op's weblog

文字通りのログ。経験したことや考えたことの断片のアーカイブ。

レビュー&プレビュー:テニス

2010年12月30日 21時22分41秒 | Weblog
WOWOWが全豪特派員募集というのをやっていて、その論文?のお題が今年と来年のテニスシーンだったらしい。で、1月中は幸か不幸かどっちにしろ日本を空けるヒマがない僕も真似してちょっとやってみる。


表面的にはナダルの復活から一挙に王座継承がトップに来て、対照的に執着心が薄れが見えたフェデラー、そしてソダーリングやベルディヒ、そして怪我で休んでいるデルポトロといった、ビッグボディ&ビッグショットプレイヤー達が一大勢力であることを確実にした話、といったところが2010年の印象ではないだろうか。

一方、それらの裏にある大きなトレンドは、やはり21世紀に入って年々高度化している、効果的なトレーニングの集中的な導入による戦力アップ、さらに今年目だったのは、1年~数年単位で緻密に計画された強化プランとその厳密な実施(の成果)ではないだろうか。ベルディヒは体型のみならず、プレー自体大きく変化させ成功を納め、ナダルもそれが一区切りついた様子を全米で見せた。今オフに何人のトッププレイヤーがドバイに行っているか知る由もないが、ロディックが死に物狂いでやっているニュースも流れてきている。

このトレンドには当然懸念もある。まず選手が燃え尽きるスピードが早くなること(ソダーリングのコーチを辞めたマグナス・ノーマン氏のようにコーチがツアーに疲れてしまう例も多いが)。その意味でウィリアムズ姉妹のようにグランドスラムに極端に偏重したツアー参加は、ある意味健康的なものであり、フェデラーもそれに近いものがある。興行側にとっては面白くないだろうが、そもそもこんなに消耗の激しいスポーツが事実上オフシーズンもなくいつも世界のどこかで大会をやっている状態なのが異常なのだ。経験やポイントが少ない若いプレイヤーでない限り“マイペース”でやらないほうがおかしい。ちなみに、プロのボディビルディングなぞ、ミスター・オリンピア(世界チャンピオンにあたる)を一度取ると、年一回のその大会しか出なくなる選手も珍しくない。そしてこれがまた新しいネガを生む。格差問題だ。良い計画を立て確実に実施できる環境を整えられるかどうかが勝負のカギになるので、既に強くてリッチなトップ連中はますます強くなり、故障による離脱も減るので、下克上の場面が減る恐れがある。もちろんF1のエイドリアン・ニューウェイのように、トップチームに飽きて新たなチャレンジを求めるコーチもいるだろうし、何と言っても選手も人間なので不確定要素は多いのだが。

いずれにせよ、ヒートアップする状況は現代スポーツ界に共通する懸念を生む。ドーピングだ。プレッシャーに耐えかねて違反対象にあたる薬品や行為に手を出す(本人が知らない場合も含め)選手がより増えるだろう。今年はパワーの重要性がクローズアップされただけに、来年は心配である。既に今年引退したクリストフ・ロクス氏のようにドーピングの蔓延をはっきり告発している事実もある。が、最終的にはプロの興行なので、どこまで表にでてくるかは微妙か…?ドーピングといえば今年もまたツール・ド・フランスがらみのニュースがあったが、あれは昔から大きな問題になっていたのをとうとう抑えきれなくなっただけの話である。


フィジカル、パワーの話といえば、今年のジャパン・オープン。ナダルや錦織が出た翌日の一見地味な組み合わせの日だったが、ラデク・“業界のモテ男”・ステパネクはやはり興味深かった。サービスを含め、とにかくハードヒットする場面が殆どなかったのだ。ひたすら丁寧に相手(フェデラーの幼馴染であるマルコ・チウディネリ)に強打の機会を与えない配球を続けるのだ。世界最高峰のおっさんテニスだ。もちろん、典型的な今時のスタイルであるチウディネリのように、ある程度強打し続ける方がミスも減りやすいはずだし、ステパネクも強打できないわけでもない。で、勝った。但しチウディネリの途中棄権という結果であり、これはステパネクのプレーが引き出した結果なのかどうか、試合を観ただけではわからない部分もある。

