CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

世界の女傑たち Vol.003−②

2023-10-11 21:00:00 | 自由研究

 ■エリザベス一世(イングランド女王)

 ▼メアリーと陰謀事件

 すぐにメアリーは反乱の焦点となった。
 1569年、北部諸侯の反乱(英語版)の首謀者たちは彼女の解放とノーフォーク公トマス・ハワードとの婚姻を策動した。
 反乱は鎮圧され、エリザベスはノーフォーク公を断頭台へ送った。
 1570年、教皇ピウス5世は「レグナンス・イン・エクスケルシス」と呼ばれる教皇勅書を発し、「イングランド女王を僭称し、犯罪の僕であるエリザベス」は異端であり、全ての彼女の臣下を忠誠の義務から解放すると宣言した。
 これによって、イングランドのカトリックはメアリーをイングランドの真の統治者と期待するさらなる動機を持つようになった。
 メアリー本人のイングランド王位を狙う陰謀への加担の真偽は諸説あるが、1571年のリドルフィ陰謀事件(英語版)から1586年のバビントン陰謀事件(英語版)までに、エリザベスのスパイ組織のリーダー・フランシス・ウォルシンガムと枢密院は彼女の事件について激しく論議している。
 当初、エリザベスは彼女の死を求める意見に反対していたが、1586年後半にはバビントン陰謀事件でのメアリーの自筆の手紙の証拠を以って彼女の裁判と処刑に同意させられた。
 同年11月のエリザベスの判決は「同国王位を僭称するメアリーは同国の共犯者とともに我が国王を傷つけ、殺し、破壊しようと企てた」と宣告した。
 エリザベスはメアリーの死刑執行を躊躇い続け、執行状に署名した翌日でさえ国務次官ウィリアム・デヴィソン(英語版)を「急ぎすぎる」と叱責している。
 1587年2月8日、メアリーはノーサンプトンシャーのフォザリング城(英語版)で斬首された。

 処刑が執行されるとエリザベスは廷臣たちを罵倒し、怒りの矛先を向けられたデヴィソンはロンドン塔へ送られてしまう。

 ー処刑はスコットランド、フランスそしてスペインなど諸外国からの強い非難を引き起こすことになり、アルマダ海戦の原因ともなった。

 ▼戦争と外交

 エリザベスは1559年から1560年にかけてスコットランドへ出兵した。
 またユグノー戦争でユグノー貴族を支援したが、見返りに受け取るはずだったル・アーヴルの占領に失敗した(1562年10月〜1563年6月)。
 エリザベスはル・アーヴルとカレー(1558年にフランスに奪回されている)との交換を考えていた。
 ユグノーとの絆は近代の大英帝国を約束した。
 1585年に彼女はカトリック勢力を打倒するためにオランダのユグノーとノンサッチ条約(英語版)を締結している。
 ユグノーと艦隊を動かしエリザベスは攻勢的な政策を追求した。
 これは対スペイン戦争で成果を挙げ、戦闘の80%が海上で行われた。
 彼女は1577年から1580年にかけて世界を一周し、スペインの港湾や艦隊を襲撃して名声を勝ち得たフランシス・ドレークをナイトに叙爵している。
 女王は彼らをほとんど統制できなかったが、海賊行為と富の追求がエリザベス朝の船乗りたちを駆り立てていた。

 ▼ネーデルラント派兵

 ル・アーヴル占領の失敗の後、エリザベスはフェリペ2世に敵対するネーデルラントのプロテスタント反乱軍(英語版)を支援するために英軍を派遣するまで、大陸への派兵は避けて来た。
 これは1584年のオラニエ公ウィレム1世(オランダ人勢力の指導者)とアンジュー公フランソワ(反乱軍を支援していた)の死去とスペイン領ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼによるネーデルラント諸都市占領を受けてのことであった。
 1584年12月に成立したフェリペ2世とフランスのカトリック同盟との連合によって、フランス王アンリ3世のネーデルラントにおけるスペイン帝国の支配に対抗する力は大きく減退していた。
 これによってスペインの勢力が、カトリック同盟の勢力が強いフランスの英仏海峡沿岸地域にまで伸ばされ、イングランドは侵略の脅威にさらされることになった。
 1585年のパルマ公によるアントウェルペン包囲はイングランドとオランダ人に何らかの対応を必要とさせた。
 その結果、同年8月にエリザベスがオランダ人への軍事援助を約束するノンサッチ条約(英語版)が締結された。
 この条約が1604年のロンドン条約(英語版)まで続くことになる英西戦争の開戦となる。

