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絵画たちの中庭【回廊】で Art.01ーB

2023-10-03 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ◤ ゲルニカ B ◢

 ▼スペインへの返還

 1975年11月20日にフランコが死去し、フアン・カルロス1世が国王に就任して民主化への移行期を迎えると、絵画のスペイン返還を求める声が高まった。
 1977年には民主化後初の総選挙が行われ、その後成立したスペイン国会では絵画の返還を求める決議案が可決された。 
 1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた。
 マドリード、マラガ、ゲルニカの各市長とバルセロナのピカソ美術館館長をゲストに行われたテレビの討論番組では、絵画の受け入れ先をめぐって白熱した議論が繰り広げられた。

 政治状況の不安定さに加え、遺産相続者間の係争も問題だったが、1981年にはようやく絵画のスペイン返還が決定した。
 特にバスク地方ではこの絵画をバスクの受難と解放のシンボルとみなし、バスク州は熱心に絵画の展示を希望したが、9月10日にマドリードのプラド美術館別館(カソン・デル・ブエン・レティーロ(英語版))に運び込まれた。
 スペインでこの絵画は「故国の土を踏んだ最後の亡命者」とされており、もっとも保守的でフランコ独裁政権との親和性が強かったABC紙でさえも、社説で同様の論調を示した。
 西側諸国では絵画のスペイン帰還が大きく報じられ、日本では朝日新聞が5段抜きの見出しでもっとも大きく取り上げた。
 絵画の搬入に合わせ、別館は温度・湿度管理装置、爆発物検知装置、ラジオとテレビによる監視システムなど、様々なテロ対策設備が加えられ、さらに直接攻撃を防ぐために絵画は防弾ガラスで覆われた。
 絵画は展示室の中にある密封状態に近い小部屋に設置され、磁気読み取りの保安カードを持った人間のみが小部屋に入ることができた。
 プラド美術館のホセ・マヌエル・ピタ・アンドラーデ館長は本館での展示を希望していたため、スペイン政府がこのような形態での保管を支持したことに不満を示し、ただちに館長を辞任した。
 10月25日、ピカソの生誕100周年記念日に一般公開され、45枚の習作すべてもプラド美術館で展示された。

 ▼ソフィア王妃芸術センターでの展示

 1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。
 10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン(スペイン語版)館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った。
 10年前に絵画の受け入れを希望したバスク地方はこのマドリード市内での移動に不満を示した。
 プラド美術館でもソフィア王妃芸術センターでも絵画の破壊行為が起こったことはなく、1995年には防弾ガラスが取り除かれた。
 同時に展示室内から展示室の側壁に移されたため、鑑賞者が正面から絵画全体を観ることはできなくなったが、展示室内に鑑賞者があふれて身動きが取れなくなることは避けられた。
 絵画の両脇には非武装の警備員が配備されているが、絵画まで4mの距離まで近づくことができる。
 1992年の開館当初のソフィア王妃芸術センターは、この絵画を除けば凡庸なコレクションであるとされたが、1997年にはプラド美術館の入館者数を上回り、スペインでもっとも入館者数の多い美術館となった。

 1992年にはバルセロナオリンピックに合わせた文化行事のためにバルセロナが、1995年には第二次世界大戦終戦50周年にちなんで日本政府が、1996年にはピカソの大回顧展を開催するフランス政府が、1997年にはゲルニカに近いビルバオに開館したビルバオ・グッゲンハイム美術館が、2000年には数十年に渡って絵画を管理していたニューヨーク近代美術館が絵画の貸与を希望したが、ソフィア王妃芸術センターはすべての打診を拒否した。
 1995年から1996年にかけて、日本の京都国立近代美術館と東武美術館で「ピカソ、愛と苦悩 -『ゲルニカ』への道」と題したピカソ展が行われた。
 この絵画に関連する「闘牛」「磔刑」「ミノタウロス」「女」「アトリエ」の5本柱で構成され、この絵画に関しては原寸大のポラロイド写真複製が展示された。 
 1997年10月、グッゲンハイム美術館開館記念式典にフアン・カルロス1世国王夫妻が来賓した折、建物を設計したアメリカ人建築家のフランク・ゲーリーは、絵画が本来あるべき場所がグッゲンハイム美術館であることを国王夫妻に示唆した。

