 結果として津島が自民党において世襲制限により公認が見送られた唯一の例となった。
 第46回総選挙の後継者選定において公募をおこなった際に大物政治家が引退することによる世襲候補(群馬4区の福田康夫の長男である福田達夫、広島4区の中川秀直の次男である中川俊直、北海道12区の武部勤の長男である武部新、奈良4区の田野瀬良太郎の次男である田野瀬太道、香川3区の大野功統の長男である大野敬太郎)がメディアから批判された。応募者が1人だけだった群馬4区を除いた4選挙区では応募した候補者は複数いたが、広島県連・北海道連・香川県連は3選挙区で世襲を候補とすることを決定した。
 執行部は世襲批判をかわすために公認候補に関する党員投票を求めたが4道県連が反発した。
 最終的に世襲1人に絞っていなかった奈良県連では奈良4区の田野瀬の次男と他1人を党員投票を行ったが、4道県連では党員投票が行われないまま世襲を候補とすることを決定し、奈良県連でも党員投票で田野瀬が圧勝したことから世襲である田野瀬を候補とすることが決定した。
 自民党執行部は「公募で新人候補を約100人決め、世襲は1割弱」としているが、「世襲にお墨付きを与えるだけの『なんちゃって公募』だ。
 自民党の古い体質は変わっていないと思われ、最悪だ」(若手議員)、「出来レース」(党関係者)との声もある。
 同選挙では前回落選していた津島も自民党に公認され当選した。

 ✔中華人民共和国

 中国共産党の高級幹部子弟は太子党と呼ばれ、政治を担う党幹部に多くが進出している。
 有名な例では、胡錦濤の後継者として総書記に就任した習近平は全人代常務副委員長を務めた習仲勲の息子であるほか、元国務院総理の李鵬は周恩来の養子である。
 横山宏章「中国を駄目にした英雄たち」(講談社)などによれば、文化大革命当時には「親が革命家なら子供も赤い。
 親が反革命なら子供も黒い」という理論が盛んに喧伝された。

 ✔インド

 初代インド首相ジャワハルラール・ネルーの娘インディラ・ガンディーと孫ラジーヴはともに首相に就任しており、イタリア出身のラジーヴの妻ソニアまでインド国民会議党首に就任している。
 インディラの次男サンジャイも政治家で、その妻メーナカーは環境大臣を歴任した。ジャワハルラールの父モティラル・ネルーも有名な国民会議派の政治家であり、ラジーヴとソニアの子ラーフルとサンジャイとメーナカーの子ヴァルンも下院議員である(ただし、ラーフルはインド国民会議・ヴァルンはインド人民党所属)。
 この状況は「ネルー・ガーンディー王朝」ともいわれている。

 ✔フィリピン

 2010年に大統領となったベニグノ・アキノ3世上院議員は、父がベニグノ・アキノ・ジュニア元上院議員、母がコラソン・アキノ元大統領である。
 また、父方の祖父であるベニグノ・アキノ・シニアも政治家として活躍した。
 ベニグノ3世の前の大統領グロリア・アロヨも、元大統領ジョスダド・マカパガルの娘である。
 コラソンの下で副大統領を務めたサルバドール・ラウレルも、父が第二次世界大戦中のフィリピン大統領を務め大東亜会議にも出席したホセ・ラウレルであり、コラソン・アキノ政権で国防相を務めコラソンの次の大統領となったフィデル・ラモスも父が外相である。
 結局、フェルディナンド・マルコス政権崩壊以降の大統領で就任当時、血縁に有名政治家がいなかったのは、俳優として有名になったタレント政治家のジョセフ・エストラーダが唯一の例である(後に妻のルイサと息子のジンゴイはフィリピン上院議員に当選している)。
 ロドリゴ・ドゥテルテも娘や息子をロドリゴの前任のダバオ市長やその副市長を歴任している。

 長く独裁体制が続いたフェルディナンド・マルコス政権下では、妻のイメルダがマニラ首都圏知事や閣僚を歴任したばかりか、長女アイミーや長男ボンボンが政府系団体の要職に就いた。
 エドゥサ革命でマルコス一族は政権を追われたものの、その後復権を果たし、現在ではアイミーが下院議員、ボンボンが北イロコス州知事、フィリピン大統領となっている。
 アテネオ大学の調査では、州知事の81%、下院議員の78%、市町長でも69%が世襲もしくは一族の関係者であり、世襲が高い地域では貧困率が高いことが指摘されている。

 ✔シリア

 第4代大統領ハーフィズ・アル=アサドは30年に渡る独裁体制を構築し、2000年の死後、息子のバッシャール・アル=アサドが大統領職に就任した。

 ✔シンガポール

 シンガポール首相リー・シェンロンの父親は建国当時の首相リー・クアンユーである。

 ✔大韓民国

 朴槿恵大統領の父親は朴正煕である。また、国会議員などにも鄭一亨・鄭大哲・鄭皓駿の三世代、趙炳玉・趙尹衡・趙舜衡の親子、金大中・金弘一・金弘業・金弘傑の親子、南平祐・南景弼の親子、鄭石謨・鄭鎮碩の親子、劉守鎬・劉承旼の親子、李重載・李鍾九の親子、柳致松・柳一鎬の親子、張聖万・張済元の親子、金鎮載・金世淵の親子、金尚栄・金星坤の親子、金相賢・金映豪の親子、盧承煥・盧雄来の親子、金哲・金ハンギルの親子、鄭雲甲・鄭宇沢の親子らがいた。

 ✔朝鮮民主主義人民共和国

 金日成、金正日、金正恩と、最高指導者の世襲が続いている。

 ✔台湾

 2016年の立法選挙では、365人の候補者のうち63人が政治家一族出身であり40人は元政治家の子供だった。
 台湾の22の市と郡の中で、政治的背景を持つ政治家の割合は24.6%だという。
 総統蔣経国の父親は蔣介石総統であり、蔣経国の孫の蔣万安も立法委員を務めている。

 ✔トルクメニスタン

 第2代大統領グルバングル・ベルディムハメドフは2022年に若者への権力委譲を理由に辞任し、同年の大統領選挙によって、息子のセルダル・ベルディムハメドフが大統領職に就任した。

 〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『轍』①

2023-11-03 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『轍』①

 【読み方】

 音読み : てつ
 訓読み : わだち

 【意味】

 1 通りすぎた車輪の跡。わだち。
 「軌轍・車轍・転轍機」

 2 筋道。行き方。先例。

 ❐「轍を踏む」とは、

 先人のしたことをくり返す。
 また、前の人がおちいった失敗をくり返す。
 二の舞いを演ずる。前車の轍を踏む。

 逆に先例の意味もあり、“先例の通りのやり方”も含まれる為、「手本」という意味合いもあるそうです。

 さて、「先人」とは誰の事なのか。

 1.昔の人。前人。古人。
 例文「―の英知に学ぶ」

 2 亡父。または、祖先。

 という意味だそうです。

 さて、そういう“意味”踏まえて何を連想されるでしょうか?

 「師事」とは、また違った、定め(宿命)的の様な感覚でしょうか。

 “師事”の言葉の場合、リスペクトというイメージがありますが。

 師事とは

 師匠として尊敬し、直接教えを受けること。
 「師事する」のように、動詞として使うことが一般的です。

 「師事」の「師」には、「手本になる人」や「教えを導く人」という意味があります。
 そして「事」には、「ことがら」という意味の他に、実は、「仕える」という意味があるのです。この二つが組み合わさることで、「手本になる人の弟子となって、教えを受ける」という意味です。
 相手を「師」にしているため、「〜に師事する」は自分が尊敬している人やその道に秀でた人に教えてもらうときだけに使う言葉だそうです。 

 やはり「轍を踏む」の連想した言葉は跡取、二世タレント、世襲でしょうか。

 ここでひとつ、歌舞伎についてー。

 先ず、一般に歌舞伎界では“梨園”と言いますが、さて梨園とはどういう意味なのでしょう。

 梨園(りえん)とは中国・唐の宮廷音楽家養成所である。
 日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す。

 語の由来は、唐の玄宗の初年(712年)に、唐都長安西北郊の西内苑内で、芸人達を梨が植えられている梨園と称される庭園に集め、音楽教習府と呼ばれる施設で芸を磨いたことに始まる。
 音楽教習府には、太常寺太楽署所属の楽人で、坐部伎の楽人子弟、教坊の妓女、宮女の一部とが属した。
 玄宗の嗜好する法曲を、皇帝が直々に教えたため、皇帝梨園弟子と称された。