一方、女子シングルスでは、奈良くるみの試合をセンターコートで観たのだが、これも興味深い点があった。奈良が打つストロークがかなり“男子プロっぽかった”のだ。つまり有り余るパワーを最大効率で威力とコントロールに変換するために、ポリエステルのストリングでボールを潰し、ゆがんだボールは相手コートにドスンと落ちるスタイル…但し、奈良の場合はボールは潰せるのだが、そこから男子のようなエネルギーをボールに持たせる程の力はない感じで、球威は頑張った程でもない印象。クルム伊達公子は最もとんがった例だが、“最終的な効率”についてまだ検討の余地がありそうに見えた。

そういえば、ジャパン・オープンではアマチュアのように低く滑るスライスショットを打っている選手を練習でも見かけたことがなかった。物凄い回転はかかっているのだが、やはりドスンと着地して、その後の減速の割合がかなり大きいだけの様子。これは戦術上の選択なのか、球威が上がりすぎるとどうしてもこうなってしまうのか、道具のせいか、こういう打ち方しか教わらなかったのか?ちなみに、バックハンドスライスがいいという評判の色男、フェリシアーノ・ロペスは、第1コートでナダルに勝ったばかりのガルシア・ロペス相手に苦戦、スペイン語でコーチに愚痴、コーチもスペイン語でなだめる、最後はストリングに唾吐いてました(笑)

さて、来年の注目選手ですが、まず根拠も無くリシャール・ガスケを推したい。パワーもテクニックも充分、今年の全仏でフェデラーより薄めの握りから繰り出した爆弾のようなフォアハンドも見物。是非精進して一皮剥けた姿を見せて欲しい。

若手ではやはり錦織圭。イマジネーション、スピードと、こんなに魅力的なプレーをする選手は昔を振り返っても非常に珍しい。あとは北のほうで審判に手をかけてしまい、全豪の出場権剥奪の危機にある(笑)グリゴール・ディミトロフか。こちらはフェデラーそっくりの軌跡を辿っているようで、とりあえずジャパン・オープンには来て欲しい。

一方で気にかかるのは昨年今年と大ブレークした巨人達か。長引いた怪我、コーチとの離別、精神的にややお疲れ気味というような、それぞれ不安材料がある。まあ、いずれにせよ、ひとシーズンのなかで全豪は特殊な位置づけであり、全豪後から全仏までの間にいかに“貯金”をするかが勝負になっている状況ではあるのだが…


女子のほうは正直詳しくないのだが、グランドスラムを観ている限り、あそこまで“ファンタジー”に欠けると興行的価値はちょっと苦しくなってきているかなと…もちろんクルム伊達公子は明らかに特別な存在なのだが、彼女のプレイが観られなくなる時も確実に迫っているのだ。
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本日の物言えば唇寒し

2010年12月28日 17時07分30秒 | Weblog
RT @kenokuyama_bot: 特にイタリア人は、議論の最中に素直に感情に出して興奮して見せたりする。実は頭の中はとても冷静だとわかるまで何年も掛かった。感情をぶつける対象は相手ではなく、相手の仕事なのだ。個人攻撃ではない。よりよい仕事をするために一緒に努力しているだけなのだ。

こういう高い目的意識というのは、残念ながら先天的なものではなく、注意深く訓練されることによって初めて身につけられるものだ。多分イタリアの不幸は、これが限られた教育機関や企業でしか学習できないことであり、日本の不幸はこれ自体が否定されてしまうことだ。
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「今度はイギリスでリメークだ!」レビュー:君を想って海をゆく

2010年12月22日 00時01分11秒 | Weblog
と、いうことで、『トロン:レガシー』でふくれあがった何かを早急に解消する対象を探していたものの、『******』はあまりにも評判が良く鉄板状態なので避けることにしました。まあ正直なところ、最近の漫画やアニメにでてくる人体破壊場面が苦手、いや積極的に嫌いという理由もありました。結果、より上映館数の少ない『君を想って海をゆく』を観に有楽町へ。


イラクを追われた17歳のクルド難民ビラルは、徒歩でフランス最北端のカレにたどり着いた。が、海の向こうロンドンには恋人のミナが。長距離トラックに潜んでの密航に失敗したビラルは、思い余ってドーバー海峡を泳いで渡る決心をする。一方、美しい妻との正式な離婚が迫り、憂鬱な日々を過ごす水泳コーチのシモンに、公営プールで練習を始めたビラルがレッスンを依頼する…