 《作品》

 ▼画面構成

 パリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画を意図して製作されたこともあり、絵画は縦349cm×横777cmの横長の大作である。
 キャンバスに工業用絵具ペンキで描かれ、ペンキは油絵具よりも乾きが速く作業効率が高いため、1か月弱と大作にしては短期間で描ききることができた。
 ペンキの使用は後に傷みの要因となっている。
 当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれているが、各部分の習作や後のタペストリー作品は彩色が施されている。
 ピカソはこの絵画の製作と並行して何枚もの習作を描いており、泣き叫ぶ女だけを独立した作品にした『泣く女』という絵がある。
 第二次世界大戦後、ピカソはこの絵画と同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、ニューヨークにある国際連合本部ビルの国際連合安全保障理事会議場前とフランスのウンターリンデン美術館(英語版)、日本の群馬県立近代美術館に展示されている。
 日本の徳島県鳴門市にある大塚国際美術館には絵画の実物大のレプリカが置かれている。
 なお、丸の内オアゾ1階には、ピカソの遺族の承諾を得て作成されたセラミック製の複製が掲示されている。

 中央に大きな長方形、左右に小さな長方形と、画面は3枚の長方形からなり、中世の教会に飾られた三連祭壇画を連想させる。
 右側の長方形には3人の女が描かれている。
 左上の女は灯火を手に窓から身を乗り出し、右の女は燃え盛る家から落下(もしくは爆発によって吹き飛ばされて)しており、左下の女は中央に駆け寄っている。
 左側の長方形には女と牡牛が描かれている。
 女は子の屍を抱えて泣き叫んでおり、牡牛は女を守るかのように立っている。 
 中央の長方形には馬と戦士が描かれている。
 馬は槍で貫かれて頭を上方に突き出し、戦士は折れた剣を握りしめて死んでいる。
 中央の長方形は大きな三角形で仕切られており、その頂点には女が持つ灯火が配置されている。
 三角形の左斜線は馬の首元から馬の右脚や戦士の腕で構成され、逆側の斜線は駆け寄る女の身体で構成されている。
 灯火の左脇には目のような形の光源があり、その左下には上方に羽ばたきながら口を開けている鳥が描かれている。
 色彩はモノクロームに近いが、無色に近い灰色、紫みがかったり青みがかった灰色など、様々な色合いの灰色が用いられており、光と闇の効果を高めている。
 要素は単純な形態で描かれ、絵画の普遍的性格を強めている。
 惨劇の主要な要素は中央の三角形に集められているが、これはギリシア神殿建築を連想させる。

 画面全体には中世の三連祭壇画とギリシア神殿建築というふたつの異なる宗教美術の影響を見ることができる。
 左手のテーブルと右手の扉で屋内を連想させるが、同時に右手の屋根瓦や窓で屋外をも連想させている。
 また、太陽のような光源で昼を連想させるが、女が持つ灯火で夜をも連想させている。
 このような設定で時間や空間の超越を表現しており、画面構成で明らかになったキリスト教美術的性格をさらに強めている。

 ▼解釈


子の屍を抱く女(左端)


折れた剣の上に咲く花(下部の中央)


落ちる女(右端)

 ◆全体の解釈

 現代絵画において、この絵画ほど様々な解釈が示された絵画は稀であり、個々の要素が善悪のどちらを表すのかを判断するのは難しい。
 ピカソは動物たちの象徴性だけは認めたが、その他の要素については多くを語らず、また具体的な意味合いなどを説明することなく世を去った。
 美術史家の宮下誠は、全体として「キリスト教的黙示録のヴィジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤の象徴的表現の最良の結果」を描いているとしている。

 ◆牡牛 牡牛(ミノタウロス)