 さて、歌舞伎。

 日本の演劇で、伝統芸能の一つ。
 1603年(慶長8年)に京都で出雲阿国が始めたややこ踊り、かぶき踊り(踊念仏)「チンドン屋と起源は同じ」が始まりで江戸時代に発展し、女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と風俗紊乱を理由とした規制により変化していった。

 ❖ 語 源 ❖

 歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」だと言われている。
 戦国時代の終わりから江戸時代初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。

 そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。

 「かぶき踊り」は主に女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」「歌舞妃」「歌舞妓」などの表記が用いられたが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。
 現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代に使われないことはなかったが、一般化したのは近代になってからである。

 なお、江戸時代には「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。
 また能もその一つである。

 因みに、「歌舞伎」「歌舞伎座」の商標は松竹が取得している。

 ❖ 歴 史 ❖

 草創期

 歌舞伎の元祖は、出雲阿国(いずものおくに)という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。
 「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。
 阿国たちの一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている。
 『当代記』によれば、阿国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった。
 ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋のことで、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである。
 後述するように、「かぶき踊」は遊女に広まっていくが、もともと阿国が演じていたものも上述したような性的な場面を含んだものであって、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。

 『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、阿国が「ややこ踊」というものを踊っていたという記録があり、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている。
 しかし内容面では両者は質的に異なったものであり、「ややこ踊」が可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し、「かぶき踊」は前述のように傾き者の茶屋遊びという性的な場面を含んだものである。

 なお、この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった。

 「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったとされる。
 そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった。

 その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった。
 今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである。
 当時最新の楽器である三味線を花形役者が弾き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという。

 ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを陰間というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていたことからも分かるように好色性を持ったものであった。
 全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京・大坂・江戸の三大都市を中心とした都市部に限られていた。
 しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止されることになった。
 遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来の通説では寛永6年(1629年)であるとされていたが、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。
 それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまった。

 なお、古い解説書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止されたあとに作られたもの」だと書かれているものがあるが、これは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)には既に若衆歌舞伎の記録がある。
 また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがあるが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在する。

 元禄

 次の画期が元禄年間(1688~1704)にあたるとするのが定説である。
 歌舞伎研究では寛文・延宝の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。
 この頃には「演劇」といっても憚りのないものになっていた。
 江戸四座のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃である。

 元禄年間を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展を遂げ、この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている。
 この時期の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎と、「やつし事」を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいる。
 藤十郎の演技は、後に和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた。
 芳沢あやめ (初代)も京随一の若女形として評判を博した。

 なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない。
 当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない。
 また荒事の成立過程はよくわかっておらず、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない。

 狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。
 後に近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、彼の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。
 なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。

 作品面では延宝8年(1680年)頃には基本となる7つの役柄がすべて出揃った。 
 すなわち立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である。

 また作品づくりにおいて、幕府からの禁令ゆえの制限ができた。
 正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられたのである。
 これ以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなる。
 江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、延宝の初め頃(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰された。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。

 享保から寛政

 歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである。
 享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる。
 これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。
 また、享保年間には演技する場所として花道が使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた。
 宝暦年間の大坂では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にするなど、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた。
 これらの工夫は江戸でも取り入れられた。
 こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと発展した。

 作品面では18世紀から趣向取り・狂言取りの手法が本格化した。
 これらは17世紀の時点で既に行われていたが、当時は特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になった。
 これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる。

 また、この頃になると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言が誕生した。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった。

 延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。
 これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年(1746年)、4年(1747年)、5年(1748年)である。

 またそれから少し遡る享保16年(1731年)には初代瀬川菊之丞が能の道成寺に着想を得た『無間の鐘新道成寺』で成功を収め、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた。
 その後、道成寺を題材にした舞踊がいくつも作られ、宝暦3年(1753年)には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている。
 なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった。

 宝暦9年(1759年)、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立した。
 これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。
 その後、男が女を殺す場面につながることが多い。

 文化から幕末

 これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化・文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言)を確立して評判を得た。

 天保3年(1832年)には五代目市川海老蔵(後の七代目市川團十郎)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。

 その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、天保13年(1842年)に七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外に移転させられた。
 移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名された。

 しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。

 幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった。

 江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別されたとされる。

 明治から昭和初期

 明治に入ると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。
 これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。
 しかし明治5年(1872年)になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が明治政府から出された。政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を廃止することなどを要求したのである。
 江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり、政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった。

 1886年(明治19年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストらが参加した。
 翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなった。
 時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。
 芝居の価値観が政府のそれと一致していた團十郎は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した。
 それに対して團十郎が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」[33]で、セリフと動きを極力減らし、「目と顔」による表現で演じ始めた。

 こうした團十郎の芸は高く評価されながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみで、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けたが、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった。
 しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。
 それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった。
 こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応され、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていったことが活歴の歴史的意義である。

 劇場の面では、1889年(明治22年)に演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。
 歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。
 その後、経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収した。

 歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった。
 他にも歌舞伎の中央集権化、改良演劇の確立、歌舞伎演出の様式美化の促進といった影響があったことが指摘されている。

 一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(後の明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。
 また大正の頃の市村座では、六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。
 しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。
 江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、1932年(昭和7年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰えた。

 19世紀末になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場した。
 これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演、「新しい観客の掘り起こし」によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」である。
 松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。
 それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。
 これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながった。
 ほかにも岡本綺堂の『修禅寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。
 その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに梨園での封建的な部分に反発して1931年(昭和6年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された。

 第二次大戦後

 第二次世界大戦の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われた。
 戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。
 終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。
 1945年(昭和20年)11月15日、GHQは東京劇場上演中の「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段を反民主主義的として中止命令を出し、11月20日に上演中止となった。
 松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととした。
 しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、1947年(昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。
 1950年代には人々の暮らしにも余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。
 1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。
 同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であった。
 一方でテレビ時代とともにプロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。
 そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。

 そのような社会の変動の中、1962年(昭和37年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復した。
 役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。
 日本国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。
 戦後の全盛期を迎えた1960年代から1970年代には次々と新しい動きが起こった。
 特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。
 1965年(昭和40年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され[注釈、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功した。
 国立劇場は高校生のための歌舞伎教室を盛んに開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出に努めた。
 その後、大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増した。
 さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれた外連の要素が復活された。
 猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、より大胆な演出を強調した「スーパー歌舞伎」を創り出した。
 また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎らによる関西歌舞伎の復興などが目を引くようになった。
 また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しい形の歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではない。
 その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いている。
 このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。

 歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。

 〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『響』②

2023-10-31 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『響』②

 関連項目 ー 三歳児神話 ー

 三歳児神話とは、以下の意味で使用される。

 1.子供が3歳になるまでは母親は子育てに専念すべきであり、そうしないと成長に悪影響を及ぼすという考え方。

 2.「3歳頃までの脳の成長は重要である」という命題のこと。
 平成10年(1998年)版『厚生白書』、国会議事録の一部は定義2の意味で使われている。
 日本赤ちゃん学会ではこの定義も並行して扱われた。

 3.三歳児神話、という用語が持つ「悪影響がある」とする考え方を否定的にみなすニュアンスそのもの。
 つまり「悪影響があるというのは疑わしい」といった意味合い。

 《 概要 》

 大日向雅美によると、以下のような要素からなるという。

 ・子供の成長にとって幼少期が重要である。

 ・この大切な時期は生みの母親が養育に専念しなければならない。
 なぜならお腹を痛めたわが子に対する母の愛情は子供にとって最善だからである。

 ・母親が就労などの理由で育児に専念しないと、将来子供の発達に悪い影響を残す場合がある。

 《 社会的位置づけ 》

 これらは家庭教育の面で母親が母性を発揮して子の庇護を行うという観点に立ってのもので、こういった環境が3歳までの幼児の情緒の発達に重要であると考えられてのことである。

