境内の紅梅の蕾がふくらんでいました。
親子のまなざしは愛に満ちていました。
♪瀬戸は日暮れて~♪帰路に着いた私たちを、柔らかな夕日が包んでくれました。
宿泊は「椿館」同室は下井田さんと美鈴さんでした。お世話になり、ありがとうございました。
茶話会が二日間ともあり、二日目はカラオケ大会でした。
林さんと私の「くれいん舎」コンビでデュエット、曲は「おじさんサンバ」!
ラストの曲は「川の流れのように」、全員総立ちです。
今回も松山窪田ご夫妻がお世話してくださいました。感謝しかありません。ありがとうございました。
小説「坂の上の雲」は、司馬遼太郎さんが40代のほぼ全てを費やして完成した作品です。
松山出身の正岡子規、秋山兄弟を中心に多くの人物を登場させながら近代国家を目指す
明治の日本が描かれています。ここはその作品を基盤に松山市のフィールドミュージアム構想の
一環として建てられた、まだ新しいミュージアムです。
私はこの小説を三年ほど前に読みましたが、機会があればお読みになることをお勧めします。
安藤忠雄さん設計のミュージアムは建築物自体もステキでしたが、小説を読んでいない二人も
結構楽しめているようでした。詳しいことはsakanouenokumomuseum.jp/でどうぞ。
親子のまなざしは愛に満ちていました。
♪瀬戸は日暮れて~♪帰路に着いた私たちを、柔らかな夕日が包んでくれました。
宿泊は「椿館」同室は下井田さんと美鈴さんでした。お世話になり、ありがとうございました。
茶話会が二日間ともあり、二日目はカラオケ大会でした。
林さんと私の「くれいん舎」コンビでデュエット、曲は「おじさんサンバ」!
ラストの曲は「川の流れのように」、全員総立ちです。
今回も松山窪田ご夫妻がお世話してくださいました。感謝しかありません。ありがとうございました。
小説「坂の上の雲」は、司馬遼太郎さんが40代のほぼ全てを費やして完成した作品です。
松山出身の正岡子規、秋山兄弟を中心に多くの人物を登場させながら近代国家を目指す
明治の日本が描かれています。ここはその作品を基盤に松山市のフィールドミュージアム構想の
一環として建てられた、まだ新しいミュージアムです。
私はこの小説を三年ほど前に読みましたが、機会があればお読みになることをお勧めします。
安藤忠雄さん設計のミュージアムは建築物自体もステキでしたが、小説を読んでいない二人も
結構楽しめているようでした。詳しいことはsakanouenokumomuseum.jp/でどうぞ。
耕三寺境内の潮聲閣(ちょうせいかく)は、このお寺を開山した耕三和上がお寺を建立する10年前に
お母様のために建てられた壮大な邸宅です。(昭和二年)これは老人室の天井画です。
完成までに5年の歳月を要したこの邸宅は、和洋混合型住宅という明治から大東亜戦争前にかけて
旧華族や財閥などを中心に全国的に流行した形態です。ここは格調高い書院造りの老人室です。
来客を迎える大広間よりも、お母様の居室であるこの部屋が豪華に作られているのは例のないことで、
ここにも耕三師の孝心によって作られたことが表れています。
これはお母様の部屋(老人室)の欄間の細工ですが、セキセイインコの細工はとても珍しいです。
くるまえびが飛び出てきそうな勢いのある額でした。
邸内いたるところに描かれている日本画も素晴らしいものです。屋敷内全てがミュージアムかも。
鶴と写させていただいた、ミセスくれいんです。
仏間に下がっている照明を下から写したところです。
独創的な意匠の書院造りや銘木をふんだんに使うなど、豪華さにおいても秀でており、
昭和初期の住宅建築の最高傑作と云えるでしょう。
お母様のために建てられた壮大な邸宅です。(昭和二年)これは老人室の天井画です。
完成までに5年の歳月を要したこの邸宅は、和洋混合型住宅という明治から大東亜戦争前にかけて
旧華族や財閥などを中心に全国的に流行した形態です。ここは格調高い書院造りの老人室です。
来客を迎える大広間よりも、お母様の居室であるこの部屋が豪華に作られているのは例のないことで、
ここにも耕三師の孝心によって作られたことが表れています。
これはお母様の部屋(老人室)の欄間の細工ですが、セキセイインコの細工はとても珍しいです。
くるまえびが飛び出てきそうな勢いのある額でした。
邸内いたるところに描かれている日本画も素晴らしいものです。屋敷内全てがミュージアムかも。
鶴と写させていただいた、ミセスくれいんです。
仏間に下がっている照明を下から写したところです。
独創的な意匠の書院造りや銘木をふんだんに使うなど、豪華さにおいても秀でており、
昭和初期の住宅建築の最高傑作と云えるでしょう。
♪お久しぶりね~♪運転手は、あの「大師像に似てるという噂のの石田さんでした」
二日目はその石田さん運転の伊予バスに乗って、しまなみ街道を通り広島県尾道市にある
耕三寺へ向かいました。耕三寺は、戦前大阪で大口径特殊鋼管の製造会社を経営していた
耕三さんという方が開山したお寺です。
浄土真宗本願寺派の寺院ですが、耕三さんが「母亡き後も墓守として共に暮らしていこうという
一途なまでの追慕の一念」が成し得た結実の浄土「母の寺」です。
西の日光と呼ばれる所以は陽明門あり、平等院あり、とスケールは小さめですが、古建築を手本に
そっくりに作られた数々の建物があるからでした。
この中へ入れば地下道があり、そこは地獄峡なのですが、、、。
抜けて出ればそこに「久世観音」が待っていてくださる。(デカイ!)
そしてそこから登っていけば「未来心の丘」へと続いていきます。
ここは広さ5,000㎡にもおよぶ白い大理石の庭園。
イタリアに住む広島県出身の杭谷さんという彫刻家の設計・製作です。
全てイタリアから運ばれた白い石が輝く庭園では、実際に肌に触れ、一体となって遊ぶ所のようです。
裸足になって走ったり、登ったり楽しめそうな場所でした。
二日目はその石田さん運転の伊予バスに乗って、しまなみ街道を通り広島県尾道市にある
耕三寺へ向かいました。耕三寺は、戦前大阪で大口径特殊鋼管の製造会社を経営していた
耕三さんという方が開山したお寺です。
浄土真宗本願寺派の寺院ですが、耕三さんが「母亡き後も墓守として共に暮らしていこうという
一途なまでの追慕の一念」が成し得た結実の浄土「母の寺」です。
西の日光と呼ばれる所以は陽明門あり、平等院あり、とスケールは小さめですが、古建築を手本に
そっくりに作られた数々の建物があるからでした。
この中へ入れば地下道があり、そこは地獄峡なのですが、、、。
抜けて出ればそこに「久世観音」が待っていてくださる。(デカイ!)
そしてそこから登っていけば「未来心の丘」へと続いていきます。
ここは広さ5,000㎡にもおよぶ白い大理石の庭園。
イタリアに住む広島県出身の杭谷さんという彫刻家の設計・製作です。
全てイタリアから運ばれた白い石が輝く庭園では、実際に肌に触れ、一体となって遊ぶ所のようです。
裸足になって走ったり、登ったり楽しめそうな場所でした。