 善悪それぞれに解釈されてきた[63]。ピカソ自身は1940年代初頭に、「牡牛は牡牛で馬は馬だ。
 大衆や観客は、馬と牡牛を自分で解釈できるシンボルとして見ようとしている」と述べたが、1945年には画商のジェローム・セックラー(Jerome Seckler)に対して「牡牛はファシズムではなく、人間の残忍性と暗黒面である。 (中略)
 馬は人民を表す(中略)『ゲルニカ』の壁画は象徴的、寓意的なものであるから、私は馬や牡牛やその他を使ったのだ」と述べた。
 ギリシア神話に登場するミノタウロスは暴力、好色、平和など様々な象徴であり、ピカソは1935年から1937年にかけてミノタウロスを集中的に描いている。 
 ピカソは大の闘牛好きであったことから、牡牛をスペインの象徴とする解釈もあり、「災厄から遠ざかろうとするピカソ自身である」とする解釈もある。
 芸術心理学者のルドルフ・アルンハイムは、牡牛の体の向きの変更を「真に天才的な発明」とし、苦悩や悲嘆を画面外に伝える役割を持っているとみなした。  
 アルンハイムは牡牛の尻をイベリア半島の形になぞらえ、スペインを表すシンボルであるとした。
 しかし、カーラ・ゴットリープ(Carla Gottlieb)はアルンハイムの解釈を批判し、牡牛が女の存在に気づいていないかのように冷淡であることに疑問を呈し、牡牛と馬のシンボル性について問題を提起した。
 ゴットリープは、無表情で行動を起こさず、惨劇に加わることをしない牡牛を、牡牛のイメージを持ち、かつスペイン内戦に対して不干渉政策を取るフランスの隠喩であるとした。

 ◆馬

 爆撃の犠牲者や共和国政府であるとする解釈が一般的であるが、より普遍的には瀕死のヒューマニズムであり、フランコのファシズムの崩壊であるとする研究者もいる。
 灯火を持つ女 西洋絵画は伝統的に蝋燭や灯火を真理の象徴として描いており、この絵画でも灯火を持つ女は真理を表すことがほぼ確実だが、社会主義の象徴であるとする研究者もいる。
 ゴットリープは灯火の女が「善、正義および理性を意味する光明の運び手」とし、小さな灯火が共和国軍兵士であると解釈しているが、絵画と現実世界の政治を強く結びつけていることには批判もある。

 ◆折れた剣を握る倒れた兵士

 ファシズムの犠牲となった兵士とするのが単純だが、爆撃を受けるスペイン市民の代表とも考えられる。
 折れた剣は「戦争によって破壊された何か」や「戦争によって荒廃した町の市民の折れた心」等でその上に咲く花は「復活」を表すとされている。

 ◆子の屍を抱く女

 爆撃の被害者とされる「子の屍を抱く女」は西洋絵画の伝統的主題であるピエタ(磔刑に処されたキリストを抱くマリア)という説もあり、ピカソが1929年から1932年にかけて描いたマグダラのマリアの姿勢にも似通っている。
 ニコラ・プッサンなどが書いた伝統的主題である嬰児虐殺の影響を見る研究者もいる。

 ◆駆け寄る女

 右から中央に駆け寄る女は、屍を抱く女を慰めようとする家族や近隣住民であるとされているが詳細は不明。
 ソ連はスペインから遠距離にありながら、即座に共和国政府を支援した唯一の国であり、駆け寄る女はソビエト連邦の隠喩であるとされることも多い。
 落ちる女 建物から落ちる女はピカソ自身、またイエス・キリストの象徴であるとされる。

 ◆太陽

 「太陽は神の眼」という考え方があり、神は全てを明白にする証人でその目とされる。
 その内部には現代を意識させる唯一の要素である電球が描かれており、現代のテクノロジーと爆撃の惨劇の関連を示唆している可能性がある。
 資本主義国家またはキリスト教的救済の希望を欠いた世界とする研究者もいる。

 ◆鳥

 机の上の鳥は精霊や平和の象徴。

 関連項目 ー パブロ・ピカソ ー

 パブロ・ルイス・ピカソ
 (Pablo Ruiz Picasso)
( 1881年10月25日〜1973年4月8日)