ロイヤルまではいかなくとも、高いほうのストレートフラッシュぐらいの価値がある粗筋である。重点を変えることによって、ビルドゥング・ロマンスからアクション、悲恋物等々どのようにでもつくることができる。そして、昨年と今年ヨーロッパで賞を取りまくったこの作品は、ヨーロッパで高まっている排外主義を静かに糾弾する映画としてつくられた。


これだけ魅力的なストーリーなので、眠くなることはなかったし、もちろん目や頭が痛くなることもなかった。が、もっとエモーショナルにできたんじゃないの?したほうがよかったんじゃないの?とどうしても言いたくなる。ストーリー全体の中から映画として見せるために切り取ってくるシーンやその見せ方、台詞に起伏がなさすぎるのだ。これはバックグラウンドミュージックを意図的に省く場面が多くて色気がないとかいうレベルの話ではない。静と動の対比と切り替え、時間感覚の変化等によるタメと開放、色調、音の変化による状況の変化、もちろん俳優の演技(俳優自体に問題は無い)とズーム…言い出せばキリが無いが、とにかく何だか“「普通」に見せているだけ”に見えてしまう。もしかしたらこれが流行のスタイルなのかもしれないが、ここまでくると、「俺はこれに心打たれたんだ!これを見せたいんだ!観ているあなたはどう感じるんだ!?」という表現活動の根幹の部分が非常に弱くなってしまっている。

この映画、というよりストーリーが取り上げている問題を、既に強く感じている人々以外の、よりたくさんの人々とも共有できる作品が、このストーリーできっとできる。ハリウッド映画ぽくしろとまでは言わない。ただもっと素直に感情表現させればそれで充分だ。
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「2Dがおすすめですっ、てか?」 レビュー:『トロン:レガシー』

2010年12月21日 00時17分05秒 | Weblog
本編始まる前に『グリーン・ホーネット』の予告流してたんだけど、「Kato」君はホッペタがふくよかで長めの黒髪うるさそうな坊ちゃん!ああっ、どういう脳みそしていればブルース・リーから引き継ぐ武道の達人役があれになるのだっ!まあ、文化の違いはあるにせよ、アメリカ映画では本当に格好良い東洋人は滅多に出てこないよね。向こうのテレビドラマやニュース映像観てうんざりすることが度々あるけど、東洋人差別は統治戦術としての米国マスメディアの基本ルールになってるようだ。


さて、『トロン:レガシー』ですが…数回気絶しました。

前売り券買って川崎の109シネマズくんだりまで行ったら、「IMAXは前売り割引ききません」とハナであしらわれ、涙を呑んで総額2,200円出し、食事も昼前に軽く済ませ、万全の鑑賞体勢整えて臨んだ午後3時半にもかかわらず、映画に落とされました。劇場で寝たのは多分10年以上前に観た『ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップス』のストイックな音楽無しパフォーマンス以来の屈辱だと思う。


映画が始まってまず気づくのが、この映画のヴィジュアルやストーリー考えた連中が、コンピュータやそれを含むデジタルの世界に興味も深い理解も持っていないこと。現実世界の世界的なコンピューター関連企業の描写でOSの新バージョンがどうだとか、その売り方がどうだとか言っている。20世紀の段階の話をしているのだ。社内のデータセンターの様子も、とても最新のスタイルには見えない。総じてこんな感じで、ちょっと昔の色々な映画から拝借してきたハイテクイメージをまとめてみましたという様子。

当然仮想空間の場面もきつい。まず仮想空間に見えないのだ。オリジナルの『トロン』は、ストーリーがああだこうだ言われながらも魅力のある作品になったのは、デジタル空間世界を物質化し映像化することで、いままでにない世界を見せたこと。粒子が粗く、薄暗い中にぼんやりした色が浮かび上がる当時のコンピュータディスプレイのイメージを、マットで平面的なヴィジュアル、物理法則を完全に無視した動きによって表現した。この、まさに異世界にファンは熱狂したのである。

で、『トロン:レガシー』では、レトロモダンとさえ言えそうな、つやのある黒を基本におそろしく色数の少ないビジュアルを選択した。さらに重量感を強調し、ライトサイクルは滑らかな曲線を描いて走る…って、これじゃ“陰気な『スピード・レーサー』”じゃん!“やたら艶出しした『マトリックス』”じゃん!“照明半分にしたティム・バートン版『バットマン』”じゃん!どこがコンピュータの中の話だよ!

