op's weblog

文字通りのログ。経験したことや考えたことの断片のアーカイブ。

テニス:スイートスポットを増やしてみた

2011年04月23日 16時11分22秒 | Weblog
問題点を挙げればきりがないものの、セカンドサービスはシングルスをプレーする上で長い間大きな「ひっかかり」になっていた。ファーストサービスで用いるフラットとスライスについては、まあ結構実績のある相手にも嫌がられるレベルなのだが、セカンドで用いるトップスピン・サービスは、弾んでからの伸びに欠けるため、アタックされることさえ少なくなかった。

もちろん、トスの位置とヒットするタイミングを大きく変えれば、大きな弧を描く弾道で、相手をコートから遠ざけるサービスが打てるのは確認済みだが、打つ前からトップスピンを打つのがバレバレなのは、実戦的にも好みから言っても避けたいチョイス。

で、雑誌の連載みたいなのが少し面白くなかったが、論理的な結論として、まずいいトップスピン・サービスが打てる形を基本とし、そこからラケットフェイスの当て方を変えるだけでフラットやスライスを使い分けるスタイルを身につけることにした。

が、なかなかうまくいかない。トップスピンだけならトスを背中寄り、後ろ寄りに上げてしまえばいいのだが、それではフラットやスライスが打てない。練習してスイングの軌道とスピードも打った球の軌道も一応それなりになっているのだが、弾んでからの伸びが無い。Youtubeでよくある、男子プロ達がリラックスした練習で見せるインパクト後の爆発的な射出速度、回転によるボールの変形と弾道、それらに起因する弾んでからの伸びが欲しいのだ。あれを訓練による筋力と微妙な技術の差と言って見過ごすには問題がある、何か明確なコツがあるのではないかと思っていた。

で、トップスピンサービスばかり練習していると、時々異質な手ごたえと共にそこそこ威力のあるサービスになる時があることに気がついた。で、わかった。上手な方々には今更と笑われるだろうが、コツは通常のスイートスポットをワザと避けて打つこと。より正確にはラケットフェイスのヘッド寄りで打つことにあった。フラットサービスを基本に考えて練習していたときは、ラケットヘッド側でフレームショットした時の衝撃がひどいため、とにかく通常のスイートスポットを外さないことを考えて打っていた。だからコーチクラスの人から「スピンサーブは通常よりストリング2、3本上で打つといいよ。」と言われた事はあっても敬遠していたのだ。が、検証のため繰り返しヘッド寄りで打ってみるとやはり明らかに球威が違う。

ヘッド寄りで打つ利点は結構あるようだ。

・ストリングがたわまない(ストリングが短い部分なので伸び代が少ない)ので、ボールに力をロス無く伝えやすい。
・球離れが良いので、ボールに瞬間的に強い回転をかけやすい。
・同じ振りでも、スイングスピードがより高い所で打てる。(伝える力がより大きくなる)
・ラケットヘッドを遅らせた、しなやかなスイングが身につきやすい。

動画で確認してみると、プロでこれをやっている様子が最もはっきりわかるのが、フェデラーとマッケンローだった。どちらもストリングは平均よりたわむ設定を好むプレイヤーだ。逆に所謂ビッグサーバーに高テンションの張りを好む人が多いのは、より広いエリアで同じ効果を出しやすいからだろう。

この“第二のスイートスポット”のより一般的な使い方は、ラケットの軌道を横にしたとき、つまりストロークだ。「ラケットの先でスピンをかけるのが好き」という人は多いが、これは癖ではなく論理的な根拠があるテクニックだ。これもフェデラーははっきり使い分けている。相手の短くなったボールを広角に叩き込むショットは彼の得意技だが、あの、フルスイングしても絶妙な落下点にボールが吸い込まれてゆくような弾道、そしてバックハンドで低いショートボールを大きく振り抜いたときの弾道もこれによるもののようだ。ただし、縦糸にナチュラルを使っているので、その弾力性を利用したスピンショットも時々使っている(スイングとボールが出てくるタイミングがちょっと違う)。また、スライスのストロークと、トップスピンが殆ど使われないネットプレーでは通常のスイートスポットの方が有効なようだ。もちろんどのショットでも、速いボールへの対応のしやすさ、衝撃の吸収力やボールのホールド力の点も考慮して使い分ける必要がある。