 スペイン・マラガ生まれの、フランスで制作活動をおこなった画家である。


 《生涯》

 パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で生まれた。父ホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1838年〜1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855〜1938)との間に長男として生まれた。
 父ホセ・ルイスは、美術教師、修復家、美術館学芸員鳥、画家だった。
 1880年にマリアと結婚している。幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。
 ピカソはこども時代から美術の英才教育を受けた。 彼は後年、フランス共産党員となったが、イデオロギーにとらわれることには否定的だった。
 ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。
 ピカソの死後、孤独になった妻(2人目)のジャクリーヌは、1986年に59歳のときに銃で自殺している。

 1881年10月25日午後11時15分、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。
 長男。
 父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス[10]。 1891年、ガリシア地方ラ・コルーニャに移住。
 父、ホセ・ルイス 同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
 1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学。
 1894年、父、ホセ・ルイスは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる。
 1895年、バルセロナに移住、美術学校に入学。ひと月の猶予のある入学製作を1日あるいは1週間で完成させる。
 初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。
 1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、マドリードで開かれた国立美術展で入選する。
 佳作を受賞し、約2週間展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。
 同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。
 だが、マドリードでも授業内容は今までと同じ古典的な内容で、新しいことや当時の流行を学ぶことができず、王立アカデミーの体制に失望する。
 プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。

 1898年、春に猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロ(現在のオルタデサンジョアンで療養。
 6月、王立サン・フェルナンド美術アカデミーを中退する。
 1899年、バルセロナに戻る。
 バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。
 簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。
 ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。バルセロナ画壇の大御所、ラモン・カザスに代わり、メニューの表紙イラストを手がけることになる。
 1900年、2月1日、再びピカソの個展が開催され、アール・ヌーヴォーの影響を受けた線画が約150点が展示された。
 カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。
 1901年、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。
 6月、パリで個展を開く。「青の時代」の始まり。
 1902年画廊であるサラ・パレースでカザスとの二人展を開催する。
 10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む。
 1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
 1905年、「ばら色の時代(Picasso's Rose Period)」または「桃色の時代」が始まる(~1906年)。
 ガートルード兄妹のパトロンを見つける。

 1907年、『アビニヨンの娘たち』製作。
 1909年、フェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。
 6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
 1911年9月、ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の1人として逮捕された(ただし1週間で釈放された)。
 1912年、モンパルナスへ移る。
 1913年、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。
 1916年、パリ郊外モンルージュに移る。
 1917年、バレエ団バレエ・リュスの『パラード』の装置、衣装を製作。
 1918年1月、オルガ・コクローヴァと結婚。
 パリ8区ラ・ボエシー (Rue La Boétie) に移る。
 1919年5月、ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。
 1920年、『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。
 1921年、息子パウロ誕生。 1922年、コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。
 1924年、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作。

 1928年、彫刻に専心。
 1930年、『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。
 1931年、『変身譚』の挿絵を制作。
 1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
 1934年、スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。
 1935年、娘マリア(マヤ)誕生。
 詩作。
 1936年、人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。
 パリ6区グラン=ゾーギュスタン河岸 (Quai des Grands-Augustins) 7番地に居住(1955年まで)。
 1937年、『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。
 1939年、ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
 1940年、ナチス・ドイツ占領下のパリへ帰る。
 ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。
 1941年、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。

 1944年、パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
 1945年、ロンドン、ブリュッセルで個展。
 1946年、フランソワーズ・ジローと共同生活。
 1947年、息子クロード誕生。
 陶器製作。
 1949年、娘パロマ誕生。
 1951年、『朝鮮の虐殺』製作。
 1952年、『戦争と平和』のパネルを制作。
 1953年、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。
 1954年、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
 1955年、カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む。
 妻のオルガが死去。
 1958年、『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。
 1961年、ジャクリーヌ・ロックと結婚。
 1964年、日本、カナダで回顧展。
 1966年、パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展。
 1967年、シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。

 1968年、版画に専心、半年間に347点を製作。
 1970年、アヴィニョン教皇庁で140点の新作油絵展。
 バルセロナのピカソ美術館開館。
 1973年4月8日午前11時40分(日本時間午後7時40分)頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。
 ヴォーヴナルグ城に埋葬された。

 〔ウィキペディアより引用〕