さらに3Dであることが傷口を拡げた。色数が少ないせいか、撮影・編集技術のレベルのせいか、IMAXでも3Dの効果がわかりにくいのだ。(予告編を観た)『ヒックとドラゴン』のレビューで書いた心配が的中してしまったのである。恐らく後付で無理やり3D化したのだろう。効果がないどころか、目と頭がだんだん痛くなってきてしまった。そこでときどき3Dメガネを外して観たが、それで充分な場面が多かった。透過性の空間?を使ったアクションもあったが、これはクリアな画像であればよく、3Dの必然性はない。


プレオープンに一度行ったきりのディズニーランドで、スペースマウンテンという暗闇の中を走るジェットコースターに乗ったが、あそこをさらに暗くしてコースターが動いてない状態でやってる舞台劇みたいな感じである。


ビジュアルが少しぐらいトンチンカンでもストーリーが興味深ければ…かなわぬ願いでした…


かくして、眠気で視界がゆがみ始めたのに気がつき、持ち込んだレモン水をがぶ飲みし、周囲の迷惑顧みず、ダフト・パンクの助けも借りながらピザ風味のチップスを一袋食べたが、負けた。期待の3DCGエンタテインメント映画に…


最後は主人公は現実世界に戻ってくる。やっぱりあんまり変わらない。



『トロン:レガシー』を観てわかることが二つある。一つは3D効果を充分に活用した“新しい”映画特にCG映画が出てくるのはあと2年はかかるということである。“新しい”というのは、『アバター』の次ということ。あれを劇場で観て、初めて最新の3DCG動画の威力を知った人が多いはずである。だから『アバター』の劇場公開もしくは試写会以降動き出したプロジェクトでなければ、3Dの活用の仕方がわかっていない可能性が非常に高い。しかも、今、3D効果をうまく使ったフィクション映画を撮れる人間は全世界でもごく少数であり、多分その殆どはジェームズ・キャメロンのチームか『アバター』の関係者だろう。実際、3D映画撮影技術者の育成は米国でも本格的には始まったばかりであり、3Dをうまく使った動画がたくさん出てくるのは当分先の話だろう、とWOWOWの特集(『ノンフィクションW』)の中で関係者も言っていた。

となると、もしかしたら直近ではキャメロンの次回作を待つしかないのか?何しろ、現在のクリアな画面で3DCGを『アバター』なみにするには、あれくらい精緻な描き込み(来年の元旦にWOWOWで『アバター』を放送するので、さかんに宣伝しているが、普通のブラウン管の画面でも映像の美しさは目を見張るものがある)の技術と資金力、さらにキャメロンのチームの特許を含むエクスパタイズが必要となるのである。なんだか高性能ゲーム機みたいな話であり、日本におけるIMAXのスクリーン数の少なさも考えると、3D映画の将来はバラ色と言い切れる感じではないようだ。

もっとも、実写映画、さらにフィクションよりドキュメンタリーや、何と言ってもスポーツ中継は非常に現時点で有望だ。


もう一つの問題は、もっと根本的なことである。まともな映画の企画考える連中と、カネに関する決定権を持っている連中の乖離が絶望的な状態であるらしいことである。小粒なファンドの話はたまに耳にすることがあるが、よりメジャーな製作陣が企画を公開して広く投資を呼び掛けるスタイルがあってもいいのではないだろうか。いや、もうすぐ出てくるだろうし、将来はそれが標準になるだろう。マルチチャネル、マルチメディアの可能性も考慮すると、よりコンパクトなプロジェクトになる音楽業界の動きも参考になるかもしれない。いずれにせよ、このための"IRやマーコム”が重要になってくることは言うまでもない。


あー、それにしても『Dune』つくってるんだよなー。ものすごく心配です…
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レビュー: 『続・突破者』 その5

2010年12月13日 22時47分42秒 | Weblog
「命をかけた闘い」などと気楽にいうが、所詮はたいしたことではない個別の闘争に、みずから命をかけられるような者は、実際にはほとんどいない。だからこそ、「所詮はたいしたことではない」と相手が思っているような戦いにほんとうに命をかけた者は、かならず勝つのだ。 (223ページ)