 ▼アルマダの海戦

 エリザベスは財政難を補うため私掠船に私拿捕特許状を与え、植民地から帰還途上のスペイン船を掠奪させており、私掠船長のフランシス・ドレークは1585年から1586年に西インド諸島のスペイン諸港と船を襲撃する航海を敢行し、1587年にはカディスを襲撃してイングランド経営計画 (Enterprise of England) を企図するスペイン艦隊の船舶の破壊に成功していた。
 このため、フェリペ2世は遂にイングランドとの本格的な戦争を決意する。
 1588年4月29日、スペイン無敵艦隊がパルマ公率いるスペイン陸軍をネーデルラントからイングランド南東部へ輸送すべく英仏海峡へ向けて出港した。
 無敵艦隊には幾つもの誤算と不運が重なり、イングランド軍による火船攻撃によって混乱した無敵艦隊は7月29日のグラヴリーヌ沖で敗北し、艦隊は北東へ潰走した。
 帰路、アイルランド沿岸で嵐に巻き込まれて大損害を出したスペイン艦隊残余は散りぢりになって本国へ帰還した。
 無敵艦隊の運命を知らないイングランド民兵がレスター伯の指揮の元での国土防衛のために召集されていた。
 8月8日、彼はエリザベスを閲兵のためにエセックス州ティルベリー(英語版)へ招いた。ビロードのドレスの上に銀色の胸当てを着た彼女はここで最も有名な演説 (en) を行った。

 我が愛する民よ、私は私の身を案じる者たちから忠告を受けて来た。
 謀反の恐れがあるから武器を持った群衆の前に出るのは気をつけよと。
 しかし、私は貴方たちに自信を持って言う。
 私は我が忠実かつ愛すべき人々を疑って生きたくはない。(中略)
 私はか弱く脆い肉体の女性だ。
 だが、私は国王の心臓と胃を持っている。
 それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう。

 侵略軍は襲来せず、国民は歓喜した。
 セント・ポール大聖堂でのエリザベスの感謝の祈りを捧げる行列は彼女の戴冠式に匹敵する壮観なものであった。
 無敵艦隊の撃退はエリザベスとプロテスタント・イングランドにとって強力な宣伝となる勝利であった。
 イングランドは彼らの救済を神の恩寵そして処女王の下の国家の不可侵と受け取った。
 しかしながら、この勝利は戦争の転換点とはならず、戦いは続き、しばしばスペインが優勢ともなった。
 スペインは依然としてネーデルラントを支配しており、侵略の脅威は依然残っていた。
 イングランド艦隊は反撃に出て翌1589年にポルトガルを攻撃するが、目的のスペイン艦隊を捕捉できなかった上に多くの損害を出しエリザベスを激怒させる結果に終わった(イングランドの無敵艦隊(英語版))。
 1590年以降、イングランドは西インド諸島を度々攻撃し、1596年にはチャールズ・ハワード卿および寵臣ウォルター・ローリー、エセックス伯ロバート・デヴァルー率いる艦隊がスペインの要衝カディス港襲撃に成功している。

 1600年にモロッコのスルターンであったアフマド・マンスール・ザハビーは、エリザベス1世と協力してスペインに対抗するため、アブドゥルワーヒド・ブン・マスウード・ブン・ムハンマド・アンヌーリーなどからなる使節団をイングランドの宮廷に派遣し、協議を行っている。

 ▼フランス王アンリ4世への支援

 1589年にプロテスタントのアンリ4世がフランス王位を継承すると、エリザベスは彼に援軍を送った。
 これは1563年に失敗に終わったル・アーブル占領以来のフランスへの軍事的冒険だった。
 アンリ4世の継承はカトリック同盟とフェリペ2世から強く異議を唱えられており、エリザベスは海峡諸港をスペインに奪われることを恐れていた。
 しかしながら、この後のフランスにおけるイングランド軍の軍事行動は秩序を欠き、効果のないものだった。
 兵4,000を率いるウィラビー卿(英語版)は、エリザベスの命令を無視して行動し、ほとんど戦果もなく北フランスを徘徊しただけだった。
 彼は半数の兵を失い、1589年12月に無秩序に撤退した。
 1591年に兵3,000を率いてブルターニュで戦った ジョン・ノリス(英語版)はより悲惨な結果に終わっている。
 これらの遠征において、エリザベスは司令官たちの補給や増援の要請を出し渋っていた。
 ノリスは自らロンドンへ赴き支援を嘆願している。彼の不在中の同年5月にカトリック同盟はクランの戦いで英軍の残余を撃滅した。
 7月、エリザベスはアンリ4世のルーアン包囲を援助すべくエセックス伯率いる軍隊を派遣した。
 結果は惨憺たるものだった。
 エセックス伯は何らなすことなく1592年1月に帰国し、アンリ4世は4月に解囲を余儀なくされた。
 この時もエリザベスは海外へ赴いた司令官を統制することができなかった。
 「彼は何処にいて、何をしているのか、何をするのか」「私たちは全く知らない」と彼女はエセックス伯に書き送っている。

