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絵画たちの中庭【回廊】で Art.01ーC

2023-10-04 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ◤ ゲルニカ C ◢

 《人物と思想》

 第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。
 フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。
 スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった。
 ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合った。
 また、ピカソはアナーキスト的資質もあったといわれるが、実際にアナーキストとして活動をすることはなかった。
 スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。
 死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。
 ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。

 スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。
 『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。
 現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている[21]。 1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。
 しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。
 ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。
 ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。

 1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。
 しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。
 1950年にスターリン平和賞を受賞し、1962年にレーニン平和賞を受賞した。

 《晩年》

 1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。
 有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワでも同様の仕事をしている。
 1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。
 この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。
 1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。
 その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚した女性たちを描いたものがある。
 ピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。
 ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。 ピカソは1973年に91歳で死去した。

 《死後》

 ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。
 ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナに1963年にピカソ美術館 (バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館 (マラガ)(英語版)を開館した。
 ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。
 また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。
 フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。
 一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3,000点を所蔵している。
 このほか、アンティーブにピカソ美術館 (アンティーブ)、カンヌ近郊のヴァロリスにピカソ美術館 (ヴァロリス)が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。
 1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。
 フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。

 ▼オークション落札額の推移

 2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。
 2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。
 2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。
 それまで(2010年2月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった。

 2006年10月、ラスベガスのホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。
 事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。
 ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。
 もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。
 結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。
 ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。
 でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。
 2012年7月、オランダのクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネやルシアン・フロイドの絵画と共に盗難に遭う。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた。
 2015年5月11日には、ニューヨークのクリスティーズの競売で、ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」が1億7936万5000ドル(約215億円)で落札され、絵画取引の最高額を更新した。
 2018年5月8日、クリスティーズで『花のバスケットを持つ裸の少女』が1億1500万ドル(約125億円)で落札された。

 《名前》

 ピカソの本名は、聖人や縁者の名前を並べた長いもので、出生証明書によると、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。
 洗礼名は、「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispin Crispiano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso (パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。

 関連項目 ー ゲルニカ爆撃 ー

 ゲルニカ爆撃(ゲルニカばくげき)
(バスク語: Gernikako bonbardaketa) (スペイン語: Bombardeo de Guernica) (英語: Bombing of Guernica)
 またはゲルニカ空爆(ゲルニカくうばく)

 スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ空軍がスペイン北部の都市ゲルニカに対して行った爆撃。
 戦史上初の本格的な都市無差別爆撃とされる。

 ゲルニカにはバスク地方の自治の象徴であるバスク議事堂とゲルニカの木があり、歴代のビスカヤ領主がオークの木の前でフエロ(地域特別法)の遵守を誓ったことから、ゲルニカはバスクの文化的伝統の中心地であり、自由と独立の象徴的な町だった。
 フランスの思想家であるジャン=ジャック・ルソーは、「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちがみずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった」と書いている。
 ゲルニカは前線から約10キロに位置し、バスク軍の3個大隊と軍需工場(とりわけ焼夷弾を製造)とバスク軍が撤退する際の橋があり、反乱軍は軍事目標に分類していた。
 また、7つの防空壕が用意されていたことから、バスク自治政府もゲルニカが標的になる可能性が高いと判断していた。
 そのうちの一つは直撃され、死者数はかなり増えた。
 この爆撃は焼夷弾が本格的に使用された世界初の空襲であり、「史上初の都市無差別爆撃」や「史上初の無差別空爆」とされることもある。
 この爆撃は敵国民の戦意をそぐために行われる戦略爆撃の先駆けと考えられており、戦略爆撃は第二次世界大戦で本格化した。
 一方で、ゲルニカ爆撃は一般市民を狙った無差別爆撃などではなく、戦時国際法で認められた、地上軍と連携した空軍が敵の進撃あるいは退却を妨害するために行う、阻止攻撃であったとホルスト・ボーグによって指摘されている。
 コンドル軍団はこの作戦をリューゲン作戦(Operation Rügen)という作戦名で呼んだ。

 《経過》

 ▼スペイン内戦の経過

 1931年にはアルフォンソ13世が退位して第二共和政が成立したが、改革の失敗から民衆の不満が噴出し、1933年の総選挙では右派のスペイン独立右翼連合(英語版)(CEDA)が躍進して左派勢力は敗北し、1936年の総選挙では再び左派が勝利して人民戦線政府が成立するなど、左右両派の力は拮抗しており社会不安が高まっていた。
 7月にはフランシスコ・フランコ、エミリオ・モラ(英語版)両将軍を首謀者とする軍事クーデターが発生し、スペイン内戦が始まった。
 伝統主義の気風が強いナバーラ県とアラバ県は反乱軍の側に立ったが、バスク・ナショナリズムの影響力が強いビスカヤ県とギプスコア県はスペイン独立右翼連合への反感もあったため、共和国政府側に立って人民戦線とともに戦い、バスク地方はスペイン内戦によって分断された。
 フランコ軍による本格的な北方作戦の開始前にも、フランコ軍と手を組んだドイツ空軍による空襲は断続的に行われており、彼らは空軍演習を主目的としていた。
 コンドル軍団はフランコ個人にのみ責任を持ち、独立した指揮権下で北方作戦を遂行していた。
 それまでスペインの鉱山は主にイギリス資本が所有していたため、ドイツ軍にとってバスクを手に入れることはイギリスの軍事経済に打撃を与える効果も期待できた。
 1937年1月4日にはハインケル戦闘機3機とユンカース Ju52爆撃機9機がビルバオを空襲した。
 反乱軍は重工業地帯を持つバスク地方に集中攻撃をかけることを決定し、陸軍と空軍の主力部隊、フーゴ・シュペルレを司令官とするドイツ空軍のコンドル軍団、イタリア空軍の旅団や師団をビトリア=ガステイス近辺に集結させた[19]。歴史家のマヌエル・トゥニョン(英語版)によれば、反乱軍の一連の北方作戦は地上軍と空軍を緊密に連携させた史上初の作戦だった。