 スウェーデンでもこうした考え方から、親が子を直接に3歳まで世話が出来るようなシステムが整っている。
 この観点では幼少期の父親の役割は軽視されがちなため、非行など子供の問題行動が社会問題視されると、その原因が幼少期の母親の就労にあるとする論調が根強い。
 またそのようなイメージが社会にあるため、出産した女性の就労継続・再就労を断念させる要因のひとつとなっているという見解が存在する(国会議事録など)。
 一方で三歳児神話批判に対し平等の行き過ぎを懸念する声もある(同議事録など)。
 平成10年(1998年)版『厚生白書』が「少なくとも合理的な根拠は認められない」と初めてこの問題に絡む記載をしたが、厚生労働省はその後の国会答弁で「三歳児神話というのは、明確にそれを肯定する根拠も否定する根拠も見当たらないというのが事実」とした。
 なお、大野由利子政務次官は、(前略)「厚生白書の作成の際にも調査、検討を行ったわけでございますが、少なくとも合理的な根拠はないと、こういうふうに厚生白書の中でも検討結果が示されているところでございます。
 ただ、乳幼児期は、非常に特定の者との深い愛情関係、愛着関係を通して大変人間としての成長があるということで、人間に対する基本的信頼感を形成する大事な時期であることは事実でございます。」と答弁している。

 大日向雅美は三歳児神話をどう認識するかは男女ともにキャリア、家庭との関係において、人生を大きく左右する深刻な問題だとしている。その一方で、この問題はイデオロギーが深く関係しているとした。
 一方で、三歳児神話が一人親家庭や幼少時に親と死別した子への差別や偏見、過度の同情に影響しているという見解もある。
 三歳児神話はフランスでは希薄であり、育児休業をとらず、産後2~3カ月で子どもを保育所に預けて働く母親も多い。
 保育所整備や出産・育児への公的支援が手厚いこともあり、日本やドイツより高い出生率を維持している。

 《 通時的関連事項 》

 ・1905年、羽仁もと子は教育では母親が子供に慕われることが大切であり、慕われるためには「昼も夜も手塩にかけて保護を与える」ことだと説いた。

 ・1951年、ジョン・ボウルビィは、母親から引き離されて、乳児院などに預けられた子供の発達不良に関して論文を発表した(母性的養育の剥奪)。

 ・1985年、『日本大百科事典』の「育児」の項においては「三歳児未満は、親子間の情緒的な関係を緊密にする時期」とされ、三歳までに十分な母子間の緊密な情緒的関係が形成されない場合は「情緒の発達が遅れ、情緒の不安定は次第に強くなる」との記述がある。

 ・1998年、『厚生白書』において「自立した個人の生き方を尊重し、お互いを支え合える家族を」との厚生省(当時)の主張が掲げられ、「これらのことを踏まえれば、三歳児神話には、少なくとも合理的な根拠は認められない。」と記述された。

 ・2001年、日本赤ちゃん学会において「三歳児神話」は二つの定義が論じられた。
 一つは「子どもは3歳までは常時家庭において母親の手で育てないと、その後の成長に悪影響を及ぼす」であり、懐疑的に見られた。
 いま一つは「3歳までの脳の成熟は極めて重要であって、その間に正しい刺激を与えなければ、健常な発達が臨めないことがある」という定義である。

 2005年、文部科学省の「情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会」は、「適切な情動の発達については、3歳くらいまでに母親をはじめとした家族からの愛情を受け、安定した情緒を育て、その上に発展させていくことが望ましいと思われる」と報告した。

 《 父親の役割 》

 ▼研究の経緯

 子供の発育に関して、父親が重要な役割を果たしていることが、近年認識されるようになった。
 従来は、父親の役割として、稼ぎ手、監督者、性役割モデルなどが知られていた。
 しかし近年研究が進んで、社会性の発達や知的能力の発達など、父親が子供の精神的発達に重要な役割を果たしていることが明らかになった。
 離婚により父親が子供の家庭からいなくなると、子供は精神的な適応がより悪化し、学業成績がより悪くなり、反社会的な行動がより増え、結婚してからの離婚率もより高くなる。
 戦死や病死によって父親が不在になっても、同様の傾向が生じる。

 これとは逆に、父親が在宅で働く場合や父子家庭の場合など、父親が子供と長い時間を過ごす家庭では、子供の社会的な発達はむしろ良好になる。
 こうしたことがきっかけとなり、父親が子供の発達に与える影響について、多くの研究が行われるようになった。
 父親が不在の家庭の研究、父子家庭と母子家庭の比較研究、愛着の研究、親と子の気質の類似度研究などから、父親の役割が調べられた。

 《 子供の年代ごとの父親の役割 》

 父親は子供と遊んでいる時にも、子供の発達を促すような働きかけを行っている。
 特に、子供の知的発達や社会性の発達を促すような働きかけを行っている。
 そうした働きかけの内容は、子供が成長するにつれて変化してゆく。

 ▼乳児期における父親の役割

 母親は、乳児に話しかける際には、繰り返すリズムで、ソフトに、なだめるように話す。父親は言葉を多く用いて、子供の体に触れて、はっきりとした言葉で話しかける。
 子供は、母親の顔を見ると、心が落ち着いて脈や呼吸の数が少くなり、父親の顔を見ると、楽しい遊びを期待して脈や呼吸の数が増える。
 その結果、子供は遊び相手として、父親を好むようになる。ただしストレスの大きい場面では、母親を選ぶ。
 父親によるこうした刺激は重要であり、乳児の脳に健康な発達を促し、子供の社会的発達、精神的発達、知的発達に永続的な良い効果を与える。
 乳児期に子供が愛着の関係を樹立する相手は、母親に限らない。
 たいていの乳児は、母親にも父親にも愛着を示す。
 子供が愛着を示す相手は、独立で同等である。
 「安心の愛着」を樹立した子供は、その後の発達のテストにおいて高得点を取る。
 乳児期に確立された愛着の効果は長く続く。

 父親が、子どもの出生直後から子どもに充分に支持的に関与すると、子どもに良い影響を与え、生後7ヶ月の時点や生後3歳の時点で、子どもの言語発達はより良好となり、子どもはより高い知能指数IQを持つようになる。
 アメリカ合衆国政府が出資した教育プログラム Early Head Start (早期ヘッドスタート「さい先の良いスタート」)は、妊婦や乳幼児を対象として、アメリカ国内で行われている。
 このプログラムの主要な内容の一つは、父親が乳幼児への関与を増やすことである。

 ▼幼児期における父親の役割

 幼児期には、子供の行動範囲はさらに拡大する。
 しかし同時に、行動には制限が必要となる。
 この両者の要請を満たす過程で、幼児は、問題解決と他者との共存について学ぶ。
 子供と接する時に、母親は身の回りの世話などの養育行為が多いが、父親は体を使う荒っぽい遊びが多い。
 父親は、荒っぽい遊びを通じて、安全であるが冒険的な場を提供して、世界や他人との付き合い方を子供に学ばせる。
 子供は遊びを通じて世界を学ぶ。
 父親は遊びを通じて世界を子供に紹介する。
 父親は、子供に制限やルールを守るように要求し、行為を一人でできるように励ます。
 それは、問題解決の重要な訓練となる。
 母親は感情を表現する言葉を多く使って、子どもが感情を理解する助けをする。
 これに対して、父親は原因を説明する言葉を多く使って、子どもが論理を理解する助けをする。
 父親は、より長い言葉を使い、より抽象的な言葉を使う。 母親は主に共感によって子供が必要とするものを把握する。
 これに対して、父親は、遊びを通じて子供の考え、感情、希望を理解する。そして子供に何が必要であるかを把握してそれを与える。

 スポーツのような遊びを通じて、感情のコントロールや同僚との協力関係を子供に教えることは、母親よりも父親の比重の方がずっと大きい。父親は、子供が社会と良好で強固な関係を樹立できるように、長期にわたって子供を支援し続ける。
 父親が幼児に強く関与し多く遊ぶと、子供の言語能力や認識能力は向上し、知能指数IQが向上する。