 ▼アイルランド

 アイルランドはエリザベスの支配する2つの王国の一つであったが、彼女はカトリック住民の敵意に直面し、彼らは女王の敵たちと陰謀を企てた。エリザベスの政策は叛徒たちがスペインにイングランドを攻める基地を与えることを防ぐべく、自らの廷臣たちに土地を与えることであった。
 一連の反乱に対して、英軍は焦土作戦を採り、土地を焼き払い、男も女も子供たちも虐殺した。
 1582年のジェラルド・フィッツジェラルド(英語版)率いるマンスターでの反乱の際には、約3万人のアイルランド人が餓死に追い込まれている。
 詩人エドマンド・スペンサーは犠牲者たちは「如何なる石の心でも後悔したであろう、このような惨めさをもたらされた」と書き記している。
 エリザベスは「残忍で野蛮な民族」であるアイルランド人を丁重に扱うよう司令官たちに忠告したが、暴力と流血が必要であると思われた時には彼女は何らの良心の呵責も示さなかった。

 1594年から1603年にかけて、エリザベスはティロンの乱(またはアイルランド九年戦争(英語版))の名で知られるアイルランドにおける最も厳しい試練に直面した。
 指導者ティロン伯ヒュー・オニールはスペインの援助を受けていた。
 1599年春、エリザベスは反乱の鎮圧のためにエセックス伯を派遣した。
 だが、エセックス伯はほとんど戦果を挙げることもなく、そして許可を受けずに帰国してしまい、彼女を苛立たせた。 
 エセックス伯はマウントジョイ男爵チャールズ・ブラント(英語版)と交代させられ、ブラントは反乱軍の撃破になお3年を要した。
 1603年、オニールはエリザベスの死の数日後に降伏した。

 ▼晩年

 1588年のアルマダの戦いでの勝利の後、エリザベスには新たな困難がもたらされ、それは彼女の治世の終わりまで15年間続いた。
 「囲い込み」によって発生した大量の難民に対処しきれず、発布した「エリザベス救貧法」も効果がなかった。
 またスペインやアイルランドとの戦争はだらだらと長引き、税はより重くなり、経済は凶作と戦費によって打撃を受けた。物価が高騰し、生活水準は低下した。
 この時期、カトリックへの弾圧が激しくなり、1591年にはカトリック世帯への訊問と監視権限が与えられた委員会が設置されている。
 平和と繁栄の幻影を維持するために、エリザベスは次第にスパイとプロパガンダに依存するようになった。
 治世の最後の数年間の批判の増大は民衆の彼女への好意の衰えを反映している。
 この時期がしばしば、エリザベスの「第二期治世」と呼ばれる由縁は1590年代のエリザベスの統治体制である枢密院の性格の違いによる。
 新たな世代が台頭していた。
 バーリー卿を別として、ほとんどの有力な政治家が1590年前後に世を去り、レスター伯は1588年、フランシス・ウォルシンガム卿は1590年、クリストファー・ハットン(英語版)卿は1591年に死去していた。
 1590年代以前には目立っては存在しなかった政府内の派閥闘争が際立った特徴となっている。
 国家における最有力の地位をめぐるエセックス伯とロバート・セシル(バーリー卿の子息)そして各々の支持者間の激しい闘争が政治を損なった。
 エリザベスが信頼する医師ロペス博士の事件でも明らかなように、女王個人の権威は軽んじられていた。
 エセックス伯の個人的な悪意によってロペス博士が反逆罪で告発された時、彼女はこの逮捕を怒り、無実であると信じていたにもかかわらず、処刑を止めることができなかった。