 1937年3月31日のドゥランゴ爆撃を緒戦として、モラ将軍を司令官とする本格的な北方作戦が開始された。
 ドゥランゴには戦闘機9機、爆撃機4機によって計4トンの爆弾が落とされ、バスク自治政府によれば即死者127人、病院での死亡者150人超、負傷者300人超を数えた[21]。ドゥランゴには防空体制や軍事施設などはなく、歴史家のヒュー・トマスはドゥランゴを「容赦なく爆撃された最初の無防備都市」と表現した[23]。それまでの空軍は地上戦闘の補助的役割にとどまっていたが、ドゥランゴ爆撃以後は独自の戦力としてみなされ、第二次世界大戦では主体的役割を担った。
 ビスカヤ県全域が連日のように空襲を受け、地ならしを終わると地上軍による侵攻を受けた。

 1937年3月31日のドゥランゴ爆撃を緒戦として、モラ将軍を司令官とする本格的な北方作戦が開始された。
 ドゥランゴには戦闘機9機、爆撃機4機によって計4トンの爆弾が落とされ、バスク自治政府によれば即死者127人、病院での死亡者150人超、負傷者300人超を数えた。
 ドゥランゴには防空体制や軍事施設などはなく、歴史家のヒュー・トマス(英語版)はドゥランゴを「容赦なく爆撃された最初の無防備都市」と表現した。
 それまでの空軍は地上戦闘の補助的役割にとどまっていたが、ドゥランゴ爆撃以後は独自の戦力としてみなされ、第二次世界大戦では主体的役割を担った。
 ビスカヤ県全域が連日のように空襲を受け、地ならしを終わると地上軍による侵攻を受けた。

 ▼ゲルニカ爆撃

 ドイツ空軍・コンドル軍団はゲルニカ爆撃作戦をリューゲン作戦(Operation Rügen)という作戦名で呼んだ。
 ビトリア=ガステイスの飛行場は狭かったため、コンドル軍団の戦闘機基地はビトリア=ガステイス、爆撃機基地はブルゴスに分かれていた。
 フーゴ・シュペルレ将軍はサラマンカの反乱軍総司令部に留まり、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン大佐が攻撃部隊の実戦指揮を執った。
 リヒトホーフェンは当時の日誌で、共和国軍の退却路を断つことをリューゲン作戦の目的として挙げている。
 リューゲン作戦に参加したドイツ軍機は一説によればユンカース Ju52爆撃機23機、ハインケルHe51戦闘機20機、メッサーシュミット Bf109が6機(護衛)であり、北方作戦のためのドイツ軍にはこれらに加えてハインケル He111爆撃機の実験中隊などもあった。
 また、イタリア軍はサヴォイア・マルケッティ SM.81爆撃機、サヴォイア・マルケッティ SM.79爆撃機、フィアット CR.32戦闘機で反乱軍の地上部隊を援護した。

 関連項目 ー 鳩 (ピカソ) ー

 『鳩』
(はと、フランス語: La Colombe)

 パブロ・ピカソが1949年に制作したリトグラフである。
 黒い背景の上に白い鳩が描かれている。
 この絵は、1949年4月にパリで開催された世界平和評議会のポスターに使用されるなど、平和の象徴としての鳩の当時の象徴的なイメージとなった。
 テート・ギャラリーが収蔵している。




 《背景》

 スペイン内戦が勃発するまで、ピカソはほとんど政治に無関心だった。
 画商のダニエル=ヘンリー・カーンワイラーは、当時のピカソについて、これまで知っていた中で「最も政治的でない男」だったと述べている。
 しかし、1936年のスペイン内戦によりピカソは大きな影響を受け、政治に関心を持つようになり、その結果、1937年に『ゲルニカ』を描いた。
 この作品を発表した後、ピカソは反ファシズムの象徴となった。
 第二次世界大戦が終わる頃には、ピカソは人道的な観点から共産党に入党していた。
 ピカソにとっての共産主義は、第二次世界大戦やスペイン内戦でのファシズムを否定する別の道を示すものだった。
 しかし、ピカソの共産党への入党は、ある種の論争を引き起こした。
 1948年から1951年にかけて、ピカソは世界平和評議会に出席した。
 1950年にシェフィールドで開催された平和会議で講演を依頼されたピカソは「私は、死よりは生を、戦争よりは平和を支持する」と述べた。

 関連書籍 ー 暗幕のゲルニカ ー

 世紀の衝撃作を巡る陰謀と、ピカソが筆に託した真実とは。

 怒涛のアートサスペンス!
 ニューヨーク、国連本部。イラク攻撃を宣言する米国務長官の背後から、「ゲルニカ」のタペストリーが消えた。MoMAのキュレーター八神瑤子はピカソの名画を巡る陰謀に巻き込まれていく。
 故国スペイン内戦下に創造した衝撃作に、世紀の画家は何を託したか。
 ピカソの恋人で写真家のドラ・マールが生きた過去と、瑤子が生きる現代との交錯の中で辿り着く一つの真実。
 怒濤のアートサスペンス!
 暗幕のゲルニカ(新潮社)
       原田マハ 著

 〔情報元 : 新潮社

 〔ウィキペディアより引用〕