第5章のテーマは部落差別との戦い、そしてそこから見えた日本の変質についてである。部落解放運動関連の問題は、「近代の奈落」に詳しいので、ここでは著者がなぜ「闘う」かについて語った箇所をまず抜き出してみる。
 差別は社会的に発生し、社会的に定着してきたものなのであって、したがって、政治的な措置によって、あるいは法的な措置によって差別をなくすことはできないのである。
 だから、「人権」一般を唱えるのではなくて、部落解放運動にとってもっとも大事な被差別部落民の権利としてある「糾弾権」‐つまり差別事象に対して、差別された者が社会の場で直接行動を起こして、これを糾す権利‐を守って、これによって社会的に差別と闘ってゆくことこそが必要なのである。 (236ページ)

個人的には、正直なところ、部落差別については、その存在さえ実感する経験をしたことがないし、網野善彦氏の著書をちょろっと読んだ中に天皇との関わりについての記述を見かけたぐらいのものである。だからこれについては、良くないという以外何もない。ただ一方で、カテゴリの外にある「よそもの・ばかもの」として生きてきた経験は自慢ではないが豊富である。完全に個人の特性に由来する「差別」も結構きついものがある(笑)ただ利点もあるにはあった。それは著者と違って「絆」によるものではないけれど。

さて、著者は、部落と呼ばれるエリアが近年、活気を失ってしまったことを強く感じるようになる。
 それは同時に、部落以外の人々の結びつきのなかから共同体による絆が薄くなっていったのとも関連している。従来の差別は、共同体意識による特定の住民の排除、差別だったのだが、高度成長以後の日本社会では、そうした共同体そのものが壊れていくとともに、共同体の意識も薄くなっていったのである。それまでの差別は共同体意識に基づく差別だったから、そういう形態での差別意識も当然薄くなってきた。 (227ページ)

“昔ながらの共同体への帰属意識”が薄くなり、国家を大枠とする社会システムに属する市民としての意識が強まれば差別はなくなってゆく、という考え方は、率直なところイナカで“昔ながらの共同体への帰属意識”にさんざん悩まされた僕もいいじゃないかと思うのだが、著者はこれを否定する。表層的な平等化が進むほど、(例えばネットでの誹謗中傷のような、)より陰湿に個人に粘着する形の差別が進むからだ。(まあ僕も、そもそも“本籍”などの存在意義は全くわからない。)歴史的裏づけを伴う民衆の生理反応を排除したシステムの適用がもたらす弊害がさらに指摘される。
 被差別集団だけでなく一般に相互扶助的集団形成を妨げているのが、コンプライアンスすなわち法令順守ですべての物事を処理してしまおうとするありかただ。コンプライアンスの専門家である郷原信郎がいっているように、コンプライアンスですべてをすまそうとすると、法令は遵守しているのだけれど、現実の要請には反しているという状態が生じてくるのだ。 (280-281ページ)

これには、当事者達が自力で問題解決する、「自治」を優先し、その過程で生まれる固有のルール、「掟」をつくってゆくことが大切だと著者は言う。ここらへんは企業のような組織運営と似たところがあるし、色々な側面で集団の新陳代謝を如何に起こさせるか等、色々考えなければならないことも多いと僕は思う。ましてテクノロジーの進化によるグローバル化への対応は、単純に「それはそれ」と言える類のものではなく、否が応でもしなければならないのだ。

そして、旧来のつながりが融け始めにしたがい、新しい差別の芽が出始めている。
 日本社会においてもっとも顕著な被差別地域であった被差別部落は、とくに都市部落においては、部落民を核にしながら、格差拡大で新たに生まれた貧困層が流れ込み、新しいスラムに変わりつつある。そこは新しいカテゴリーの被差別地域になる可能性がある。
 その一方で、近代世界の秩序はどんどん崩れてきている。その崩れの過程で、状況によっては、ボスニア・ヘルツェゴビナのように差別が噴出してくることが充分考えられる。 (280ページ)


第6章とあとがきでは、諦観とともに、若者へ語りかけている。全てが薄っぺらくちゃちになってしまった世の中。生半可な希望など捨てて、生きるためにとにかく闘えと。


こんな書き方をしてきたので、今更感想として書くことはない。ただ、「リアル」は何もしなくてもやってくるが、自分で選び取っていかない結果やってきた「リアル」の方がリスクが高い割りに楽しくない内容であることは確かなようである。
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