 ▼小学生の頃の父親の役割

 子供が学童期の頃には、父親は、子供に新しいことを経験させて、しかも自分一人でするように促す。
 それができるようになれば、子供には自信が生まれる。
 さらに子供は、自分をコントロールして、その行動を責任を持って成し遂げるようになる。
 この時期に父親が充分に関与すると、自分の成功や失敗は、もっぱら自分の努力が原因であることを理解して、他人のミスを責めなくなる。
 父親は、子供に勤勉の意識を教え、技術を学べば目標を達成できることを教える。
 子供が、新しい挑戦に果敢に立ち向かう能力と自信を獲得するための努力を積み重ねるかどうかは、この時期の父親の係わりかたが非常に重要な意味を持つ。
 子供の道徳的社会的想像力の発達についても、父親が重要な役割を果たす。
 子供に直接に教えたり、自分で手本を示すことによって、正直に誠実に努力すれば、その報酬が得られることを教える。
 学校へ行く年代の子供のうち、父親が多く関与する子供は、学業成績が良い子供である。
 Aの成績をより多く取り、量や言葉の技術が優れている。
 父親が子供に関与すればするほど、子供の認知能力や学業成績は向上し、社会に出てからの成功のチャンスが高まる。

 子どもが6歳の時に父親が子どもに積極的に関与すると、子どもが7歳の時の知能指数IQや学業成績に良い影響を与える。
 また、子どもが7歳の時に父親が子どもに積極的に関与すると、子どもが7歳の時や11歳の時のIQに良い影響を与える。
 特に、父親が子供の学校に関与すると、子供の学業成績に良い影響を与える。
 アメリカ合衆国父親センターとアメリカ合衆国PTAは、父親が学校に関与する度合と子どもの学業成績との関係を調査した結果、父親が学校への関与を増やすように働きかけている。
 母親は感情や人間関係の技術を子供に多く教えるが、父親は生存のための技術や問題解決の技術を子供に多く教える。
 父親は、子供が進んでゆく新しい世界でどうすれば良いかを、子供に説明する。
 ただし、父親が余りに厳格に細かく指示を与えると、子供は父親を頼るようになって、子供に悪影響が及ぶ。
 子供は、感受性が低下し、語彙が少なくなる。
 逆に放任の子育てでは、父親から子供への情報伝達が減って、精神発達の成績は低下する。

 ▼13歳から19歳頃までの父親の役割

 この時期には、子供の自己同一性の確立が重要な課題である。子供は友人と過ごす時間が増え、親と過ごす時間は減る。
 しかし、子供の信念、価値観、将来計画を造りあげる上で、父親と母親は、重要な存在である。
 この時期には、母親の世話が、子供の独立の感覚を侵して、子供と母親のトラブルが増加する。
 しかし、この時期の子供は、母親の精神的サポートに頼り、父親のアドバイスに頼っている。
 父親がそばにいるだけで良い場合もある。
 父親が積極的に関与する子供は、身体的にも精神的にもより健康であり、学業成績が良く、トラブル行動が少なく、犯罪行為が少なく、薬物依存が少ない。
 別居家庭においても、子供が非同居の父親と長時間を過ごして一緒に多くの生活活動を行う場合は、子供の学業成績は向上する。
 また、父子家庭で育った子供の方が、母子家庭で育った子供よりも、独立心が旺盛で、時間に正確である。
 子供の成績については、父親が子供と過ごす時間の長さよりも、関与する質と内容の方が、大きい影響を与える。
 ただし役割モデルとしての影響の大きさは、接する時間の長さに比例する。
 娘は、父親を見て男が何であるかを理解する。
 そして、自分の外見がどう見えるかよりも、自分が何をして自分の心がどうであるかというような自分の中身の方がずっと重要であることを理解する。
 父親が不在の家庭で育った少女は、思春期を早く迎えるなど、年齢変化が速く起きる。
 子供は青年期になっても、他者との関係や将来設計について、父親からアドバイスを得ている。
 それで、子供が思春期を過ぎた頃に、自立を促す目的で、父親が子供への関与を減らしてしまうと、子供の発達の成績は悪化する。

 《 超自我 》

 超自我は、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などと関係する人柄(パーソナリティ)の一部分である。
 超自我は、父親の存在や文化的な統制を、象徴的に内在化させたものである。 少年の超自我は、父親の存在を同一視により内在化させながら形成される。
 フロイトから見れば、超自我の取り込みは、父親の助けによって、父親との同一視が成功したということである。
 超自我が発達するにつれて、教育者や道徳家など、父親以外の人達からの影響を取り込むことが可能になる。
 ジークムント・フロイトはまた、次のように述べている。
 「女性の超自我は、感情に動かされて気ままである」、「女性が行う判断は、愛情や敵意のような感情から多くの影響を受けている」。

 ▼父親が子どもに与える影響

 カナダ政府は、父親が子どもに多く関与すると、次の点で、子供に良い影響をあたえると述べている。

 ・子どもの認知機能の発達

 ・学業成績の向上。より上級の学校に進学すること

 ・問題解決能力

 ・情動の発達。自分の行動に責任を持つこと。衝動的でないこと

 ・自分の感情を適切にコントロールすること

 ・自己受容。落ち込まないこと

 ・社会的発達

 ・同僚とポジティブな関係を作ること

 ・攻撃的でないこと。忍耐力があること

 ・共感して人に関与すること

 こうしたことから、カナダ政府は、父親が子どもに充分に関与することを勧めている。

 「父親の仕事は、子どもの発達を助けることであり、子どもが自分の感情を把握して表現するように教え、生理的な困窮を避けるよう教えることであり、子どもが良い経験をする場を提供することであり、子どもが頑張って目標に到達し責任を果たすのを助けることであり、市民・配偶者・親としての役割を子どもに少しずつ理解させることである。
 手短に言えば、子どものお腹を食べ物で満たし、子どもの頭を知恵で満たし、子どもの心を愛と勇気で満たすことである。」

 〔ウィキペディアより引用〕

   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 『メロディー』 作詞 : 玉置 浩二

 あんなにも 好きだった きみがいた
 この町に
 いまもまた 大好きな あの歌は
 聞こえてるよ
 いつも やさしくて 少し さみしくて

 あの頃は なにもなくて
 それだって 楽しくやったよ
 メロディー 泣きながら
 ぼくたちは 幸せを 見つめてたよ

 なつかしい この店の すみっこに
 置いてある
 寄せ書きの はじのほう
 きみと書いた ピースマーク
 みんな 集まって 泣いて 歌ってたね

 あの頃は なにもなくて
 それだって 楽しくやったよ
 メロディー いつのまに
 大切な ものなくした

 あの頃は なにもなくて
 それだって 楽しくやったよ
 メロディー 泣きながら
 遠い空 流されても

 きみのこと 忘れないよ
 いつだって 楽しくやったよ
 メロディー 泣かないで
 あの歌は 心から 聞こえてるよ

 〔情報元 : uta-net〕



言の葉辞典 『響』①

2023-10-30 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『響』①

 【読み方】

 音読み : きょう
 訓読み : ひびき、ひび(く)

 【意味・由来】

 ひびく。音が周囲に広がる。

 響は「音+音符郷」で、音が空気に乗って向こうに伝わる事。

 ①とどろくこと。
  また、その音や声。
  音響。

 ②こだま。
  反響。

 ③震動。

 ④音や声の末尾。
  余韻。

 ⑤世間に広く知れわたること。
  世の評判。

 ⑥関係が他に及んでいくこと。
  他にさしひびくこと。
  さしひびき。
  影響。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 【予備知識】

 響を解体すると、郷音になり、ひとつの言葉として成立する。
 郷音の読み方は、きょうおん、きょういん。
 意味は、自分の土地の方言。
 お国訛り。
 もう一つの意味は、故郷からの便り。
 郷書、郷信とも言う。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 関連項目 ー 赤ちゃん ー

 赤ちゃんは、産まれたばかりの子供のこと。
 赤子(あかご)、赤ん坊(あかんぼう)とも言う。
 なお、人間以外の動物にも「赤ちゃん」が用いられることがしばしばある。
 乳飲子(ちのみご)と呼ばれることもある。
 生存のために援助を必要とする弱い存在である。
 多くの種で赤ちゃんは愛らしい外見をしており、これは援助を受けやすくするために有利な形質なのではないかとの解釈もある。
 母子保健法は、出生からの経過期間によって、「赤ちゃん」を次のように定義する。

 ・新生児:出生後28日未満の乳児。

 ・乳児:一歳に満たない子供。

 なお、新生児の中でも出生後7日未満の乳児を特に「早期新生児」と呼ぶこともある。
 また、生まれて間もない赤ちゃんのことを嬰児(えいじ、みどりご)と呼ぶこともある。
 日本語の「赤ちゃん」の語は、しばしば出生後(新生児・乳児等)のほか、「お腹の中の赤ちゃん」と表現するように、胎児も含めていうこともある。

