op's weblog

文字通りのログ。経験したことや考えたことの断片のアーカイブ。

芸術への愛と情熱のバランス感覚? ― いまさら映画批評シリーズ:ハーブ&ドロシー

2011年02月21日 18時21分05秒 | Weblog
その土地の文化の蓄積が時々引き起こす“事件”みたいなものってある。『ハーブ&ドロシー』のヴォーゲル夫妻も、人の形をしているが、そんな“社会科学的な現象”として見てしまう。文字通り“ニューヨークの子”だ。“客土”して人工的につくった花壇ではできない、吹き溜まりに出来た豊かな土壌に咲いた珍種の花、ロングテールに生えた巨大なトゲといったら失礼か。

ライフスタイルだからこそ成し得た偉業であって、最初からこれを目的としていたら、アーティストや画廊、他の多くの収集家との関係が変わってしまい、早くに頓挫していただろう。そしてこれをライフスタイルにできるのが文化の深さと広さだ。年季はさておき日本にもこういう人はいるのだが、どちらかというと芸術とスポーツに関しては焼き畑農業のような話ばかり目につく日本人には、全く羨ましい話である。まあ、簡単に目についたら存在できない「現象」ではあるのだが。

そうは言ってもお金もからむことだし、もっと生々しい話もあったのだろうが、全体的にほのぼのした作品になっている。もちろんこれも、絶妙のバランス感覚を持った夫妻の決断があってこそなのだけれど。


この映画をやってた川越スカラ座とあのエリアって、陳腐な比喩だけど、喫茶店のおいしいケーキセットみたいだ。今日は陽気も良かったから、先にちょっとブラついて、お茶飲んで、今回みたいな淡々とした映画だと眠くなるかもしれないから、昼食は早めに軽く、映画の後に重めのおやつ、町並み見ながら帰るという感じか。ケーキ(映画)に合わせてスケジュールも組み替えて楽しめる。いや、残念ながら寒がりなバイク乗りは早めに引き上げてしまいましたが…
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二度ビールを取り損なう意味。 ― いまさら映画批評シリーズ:ソーシャル・ネットワーク

2011年02月19日 23時43分57秒 | Weblog
アカデミー賞候補だからか、金券ショップでも前売り券が値引きしてないなーと思いながらようやく鑑賞。

冒頭、スタイルカウンシルのオルガン弾きが早口で喋ってる!あんまり恋人の話聞いてなくて、話のフォーカスは、会話の流れではなく、自分の“心のフック”次第で不規則に移り変わってゆく。で、最初に言いたいのは、

俺の経験では、これをやるのは圧倒的に女の方である!!(笑)


○IT起業物語

アルゴリズムを表す数式や、のんきな学内サイトのセキュリティホール等技術的な内容に言及した場面や台詞は少ししかない。その内容自体はストーリーに影響を与えていないので、判らなくても大丈夫。何だか専門的なこと言ってるな、ぐらいでOK。

フェイスブックが学内で動き始めて以降は、もう何十年も前から米国内で繰り返されてきた、シリコンバレー型ITベンチャーの典型的な物語であり、他のIT製品やサービスでもそのまま使える内容です。ここらへんもっと知りたい方向けには、もはや古典になりますが『コンピュータ帝国の攻防 上・下』(ロバート・X・クリンジリー著)(Accidental Empires by Robert X.Cringely)や『シリコンバレーアドベンチャー』(ジェリー・カプラン著)(STARTUP: A Silicon Valley Adventure by Jerry Kaplan)あたりがお薦めです。ちなみに後者はiPhoneのご先祖みたいなものを作ろうとした話です。より新しい類書も色々出ているだろうけれど、エコシステムとして定着しており、文化の領域だから基本は同じです。


○友情についての物語

大学生のエドゥアルド・サリバンサベリンには、ちょっとトンチンカンな友達、ザッカーバーグがいました。ザッカーバーグは、人一倍プライドは高いが、気持ちのやりとりが苦手でした。

フェイスブックの噂をききつけた起業家のショーン・パーカーは二人をシリコンバレー(とその文化)へと誘います。スクールカーストの中で周囲の“充分な認知”を得られず悶々としていたザッカーバーグは、新しい世界からの誘いに夢中になりますが、サリバンサベリンは学業とスピード感溢れるシリコンバレー・スタイルに馴染みがないことに囚われ、そしてザッカーバーグを魅了したパーカーへの対抗心もあってハーバードに残ることを選択します。