 エリザベスが老い、結婚もありえそうになくなると、彼女のイメージは次第に変わっていった。
 彼女はエドマンド・スペンサーの詩集『妖精の女王』ではベルフィービ(英語版)またはアストライアーそしてアルマダの海戦以後は永遠に老いることのない女王グロリアーナ(英語版)として描写されている。
 彼女の肖像画は次第に写実的ではなくなり、実際の彼女よりも若く見えるより謎めいたイコンとして描かれるようになっていった。
 実際の彼女の肌は1562年に罹患した天然痘の痕が残り、髪は半ば禿げあがり、カツラと化粧に頼っていた。
 ウォルター・ローリー卿は彼女を「時間が驚かされた貴婦人」と呼んだ[190]。しかしながら、彼女の美貌がより失せるとともに、廷臣たちはより一層、褒め称えるようになった。
 エリザベスはこの役を演じることを楽しんだが、彼女の人生の最後の10年間に彼女は自らの演技を信じ込むようになり始めた可能性がある。
 彼女は魅力的な、だが無作法な若者であるエセックス伯ロバート・デヴァルーを溺愛して甘やかすようになり、彼は(女王が許す限り)傍若無人に振る舞った。
 エセックス伯が戦場で無能ぶりを晒し続けるにもかかわらず、彼女は彼を幾度も軍事的な地位につけている。
 1599年にエセックス伯がアイルランドの戦場から逃亡すると、エリザベスは彼を自宅軟禁に置き、翌年には彼の独占特許状を奪い取った。
 1601年2月にエセックス伯はロンドンで反乱を起こして女王の拘束を企てたが、彼を支持する者は僅かしかいなく反乱は失敗に終わり、彼は2月25日に斬首された。
 エリザベスは自らの判断の誤りが、この事態を招く一端になったと感じた。「彼女の喜びは闇に閉ざされ、しばしばエセックスのために嘆き悲しみ涙を流した」と1602年のある観察者は記録している。

 エリザベスの治世の最後の数年間、彼女は議会により一層の特別補助金を要請するよりも、元手のかからない利益供与である独占特許状の授与に頼るようになった。
 このやり方はすぐに価格操作をもたらし、民衆の犠牲によって廷臣たちが潤うようになり、怨嗟が広まった。
 これは1601年議会での庶民院のアジテーションで頂点に達する。
 1601年11月30日の有名な「黄金演説(英語版)」で、エリザベスは権利濫用を知らなかったと告白し、不法な独占特許状の撤廃の約束と彼女のいつもの情緒的なアピールで議員たちを味方に引き込んでいる。

 私ほど臣下を愛する国王はいないでしょう、何者も私の愛と比べるべくもありません。
 私の前にある宝石ほど価値のある宝石はありません。
 それは貴方達の愛です。(中略)
 神が私を高い地位に上げて下さいましたが、私は貴方達の愛とともに統治をしてきたことこそ、我が王冠の名誉だと思うのです。

 この経済的、政治的に不安定な時代、イングランドにおいてこの上ない文学が開花した。
 新しい文学運動の最初の印はエリザベスの治世の30年目ごろの1578年に発表された、ジョン・リリーの『ユーフュイズム』 (Euphues) とエドマンド・スペンサーの『羊飼いの暦(英語版)』である。
 1590年代、ウィリアム・シェイクスピアやクリストファー・マーロウといったイギリス文学の巨匠たちが円熟期に入っている。
 この時期と続くジャコビアン時代(ジェームズ1世治世)、英国演劇は最高潮に達した。
 エリザベス時代の概念は主にエリザベスの治世下で活躍した建築家、劇作家、詩人そして音楽家に依っている。
 女王は芸術家の主たるパトロンにはならなかったので、彼らが直接女王に恩を負うことはほとんどなかった。

 ▼崩御

 1598年8月4日にエリザベスの首席顧問官バーリー卿が死去した。
 彼の政治的責務は彼の息子ロバート・セシルに引き継がれ、彼はすぐに政府首班となった。
 彼に課せられた任務の一つが円滑な王位継承の準備であった。
 エリザベスが後継者の指名をしなかったため、セシルは秘密裏に進めざるをえなかった。
 それ故に彼は有力だが公認されていない王位継承権を持つスコットランド王ジェームズ6世との暗号を使った秘密交渉に入った。
 1602年秋まで女王の健康状態は良好だったが、友人たちの死が続き、彼女は深刻な鬱病に陥った。
 1603年2月のノッティンガム伯爵夫人キャサリン・ハワード(英語版)の死去はとりわけ衝撃となった。
 3月に彼女の健康状態が悪化し「座り込み、そして拭いがたい憂鬱」のままとなる。
 4日間座り続け、1603年3月24日午前2時か3時、エリザベスはリッチモンド宮殿(英語版)で崩御した。69歳没。