 《 語源 》

 「赤ちゃん」の語源は、新生児が多血症気味となり、皮膚色が赤く見えることにある。
 これは、分娩の際に陣痛の圧力で胎盤内の血液が新生児の体内へ絞り出されるためである。

 《 特徴 》

 胎児は母の胎内の子宮で、生存・発育に必要な栄養や酸素のすべてを胎盤・臍帯からの供給に依存している。
 一方、胎児が出生して新生児となった瞬間から、自力で呼吸し、栄養を摂取しなければ生存することもできない。
 このような大きな生存条件(または『ライフスタイル』)の変化は、新生児期を過ぎて後は一生(死亡するそのときを除けば)経験することはない。
 新生児の全身が黄色く染まるのを、新生児黄疸といい、約9割の子供に現れる。
 これは胎児性の赤血球が壊されるために起きる。
 このほか、自力での免疫が著しく未完成である一方で母体からの移行抗体が存在することや、神経が未発達であるゆえに疾病に罹患しても特異的な症状を発見しにくいこと、多くの先天性疾患が発見される時期であることなど、医学上では新生児期は極めて特異な時期であるといえる。
 医学の中で新生児期については新生児学でとり扱われ、医療の分野としては新生児科または未熟児科が相当し、新生児特定集中治療室(NICU)にて実際の医療が行われる。

 生まれて間も無い新生児が、自然と笑顔(のように見える表情)をつくることを新生児微笑(または生理的微笑)と言う。
 笑顔をつくる理由については不明であるが、母親など世話をする周囲の人間の情緒に働きかける効果があるともいわれる。
 チンパンジーにも新生児微笑があることが確認されている。

 《 赤ちゃんの成長と発達 》

 ・生後半年程度までは、母乳あるいは粉ミルクを飲んで育つ。

 ▼不安な赤ちゃんの首すわり

 赤ちゃんの首すわりとは、
    どんな状態のことを言うのか?

 生まれてすぐの赤ちゃんは、頭を自分で支えることができません。
 でも、成長や発達につれて、ゆっくりと自分で頭の動きをコントロールできるようになっていきます。
 首すわりが完成しているかどうかの目安は、赤ちゃんが自分で頭を自由に動かせるかどうか。
 生後3~4ヵ月健診で、あおむけの姿勢から両手でゆっくり引き起こした時に首が後ろや前に倒れない、うつ伏せにした時に首が上げられることなどで、お医者さんは首すわりができているかを判断してくれます。

 (1)立て抱きにしたときに、頭がグラグラしない。

 (2)赤ちゃんの体の両脇を支えたとき、頭をまっすぐに保てる。

 (3)あお向け寝から腕を引いて起こしたとき、頭がたれ下がらない。
 首が、がくんと後ろに倒れたら、まだ首はすわっていません。

 首すわりができる時期は通常、生後3~4ヵ月目とされています。
 ただ、赤ちゃんの成長や発達のスピードには個人差があります。
 この時期に赤ちゃんの首すわりができていないからと言って、心配し過ぎないようにしましょう。

 赤ちゃんの首がすわるまでは、頭と首が安定するような抱き方を心がけましょう。
 また、首すわりする前の赤ちゃんをうつぶせで寝かせないように気をつけましょう。
 首がすわる前の赤ちゃんは首の力が弱く、柔らかい布団の上などでうつぶせ寝をすると、顔が塞がって窒息する危険があります。
 赤ちゃんが眠る時は決してうつぶせにせず、赤ちゃんから目を離さないようにしましょう。

 〔情報元 : Pampers〕
 https://www.jp.pampers.com/

 ・発達の段階には個人差があるが、半年位になるとお座りをするようになり、また、この頃には離乳食を与え始める。

 ▼夜泣き 原因と対処法

 赤ちゃんは泣くのが仕事……昔からよく言われますが、連日続く赤ちゃんの「夜泣き」に疲労困憊しているパパやママも少なくありません。
 慢性的な睡眠不足や疲れがたたって、楽しんで育児ができなくなるばかりでなく、パパやママ自身が体調を崩すこともあります。
 赤ちゃんの「夜泣き」の原因は多岐に渡りますが、ここでは主な原因と、おすすめの夜泣き対策について詳しく解説します。

 夜泣きとは、赤ちゃんが夜間に突然目を覚まして激しく泣くことを指します。
 多くは生後6か月~1歳半くらいに見られ、はっきりとした原因が分からないことも多々あります。
 抱っこする、オムツを換えるなど何らかの対策を講じることで泣くのをやめてスッと寝入ることもありますが、中にはほぼ一晩中泣いているといったケースも見られます。
 一方で、一度も夜泣きをしたことがないという赤ちゃんもおり、夜泣きの発症や時期、程度には大きな個人差があるといえます。

 夜泣きのメカニズムはいまだはっきりとは解明されていませんが、一般的には以下の2つの要因が夜泣きを引き起こすと考えられています。

 ◆何らかの不快感が重なる

 赤ちゃんは言葉で自分の感情を言い表すことができないため、何らかの不快な感覚を覚えた際には大きな泣き声を上げて、周囲に助けを求めます。
 赤ちゃんが生きていく上で、「泣く」行為は切っても切り離せない関係です。
 このような反射的な「泣く」行為は、夜間も生じることがあり、それが夜泣きの原因となっていることも少なくありません。
 具体的には、お腹が空いた、のどが渇いた、オムツが蒸れて気持ち悪い、暑い、寒い、身体のどこかが痛い、かゆいなど、さまざまなものが挙げられます。

 ◆睡眠の未熟さ

 一方、赤ちゃんのノンレム睡眠とレム睡眠は、大人よりも短く約50分で繰り返され、割合は半々であることがわかっています。
 これは、脳の発達を促し、日中に刺激を受けた情報を整理するために脳が活動している状態のレム睡眠が長く必要であるからと考えられています。
 大人と比べて赤ちゃんはレム睡眠の回数が多く、レム睡眠時には眠りから覚めやすくなります。
 この時、何らかの不快感や夢が影響して、ぐずってしまうことがあります。

 また、私たちには朝に目覚め、夜になると眠くなるといった「体内時計」が備わっています。
 赤ちゃんも生後4か月を迎える頃には体内時計の機能が発達して、昼夜の区別がつくようになると言われていますが、その働きはまだまだ未熟です。
 このようなことから、赤ちゃんは眠りが浅く目覚めやすい上に、睡眠リズムも不規則になりやすいために夜泣きするという説が有力視されています。

 〔情報元 : エリエール〕

 ・お座りの次にずりばい(両手を体の下について手だけで移動すること)をし始め、次第にハイハイをするようになる。
 ハイハイはやらないで先につかまり立ちをすることもある。

 ▼何故、赤ちゃんに向かって
  “いないいないばぁ〜”とするのか。

 いないいないばあは、赤ちゃんをあやす時に使う言葉、または動作のことである。

 一般的な動作としては、赤ちゃんの前で自分の顔を両手で覆いながら「いないいない」ととなえ、「ばあ」と同時に両手を顔からどけて赤ちゃんに顔を見せる。英語圏の「いないいないばあ(Peekaboo、Peek-a-boo)」は日本とは少し違い、自分の顔を両手で覆った後「ピーカブー!」と言い、両手を顔からどける。

 発達心理学の概念を用いて言えば、いないいないばあを喜ぶのは、個人差はあるものの、自我が芽生え自己と他者の分離が始まる生後6か月以降の赤ちゃんである。
 いないいないばあをしている相手を他者として認識し、「いないいない」という一時的な分離から再会を予期した後に、「ばあ」と予期通りに再会が叶うことに喜びや興奮を感じているものと思われる。
 なお、赤ちゃんにとっては、顔のみが他人の存在のすべて(幼児に人物の絵を描かせると顔だけを大きく書き、体は申し分程度の大きさしか書かないことが多い)であり、顔を隠すと本当にその人が消えたと思いこむと考えられている。
 個人差はあるが、赤ちゃんは生後満1歳ごろになると、机や椅子などで出来た死角を利用し、自分から大人に対して、いないいないばあのような行動を取るようになる場合がある。
 大人の行動を模倣しているとも見て取れるが、自分から大人をあやすつもりで行動しているわけではなく、単に自分が動くことで、自分にとって大人が一時的に居なくなってから現れたという状況を作り出せることを発見したということであろう。