パーカーはフェイスブックの中心人物であるザッカーバーグを取り込み、一山当てることを狙います。その過程でノリの悪いサリバンサベリンの排除を画策します。

ザッカーバーグは、サリバンサベリンがシリコンバレーに来ないことで裏切られたと感じ、パーカーの策略を止めませんでした。が、VC(ベンチャー・キャピタル)の投資を受けて以降、ザッカーバーグの最高の友人はフェイスブックという会社になります。だから、フェイスブックにとってマイナスになる行動をとったパーカーも切り捨てられることになります。

表情が乏しく見えても、やはり(冴えないギーク時代の)自分と親しくしてくれた数少ない人たちとの絆はザッカーバーグにとって大切なものでした。だから裏切られたサリバンサベリンの怒りを見てようやくそれが意味することを理解し、パーカーを非難し、パーカーへの見方を変えることになります。そして訴訟の場面では弁護士たちとサリバンサベリン、自分それぞれが持っている「同じはずの友情の崩壊物語の違い」に(他の二者同様)困惑します。「異国の王様」となったザッカーバーグは、自分とフェイスブックの故郷、アイビーリーグにいるだろう元ガールフレンドへ「友達申請」を送り、空しく応答を待つ場面で映画は終わります。


○世代間ギャップについての物語

ここで言う「世代」とは年齢のことではなく、価値観・世界観のことです。スクールカーストの最上位に位置しているウィンクルボス兄弟達は、古い価値観に護られた「エスタブリッシュメント」の世界しか知りませんでした。そしてその外側にいるサリバンサベリンやガールフレンド達も、やはりイノベーションが神であり認知されることへの欲求が動力源であるシリコンバレーの価値観を理解できませんでした。しかし、大学の経営責任者であるハーバードの学長は、アイビーリーグとその友愛会を頂点とする世界と、シリコンバレーを含むビジネスの世界の両方を知っていました。だからウィンクルボス兄弟が「いいつけ」に来たときに、「相手を見下して楽しようと思った君達が間抜けなのだ。自分の尻は自分で拭け。」と戒めるのです。

ミニチュアに見える特殊な撮り方をしているボートレースの場面は、かつての世界の最上部(とウィンクルボス兄弟等が思っていた)が、既に広い世界の中の小さな一部分に過ぎなくなってしまっていることをユーモラスに表現しています。また、ザッカーバーグが女の子にビールを抛って失敗する場面は、ザッカーバーグが軽度のコミュニケーション障害をもつギークということよりも、二つの世界のスピードとリズム、タイミング感のギャップを表現するために挿入されたエピソードという意味合いが強いと思われます(本当にこんな感じです)。


○フェイスブックについてではない物語

ビジネスとして本格的にローンチして以降のフェイスブックについては殆ど触れていません。これは尺の問題と作品としてのフォーカスの問題を除けても無難な判断と言えます。巨大SNSのもたらしたインパクトについては、たくさんの側面があり、そして中東の市民革命に代表されるように、根本的に動的なシステムをめぐる世界は今も加速しながら変化しています。だから今SNSを中心に据えても表現できるのは小さなスナップショットになってしまい、映画が世に出るときにはとっくに時代遅れになってしまいます。


○主人公についての物語

この映画、主人公の特徴的なキャラクターが話題になり、確かに表情の変化の少なさやあごの上げ方、会話のズレなどが目につくが、考えてみれば小中学校の頃クラスに一人はこんな感じの子がいたものだ。“野蛮”で閉じた子供社会の中で、内気で体も強くない一方、寄らば大樹の陰をする“器用さ”も無いため低く見られ、しばしばいじめられたりする子。それが続いてゆくにつれて、感情を押し隠すことがならいとなり、コミュニケーションもますます苦手になってゆく。この映画に出てくる『ザッカーバーグ氏』はそういう“どこにでもいる子”だ。僕は転勤族だったから、行った先々でそんな子を見てきた。そして、そんなキャラクターが生まれつきのケースもあるにはあるが、成長するにつれて自分の居場所を見つけ出し、表情豊かな“普通の子供”になっていった例の方がずっと多かった(逆の過程を辿るケースも多い)。『ザッカーバーグ氏』はより“タフな”社会の中で、人一倍高いプライド(と驚異的な集中力/執着心)を持っていたために“こじらせてしまった秀才”以上のものには描かれていない。だからフェイスブックで周囲に認められ始めて以降笑みを浮かべるシーンが出てくるようになるのだ。もちろん周囲はそういう経緯を(『ザッカーバーグ氏』が周囲に対するのと同様)忖度しないことが多いので、この映画のように“不完全なコミュニケーション”がしばしば発生する。