 数時間後、セシルと枢密院は彼らの計画を実行に移し、ジェームス6世をイングランド王であると宣言した。
 エリザベスの棺は夜間に松明を灯した艀に乗せられて川を下りホワイトホール宮殿へ運ばれた。
 4月28日の葬儀では棺は4頭の馬に曳かれた霊柩車に乗せられてウェストミンスター寺院へ移された。
 ジェームズ6世の他にも幾人かの王位継承権者がいたが、権力の移管は円滑に進められた。
 ジェームズ6世の王位継承はヘンリー8世の定めた第三継承法と彼の妹メアリー・テューダーの系統が優先されるという遺言を無視していた。
 これを調整するために議会は「1603年王位継承法(英語版)」を可決した。
 議会が法令によって王位継承を統制できるか否かは17世紀を通じての議論となっている。

 関連項目 ー エリザベス朝 ー

 エリザベス朝
(エリザベスちょう)
 (Elizabethan era)

 イングランド王国のテューダー朝のうち、特にエリザベス1世の治世期間(1558年 - 1603年)を指す時代区分である。
 しばしばイングランドの黄金期と呼ばれる。

 対外的にはスペインの無敵艦隊を破るなど国威を示し、内政的にはプロテスタントとカトリックの対立を終息させ、国力を充実させた。
 これにより、芸術、文芸も栄え、イギリス・ルネサンスの最盛期となった。また、イギリス・ルネサンス演劇も賑わいを見せ、とりわけウィリアム・シェイクスピアによる従来の様式を打ち破った演劇は話題となった。
 文学の分野で「エリザベス朝」という言葉が使用される場合、その後のジェームズ1世(1603年 - 1625年)およびチャールズ1世(1625年 - 1649年)の在位期間を含めることが多い。
 エリザベス1世の頃にはウィリアム・シェイクスピアが現れ、現在に残る戯曲の多くを残した。
 シェイクスピアはソネットなどにも大きな足跡を残した。
 クリストファー・マーロウなどによっても多くの詩文が残され、英文学の大きな財産となっている。
 なお、テューダー朝の頃の建造物などは「テューダー様式」と呼ばれる。

 概要 編集 エリザベス朝の素晴らしさは、その前後の時期と比べると際立って見える。
 17世紀はイギリス革命(清教徒革命など)やプロテスタントとカトリックとの争い、議会と国王の争いに明け暮れていたが、その中でエリザベス朝はつかの間の平和な期間だった。
 この時期は、プロテスタント・カトリックの分裂は収まり(エリザベスの宗教的解決)、議会には未だ絶対王政を揺るがす程の力がなかった。
 イングランドは、他のヨーロッパ諸国に比べても順調だった。
 イタリア・ルネサンスは、外国に半島を支配されて終わった。
 フランスではユグノー戦争が起こった(この戦争は1598年にナントの勅令によって終わる)。
 何世紀も続いてきたフランス対イギリスの闘争は、エリザベス1世の治世の間は収まっていた。
 これは、フランスが宗教戦争に巻き込まれたことの他に、イングランドがヨーロッパ大陸の領土のほとんどを失っていたことも一因となっている。
 この時期に大きなライバルとなったのはスペインだった。
 スペインとイングランドはヨーロッパとアメリカ大陸で小競り合いを繰り返してきたが、1585年についに戦争となった(1604年まで続く)。
 スペイン王フェリペ2世が1588年に無敵艦隊を送ったが、イングランドは有名なアルマダの海戦で無敵艦隊に大勝した。
 しかし、この後にイングランド艦隊がスペインに侵攻した海戦では大敗し、争いの風向きはイングランドに不利に変わった。
 その後、スペインはアイルランドのカトリック教徒のイングランドに対するゲリラ活動を支援した。
 また、イングランド軍はスペインの陸海軍に続けて敗北し、イングランドの国庫と経済がかなり悪化した。
 エリザベス1世は、財政を緊縮して慎重に立て直しを図った。
 イングランドの植民地政策や貿易が復興するのは、エリザベス1世が死去した翌1604年、ロンドン条約に批准した後である。
 この期間のイングランドは、過去のヘンリー7世とヘンリー8世の改革の結果、うまく中央集権化され、政府が効率的に機能していた。経済的には、大西洋貿易によって儲ける新時代の幕開けを迎えていた。

     〔ウィキペディアより引用〕