 ・1歳頃には、壁などにつかまって歩き始めるようになる。

 ▼赤ちゃんが歩き始まる前の心得

 赤ちゃんが歩きはじめるころは、「熱いから触らないでね」や「こっちに行くと危ないよ」などと言葉で伝えてもまだ理解するのが難しい時期です。
 好奇心たっぷりで動き回る赤ちゃんに「ダメ!」と言いながら行動を制限するのはパパやママも疲れてしまうと思います。
 そうなる前に、また、ケガや事故を防ぐために、赤ちゃんが自由に動き回れる環境やスペースを作ってあげましょう。

 ◆歩きはじめのころに多い事故

 ・ビニール袋による窒息

 ・たばこ、薬、電池などの誤飲

 ・浴槽へ転落して溺れる

 ・ベビーカーやソファ、椅子から落ちる

 ・階段から落ちる

 ・窓やベランダから落ちる

 ・転んでテーブルの隅などにぶつける

 などです。
 赤ちゃんの命を守るためにお家の中でも十分な注意が必要です。

 親の機転で「先回りチェック」を欠かさずに。

 ◆歩き始めを応援するには?

 ・赤ちゃんのお気に入りのおもちゃを手が届くくらいの離れた所に置いてみましょう。
 おもちゃを取りに行きたがるかもしれません。

 ・赤ちゃんが自分で押して歩けるように手押し車を与えても良いでしょう。
 座った状態の赤ちゃんがバーを持って立ち上がろうとする時に手押し車がひっくり返ることがなく、安定したものであるかどうかをしっかりと確認しておきましょう。
 安全基準をきちんと満たしたものを購入するようにしたいです。

 ・赤ちゃんがすでに立ち上がることができるのであれば、手が届くぐらいの距離にお気に入りのおもちゃを置き、おもちゃのある場所まで歩けるように応援してあげましょう。

 ・赤ちゃんの手を持って、数歩歩くのを手伝ってあげましょう。

 ・赤ちゃんが安全対策をした家具などに捕まり、伝い歩きをするのを見守ってあげましょう。

 ・赤ちゃんがたくさん動いて、歩くための筋力を強くできるようにしてあげましょう。
 ベビーカー、ベビーベッド、チャイルドシートにいる時間を減らしてあげましょう。

 ◆安全な環境づくり

 赤ちゃんが歩き始めたら、嬉しいだけではなく同時にママの心配も増えてきます。
 特に歩く練習をしている時にはよろめいたり、しりもちをついたりします。
 赤ちゃんが少しよろけてころんでしまっても、ママは落ち着いて、よしよしと抱きしめてあげましょう。
 そしてまた、元気な顔で赤ちゃんを冒険の世界へ送り出しましょう。

 ◆赤ちゃんが靴を履くのはいつから?

 赤ちゃんが外で歩き始めたら、足を守るために靴を購入しましょう。
 つま先がしっかりとした履き心地がよさそうな、軽い素材の靴を選びましょう。
 滑り止め機能がついて、少し余裕がある大きさのものを選んであげてください。
 ベビースニーカーもお勧めです。 この時期、赤ちゃんの足はすぐに大きくなります。
 個人差がありますが、ファーストシューズは2~3か月ぐらいで小さくなってしまうでしょう。
 靴のサイズが赤ちゃんの足にあっているか、大きなサイズの靴に変えたほうがいいのか、毎月こまめにチェックしてあげましょう。
 靴のサイズやデザインが赤ちゃんの足にあったものかどうか、専門家に相談するのもいいアイデアです。

 ・1歳半〜2歳頃には言葉を覚え始める。
 おむつを外し、トイレのしつけ(トイレトレーニング)も始める時期である。

 人生の最初の1,000日(おおよそ2歳の誕生日までの期間)は、生涯にわたる健康、成長、神経発達の基盤が確立される唯一の機会である。

 〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『米』②

2023-10-25 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『米』②

 《偽米(人造米)》

 主にジャガイモやサツマイモ、小麦粉などを原材料として、米の形に成形した物。
 第二次世界大戦中の食糧難の日本で代用食として開発された。
 これらの材料を加熱して潰して小さな粒状にして、それを核として、表面にデンプンをまぶして蒸す工程を数回繰り返し、米状の大きさになったら、乾燥させて水分含有量を減らして保存可能にする。
 食べる時は普通に炊く。製法や形状は粒状のパスタである「クスクス」に類似している。

 戦後の食糧難の時代には政府も生産を奨励したが、その後食糧事情が好転したこともあり、また、製造に非常に手間と時間がかかることと、食味の違い、すなわち所詮は代用食なため、昭和29年をピークに急速に姿を消し、本物の米が余っている現在の日本では作られていない。 現在食糧難の北朝鮮でも代用食として、トウモロコシやサツマイモやジャガイモから偽米が開発・製造されていると言われている。
 こうした米不足による代用品とは異なり、ダイエットや炭水化物の摂取量を抑えるために、野菜やしらたき、おからなどを加工して米飯に近い食べ応えを得ようとする食品・料理が現代日本にある。

 《飯(めし)》

 飯
 (めし、いい、はん、まま、まんま)

 イネ科の穀物全般、とくに米へ水を加えて煮たり蒸したりして炊(焚)いた食品のこと。
 ごはん(御飯、ご飯)とも呼ぶ。

 ▼概要

 「めし」は、「食ふ(食う)」の敬語のうち尊敬語である「召す」に由来する。
 日本語に継続的に生じている「敬語のインフレーション」(初めは尊敬を込めた表現でも、長く使っているとありがたみが薄れて普通またはそれ以下の表現になる)という現象により、現在はややぞんざいな表現になった。
 敬語のうちの丁寧語では「御飯」(ごはん)。幼児語は「まんま」。
 老人語は「まま」。

 加熱しないままの生米に含まれる結晶デンプンをβデンプンといい、糖が鎖状に繋がる巨大分子である。
 人は生米をほとんど消化できず、食べてもうまみを感じない。
 ところが水を加えて加熱することによりβデンプン分子中のいくつかの水素結合が外れて網状になって水分を取り込み粘性を伴って膨張する。
 これを糊化(こか、またはアルファ化)といい、糊化したデンプンをαデンプンという。
 炊飯はこの加水と加熱を行う調理法であり、分子が小さくなったαデンプンは消化や吸収が良くなり、単離された糖により飯にはうまみを感じるようになる。
 この糊化したデンプンを使い、一部には接着剤としての糊(のり)に利用することがある。
 室温以下で保存すると、冷めて冷やご飯となるが、時間の経過と共にαデンプンがβデンプンに戻っていき(デンプンの老化)、硬くなる。
 消化が悪くなり、味も劣化する。
 温め直せばα化する(焼いて作られた食パンをトーストすることに相当する)。
 食事を指す場合には、飯を伴わない食事にも用いられる。
 なお、αデンプンをすばやく乾燥させることにより飯をβデンプンに戻さずに#保存食とすることが古くから行われていた。
 現在ではアルファ化米としてインスタント食品にも利用されている。
 これは凍結乾燥によっても同じ効果があり、冷凍食品として利用される。

 ▼飯の種類

 ・米飯

 米、麦、キビ亜科穀物全般を炊いたものを飯と呼ぶが、特に米であることを明確にする場合は、「米飯」(べいはん)、「飯米」(はんまい)や「米の飯」と言う。
 玄米、白米とも用いられる。
 白米の飯は白く、銀しゃりとも呼ばれる。
 白米の飯は、デンプンの割合が多いほど粘りがある。
 玄米はデンプン以外の栄養成分を多く含む。
 通常はうるち米を用いる。
 もち米を用いることもあるが、これは「おこわ」という。

 ・かて飯

 米に他の食品を混ぜて炊いた飯。

 ・麦飯

 麦だけ、または麦と米を炊いた飯。
 普通は大麦である。

 ・雑穀飯

 米以外の穀物(麦を含める場合と含めない場合とがある)を雑穀とし、これらを炊いた飯、あるいは米と混ぜて炊いた飯を雑穀飯と呼ぶ。
 粟や稗などが利用される。
 米と麦に対して食物アレルギーのため、雑穀飯を食べることもある。
 米と混ぜ、あるいは単独で飯として炊いて食される雑穀は、主にキビ亜科である。
 またソバ、ハトムギ、キヌア、アマランサスも米と混ぜて飯として食される場合があるが、単独で飯として炊かれない。
 トウモロコシも飯として炊かれることもある。