そう言えばこの映画の『ザッカーバーグ氏』を"He is a borderline sociopath, never smiling, never raising his voice..."などと書いた批評が英ガーディアン紙のサイトに載ったようですが*、偏見無くきちんと映画を観ていればこういうことは書かないはずです。

*The Social Network -- review: http://www.guardian.co.uk/film/2010/oct/14/the-social-network-review


ちなみに、引退して何年も経つビル・ゲイツも、軽度のアスペルガー症候群やサヴァン症候群の例として挙げられることが多いですが、新OS発表会のバックステージに現れたゲイツ氏は、何のことはない普通のおっさんでした。よく言われたとっちゃん坊や風でもなく、そんなに体格も悪くなかったです。
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いまさら映画批評シリーズ:瞳の奥の秘密 と川越スカラ座

2011年02月07日 22時53分39秒 | Weblog
テニスに行くとき時々近くを通るものの、一度も入ったことがなかった川越スカラ座、ちょっと興味のある作品が月曜日は1000円で観られるというので行ってみた。

市役所の近くの路地にあり、駐車場も見あたらなかったので、バイクをギリギリまで壁に寄せて停め、ヘルメットは持って入る(クルマで来る場合は市役所の駐車場を借りることになるらしい)。内部はサイズ的にロビーより待合室と呼びたい場所に漫画雑誌も置かれた本棚、年季が入っているが手入れが行き届いた長椅子があり、トイレも新しくはないが、全体的にどこも非常に清潔で明るく、質素ながら細かな配慮が見られる。廊下には個人的にちょっとツボの映画のポスターが張ってあったりする。

劇場に入るとまさしく昔ながらの映画館で、まず天井が高い。仕方の無い部分もあるが、所謂シネコンや都内の最近の映画館で苦痛なのが、天井が低くまるでカラオケボックスかホームシアターのような狭さ、もしくは過剰なまでに画面を“無理やり観させられる”レイアウトによる圧迫感。これが無いことでリラックス度がはっきり増した。空調が後ろに一つやや大きな音で動いているだけなので寒いかなと思ったが、バイクで来た服装のせいか気にならなかった。これについては、無料で膝掛けの貸し出しがされており、使い捨てカイロも売られている。とにかくのどかな感じである。

座席にはドリンクホルダーがないが、古びた感じやヘタリもない。映画が始まると、クラシックな音響も画面(満足できる大きさ)の映り具合も僕には気持ちのいい距離感で、とにかく息苦しさがない。


さて、米国アカデミー賞の最優秀外国語映画賞を取った『瞳の中の秘密』、映画紹介サイトの情報から受けた印象とちょっと違い、眉に皺を寄せて観るような複雑さはなく、エンタテインメントと呼べる範疇の作品である。まあ、『おくりびと』と同じ賞取って、本国でもロングランヒットしたぐらいだから推して知るべしと。

もっときつい表現、撮り方、脚本の掘り下げのし方で、ずっと強い印象を残す映画にもできたはずだが、退屈にはならないまでも全てにおいて抑制を効かせたつくりになっている。これは監督/共同脚本/編集まで行ったファン・ホセ・カンパネラ氏が米国のTVドラマを手がけてきた経歴によるものと、アルゼンチンというお国柄の両方のせいだろう。正直、前者はそつないものの、特に最後のクライマックスの映し方や演技指導にやや“ぬるさ”を感じさせ、後者は奥ゆかしさよりも体面を気にする文化によるもどかしさを感じさせるネガもある。

ただ、秘めた情熱の表現というのはお国柄というだけでなく、この映画の主題でもあり、だからこのようなつくりになっており、その結果たくさんの共感を呼んだことは想像に難くない。さらに、僕は観た記念ではなく、作品を理解するためのヒントがどうしても必要な時だけパンフレットを買うのだが、この映画の、とても“使える”パンフレットにある監督のコメントが実は全てを語ってしまっている。つまり、それでも、人生の新たなステージに進むために、対決しておかなければならない過去もあるということ。


それにしても映画の最後の場面は、情熱を、解放できるためなのかそれとも精算ができるという意味での微笑みなのか、本質は未だにガキである僕はどうしても知りたかったので、確実にこの映画を観ていると思われる売店の女の子に聞いてみようと思ったのだが、パンフレットを買う人が他にも待っていたので諦めました。
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