 ・炊き込みご飯

 魚介類や食肉、野菜などを加え、調味し炊いた飯を、「炊き込みご飯」「加薬飯(加薬ご飯)」「五目飯(五目御飯)」などと言う。
 豆は広義の穀物であるが、「豆ご飯」として、炊き込みご飯の1つとされる。

 ・混ぜご飯

 炊いた飯に、調味した食肉や野菜などを混ぜたもの。

 ・おこわ

 もち米を、主に蒸して炊いた飯を「おこわ」、「強飯(こわめし)」、「蒸飯(むしめし)」などとよぶ。
 もち米以外の食品を加えることもある。
 アズキまたはササゲを加えた場合は「赤飯」、「赤の飯(あかのまんま)」などとよび、祝賀に用いる。
 法要などにはアズキ等を加えず白いまま、あるいは黒豆を加えたおこわを用いる。
 また、特に加えた食品の名を頭につけて、山菜おこわ、栗おこわ、等と呼ぶ。

 ◆穀物の代用品による「飯」

 カロリーや糖質の摂取量を抑えることなどを目的として、上記のような穀物を減らすか、まったく使わずに飯に近い食感や食べ応えを味わえるようにした市販食品や家庭料理も存在する。
 代用品となるのはおから、しらたき、鶏肉の挽肉、カリフラワー、ブロッコリー、キャベツの芯などである。

 《文化》

 ▼信仰・民俗

 日本文化においては、単なる食糧品に止まらず、古神道や神道における稲作信仰に起因する霊的価値を有する穀物である。
 地鎮祭や上棟式、農林水産の職業的神事、また日本各地の祭りで、御神酒や塩などとならび供物として奉納される。
 天皇が五穀(中心となるものはコメ)の収穫を祝う新嘗祭(「勤労感謝の日」として国民の祝日となっている)は宮中における最も重要な祭祀であり、天皇即位後最初の新嘗祭である大嘗祭は、実質的な践祚の儀式と認識されている。

 「米」の字を分解すると八十八とも読めることから、付会して八十八行程を経て作られる、八十八の神が宿る、
 また「八十八人の働きを経て、はじめて米は食卓にのぼるのであるから、食事のたび感謝反省しなくてはならない」など、道徳教育のための様々の訓話が構成された。

 日本のみならず、東アジアにおいてはイネを精霊の宿る神聖な作物とみなし、これに不敬な行為を行うと食物より滋養は得られず、また田畑に蒔いても凶作を呼ぶと言い伝えられている。
 伏見稲荷大社では、秦の長者が餅を的にして矢を射たところ、餅が白い鳥となって飛び山峰にとまったため、彼が鳥をイネの精霊と気づいてそこに神社を建てこれを祭ったことが起源とされている。
 なお、異説では精霊を祭った秦の長者には不毛は訪れなかったが、ただ餅を射ただけの富裕者は天罰を受け没落したともいわれる。
 米が貴重だった昔、黒瀧寺(徳島県)周辺には「米養生」という習慣があった。
 重病人の枕元で、生米を竹筒に入れて振った音を聞かせると治るという俗信である。

 ▼風習

 沖縄県では、お中元またはお歳暮に真空パックされたお米を親戚へ渡す風習がある。

 ▼米に関する語

 古くはイネ科の植物の穀物について広く「米」という単語が用いられていた。
 古来、稲が生産されていなかった華北(漢字発祥の地)では、長くアワ(粟)に対して用いられていた。
 中国後漢の許慎が著した漢字の解説書『説文解字』において、「米…粟實也。象禾實之形」(禾=粟)と書かれ、米即ちアワの実であると解説されている。
 現在の中国語では、イネ科の植物にとどまらず、米粒のような形状をしたものも米と呼ぶ例が多い。
 例えば、「海米、蝦米」は干した剥きエビ、「茶米」は烏龍茶などの粒状の茶葉などを指す。
 「米」という漢字自体は籾が四方に散った様子を描いた象形文字である。
 しかし、この字形から「八十八」と分解できると見立てて米寿などの言葉に利用されている。
 また、日本では水稲を作る際の手間の多さを「籾から育てて食べられる様にするまでに八十八の手間がかかる」とたとえられている。
 また、「八木」と分解することも可能であることから、「八木(はちぼく/はちもく)」が米の異称として用いられた。

 『岩波 古語辞典』は、「うるしね」(「しね」は“稲”の意の古語)の項で、“米”を表す日本語「うる(ち)」(粳)、マレー語 'bəras',アミ語 'fərats'; 'vərats',古代ペルシア語 'vrīzi',古典ギリシャ語 'oryza',イタリア語 'riso',英語 'rice' などを、すべてサンスクリット 'vrīhih' にさかのぼるものとしている。
 なお、新聞やテレビのニュースにおいては、米国(アメリカ)の略である「米(べい)」との混同を避けるため、「コメ」とカタカナで表記するのが一般的になっている。

 ▼米に関わる語彙

 ★粃・秕(しいな)

 稔実が不良で残る籾のこと。中身がなく軽いため、脱穀した籾を風に舞わせたり水に浸したりして選別する。

 ★糴(テキ かいよね)/ 糶(チョウ うりよね)

 中国や日本で米の備蓄と価格安定を目的として政府などが過剰時には買い上げ、不足時に売り払った制度(常平倉、義倉など)において、買い入れ備蓄することを「糴」、備蓄米を売り払うことを「糶」といった。

 ★舎利(しゃり)

 サンスクリットで米を意味するシャーリ(サンスクリット語: शालि, śāli)と、同じ仏教語として遺骨を意味するシャリーラ(śarīra、身体。仏舎利を参照)がどちらも「舎利」と音写された結果、両者が混同されて「米は細かい骨に似ている事から舎利とも呼ばれる」と考えられるようになった。
 白米が珍しかった時代には、玄米と区別する意味で白米を銀シャリとも言った。
 現在では主に寿司屋の隠語で酢飯の事を指す。

 ★餉(かれい、げ)

 「かれいい」の転化。
 「糒」(ほしい)と同義。
 米を蒸すか炊いて飯にしたもの乾燥して保存食や携帯食にし、水に浸して食べた。
 朝餉(あさげ)、午餉(ひるげ)、夕餉(ゆうげ)はここからきたもの。

 ★糗(はったい)

  米を煎って粉にした食材。糖化して香りが立つため「香米」とも呼ばれる。
 米以外のイネ科の穀類から作られたものも糗と呼ばれ、はったい粉として知られる。

 ★粢(しとぎ)

 米粉やもち米から作る、米を粉状にして水で練っただけの加熱しない餅のこと。
 地方によっては「しろもち」「からこ」「おはたき」「なまこ」などと呼ばれる。
 米を食する最も古い方法の1つだったとされ、後には常食の炊飯とは異なり神饌として奉じられた。

 ★糈(奠稲、供米、くましね)

 精米した舂米(つきしね)を神前に捧げるために洗い清めた米。
 そのまま奉じる場合は「粢」と同様に「しとぎ」と言った。
 「かしよね」「おくま」とも。

 ★こめかみ

 頭の両側の側頭骨ならび側頭筋の在る箇所。
 米を噛む時にこの部分が動くことからその名が付けられた。

 ★コメツキバッタ

 米を搗く様な動作をする事が語源となった。
 転じてペコペコ頭を下げる様子も表す。

 ★コメツキムシ

 仰向けにすると、自ら跳ねて元に戻る能力があり、その動作が米を搗く動作に似ている事が名前の語源となっている。
 神社や祝詞では、白米を和稲(にぎしね)。
 玄米を荒稲(あらしね)と呼ぶことがある。

 ▼米に関する諺

 ・米俵一俵には7人の神様が乗っている。
 ・米を一粒無駄にすると目が一つ潰れる。
 ・年貢の納め時。

 ▼派生した俗語

 大相撲の隠語で、お金のこと。
 相撲部屋において将来有望な力士を「米びつ」ともいう。

 《俵(単位)》

 ▼俵(ひょう)

 米穀などの産品の取引や流通のために使用される単位である。
 尺貫法の体系から独立した特殊単位で、具体的な量は対象品目ごとに異なる。
 米以外にも雑穀、木炭、食塩、綿花など、かつて俵(たわら)で流通したさまざまな産物に適用された。
 元来は1つの俵に入れる体積の単位であったが、現在は質量の単位である。
 1952年(昭和26年)の計量法においては尺貫法と同様に、同法で規定されていない非法定計量単位として使用が禁止され、法的根拠を喪失した。
 そのため現在は、俵の量目は取引慣行により定められる。

 現在の米穀取引の実務における1俵は60 kgとされている。

 かつて米の計量は枡を基準とし、体積で計量され流通したため、俵は体積を表す単位だった。
 文献で最初に記載されている俵についての記述は、平安時代のもので5斗で1俵とするという規定が残っている。
 この時代の斗量は現在とは異なり、現在の定説では、当時の1斗は現在の0.4斗である。
 したがって、当時の1俵は約30 kgである。
 戦国時代から江戸時代の1俵はおおむね2斗から5斗の間で時代・土地ごとに異なり、例えば幕府は1俵を3斗5升としたが、加賀藩の1俵は5斗であった。
 またそもそも俵自体にも、四斗俵や六斗俵などいろいろなサイズがあって、規格が一定していなかった。
 俵が容量単位として統一されたのは明治時代である。
 ただし全国的な法規はなく、根拠法規は各県ほぼ共通する内容の「○○県米穀検査規則」という県令である。
 同規則の中で各県の検査機関が行う米穀検査に使う俵の容量は「4斗」と定められ、同時に俵の寸法や構造が標準化された。
 未検査の米は流通が禁じられていたので、以後は一俵 = 4斗が事実上の統一基準になった。
 1斗はメートル法換算で18.039リットルと法定されていたので、明治時代の一俵は72.156リットルである。
 米1斗の質量は約15 kgなので、1俵は約60 kgとなる。

 かつては60 kgの米俵を担ぎあげて運ぶことができれば、一人前の労働者とみなされた(世界大百科事典)。
 1俵は労働者一人が担いで運ぶ量であり、2俵は馬一匹の積載量であったため、米の出荷・保管・輸送に便利であった。
 タイなど海外ではいまだに60キロ袋が米の流通に使用されているが、重労働に慣れない現代日本人には60 kgの米俵を扱うことは難しくなり、出荷流通の米袋は「半俵」の30kg入りの紙袋包装が普通となった。

 ▼「石」と「俵」

 「石」と「俵」はどちらも米の量であるが、一石は兵一人が一年に食べる量とされて軍事動員力を示す石高制の基礎単位、俵は単に米を流通のため包装する単位で、そもそも性格が異なる。
 江戸時代の武士の収入には「石」と「俵・扶持」の表記があるが、領地を与えられ、そこから収納する石高の年貢を収入とする建前の上・中級階層が「石」、領地を持たず、米の現物支給を受ける軽輩の収入が「俵・扶持」で表されたのである(蔵米知行)。
 知行の換算は、 米1俵 = 1石 = 金1両(名目レート)また蔵米5俵 = 1人扶持(1日5合換算の端数切り上げによる)であった。
 なお、幕府の御家人の知行1石が蔵米1俵に相当するのは、以下の通りの計算である。
 天領の税率が四公六民なので、知行1石からは武士に対しては4斗の収益となる。
 これを精米することにより約3斗5升となり、蔵米の精米1俵分とほぼ同等となる。

 《石(単位)》

 石(こく)は、尺貫法における体積(容量)の単位の一つ。

 古代の中国においては、「石」は質量の単位であった。
 現在は質量の単位としては「担」、体積の単位としては「石」と書く。
 日本では専ら体積の単位としてのみ用いられた。

 ▼概要

 米の1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当する。
 日本では、1食に米1合、1日3合が概ね成人一人の消費量とされているので、1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされ、示準として換算されてきた(1000合/1日3合で333日分)。
 面積を表す日本の単位である反は、元は米1石の収穫が上げられる田の面積として定義されたものであった。
 また容積単位としての石は、10立方尺を指す。例として材木の材積を示す場合、1石は「1尺×1尺×10尺」である。
 下位単位の1立方尺は才。 1951年(昭和26年)の計量法により尺貫法の使用が禁止され、公式には使われなくなった。
 現在は、材木取引など一部の商慣行に残るのみである。

 ▼歴史

 日本では文字としては「石」を書くが、発音は「斛」に由来する「コク」を使用する。
 1000石以上の場合は「ゴク」と濁る。
  新京枡に統一された近世初期の寛文9年(1669年)に現在と同じ容量となった。
 現行の新京枡における1升は、縦横0.49尺、深さ0.27尺で0.064827立方尺(=0.49尺×0.49尺×0.27尺)であり、よって、1石は6.4827立方尺となる。
 船の積載量や木材の体積を表すときには、1石=10立方尺(約278リットル)としている。
 明治時代を迎え、米1俵が4斗と規定されて、2.5俵が1石となった。
 またメートル法を採り入れるにあたっては、日本では明治19年(1886年)の条約批准後、メートルを基準にして1升=約1.8039リットルと定められ、よって、1石は約180.39リットルということになった。

 ◆中国

 本来「石」はセキと読み、質量の単位であった。『孔叢子』に「鈞四謂之石」(4鈞を石という)、『淮南子』に「四鈞為一石」(4鈞で1石を為す)とあり、1鈞は30斤なので1石は120斤となる。例えば、漢代の斤は約258グラムであったので、1石は約31キログラムとなる。(林甘泉氏の『中国経済通史--秦漢経済巻』では、1石は約13.5キログラムと書かれている) 『漢書』律暦志では、体積の単位としては「斗」の10倍の「斛」(コク、hú)があり、一方質量の単位としては「斤」の120倍の「石」(セキ、shí)があった。しかし、「石」を体積の10斗の意味で使った例が『史記』など古代の文献にも見られる。 宋代には体積の単位として10斗が1石、5斗が1斛と定められ、以降、中国において「石」と「斛」は別の単位となった(zh:斛)。 近代にはこれとは別に天秤棒を意味する「担(擔)」が単位として使われるようになり、これが「石」と混同して使われるようになった。現在の中国の市制では体積に「石」(= 10斗、100L)、質量に「担」(= 100斤、50kg)の字を使用するが、どちらも発音は「担」に由来する「dàn」である。現在の質量の単位については「担」を参照。

 かつて、香港において120斤の「石」が英語で stone と直訳されていたことがあった。ヤード・ポンド法の質量単位に同音同綴異義語(cf. 同綴異義語)であるストーンがあるが、香港の尺貫法の石は72.5747784キログラム(=160ポンド)、ヤード・ポンド法のストーンは約6.4キログラム(=14ポンド)と、その値は大きく異なる。 「斛」は現代の中国では使われていない。

 ◆朝鮮

 朝鮮では、漢字表記は「石」で、発音もその漢字音「석(ソク)」と読むが、この単位が俵一つの容積にあたることから、固有語で俵を意味する「섬(ソム)」を使用するのが一般的であり、「苫」という漢字を宛てて表記する場合もある。
 1石の容量は180リットルだが、穀物の種類や状態によって重さが変わる。
 籾は 200 kg、米は 144 kg、精麦は 138 kg。
 1石は10斗である。
 しかし、新羅時代には元々15斗であった。

  〔ウィキペディアより引用〕


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 『君がいるだけで』作詞 : 米米Club

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 何より大切なものを 気付かせてくれたね

 ありがちな罠に つい引き込まれ 思いもよらないくやしい涙よ
 自分の弱さも 知らないくせに 強がりの汽車を 走らせていた

 めぐり逢った時のように いつまでも変わらず いられたら
 Wow Wow True Heart

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 何より 大切なものを 気付かせてくれたね

 裏切りの鏡に 映しだされた 笑顔につられて 流された日々
 はかないものへの 憧れだけで すぐ目の前にあることを 忘れてた

 なぜにもっと 素直になれなかったのだろう 君にまで
 Wow Wow True Heart

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 何より大切なものを 気づかせてくれたね

 True Heart 伝えられない True Heartわかって
 True Heart 見えないものを True Heart 見つめて

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 いつでも いつの時も 二人は お互いを見つめてる

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 いつでも いつの時も 二人は お互いを見つめてる

 〔情報元 : Uta-net〕