ちなみに、前段の内容はプロの動画でも自分で試しても確認している。そっくり同じにはならないが、実際にはそんなに難しいものではない。もちろん実戦で自分がやりたいとききちんとできるかどうかは別問題なのだが、知っていて損は無い。
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表現者としての決意とプライド ― いまさら映画批評シリーズ:ビー・デビル

2011年04月19日 21時27分54秒 | Weblog
とにかく(今のところ)上映館が少ないのが残念だが、東京でのシアターN渋谷なら、明日水曜日は1,000円で観られるので是非。

事前にネットでレビューを漁ってしまったので、「あまりキツい映画だったいやだなあ」と観る前から構えてしまったが、ドロドロした人間関係物や最近の映画の残酷描写が苦手な僕でも何とか大丈夫だった。撮り方によっては容易に正視に耐えない作品になってしまったと思うが、監督の元々の作風なのか、細かい配慮なのか、全体的に、なんというか“素直な”画になっている。だからこれから観るつもりの人は、(このレビューはもとより)できるだけ情報を仕入れずにただ映画館の座席に座るのがベストだと思う。まあ、大概の映画はそうだけれど、この映画は特に。


主人公二人がそれぞれ暮らす都会の生活と小島の生活、どちらの描写もしっかりしているなあというのが最初の印象だった。舞台の見せ方に物語を強調する過剰な演出がない。それでも、“人間が圧倒しているソウル”の銀行で働いているヘウォンの“状況”がよくわかるようにつくってあるし、“自然豊かな小島”でボンナムをつないでいる見えない鎖は非常にリアルに感じられる。

出演者は、『チェイサー』で綺麗だけれどちょっと垢抜けない感じの売春婦を演じていた、ボンナム役のソ・ヨンヒはじめ、皆恐ろしく役にフィットしていて、コミットメント(というよりデディケーション?もしくはデターミネーション?)に裏打ちされた演技も素晴らしいとしか言い様がない。言うまでもまでもないが、映画の内容も演技も日本では到底望めない品質だ。ただここまで差があると、これはもはや能力の差というより、映画というものの定義の違い、文化の違いの領域だろう。僕の乏しい映画鑑賞歴では、せいぜい例外は『復讐するは我にあり』ぐらいか。


肝心のストーリーとそれが訴えている事については、日本でも馴染み深いものだ。韓国での公開時は女性の観客達から「さっぱりした!」「爽快だ!」「前からこうあるべきだった」「こういう描き方をしてくれて嬉しい」という感想が多かったそうだ。これは昨年日本で話題になった『息もできない』と同じような現象であり、彼の国の気質はさておき“伝統的社会システム”とそれを存続させてきたものの罪深さを物語っている。そしてこれは、現在東日本大震災と福島原発事故にまつわる諸々の事象の中にいる日本の観客に対しても、期せずして充分以上に示唆的である。が、3月11日以降の話については、日本において共犯意識で社会を繰延してきた“マジョリティ”の喉を掻っ切るような表現は、この状況になっても、寡聞にして聞かない。評価を上げているネットメディアにしてもまだまだ“真面目”だ。まあ、“ロングテール”を見つけることは、ネットでもかなり難しいことはわかっているけれど。


僕だったら違うようにする、と思ったのはやはり終盤かなあ。目覚めたヘウォンに手錠がはめられていた場面を見てかなり期待したのだが、ひねりも無く最後まで行ってしまった。やはり見てみぬ振りをしてきた者への罰として、ボンナムの「罪」を背負わされるようにして欲しかった。幼馴染からのSOSに何故応えなかったのか自宅の床で自問する程度ではなく、「具体的」に。
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悪酔い代わりにそのまま投げてみた

2011年04月04日 21時43分16秒 | Weblog
スーパーのキャベツが大きくしっかりした玉になり、値段も下がっているのを見て、こんなに宙ぶらりんの冴えない気分の場所にも春は来るんだなと。


後知恵っぽくなるのだけれど、震災の前から「どん詰まり感」というのが益々強くなってきていて、自然の方もニュージーランドの次はいよいよこっちかと思っていた人が専門家以外でも少なからずいたのだろうと思えて、そして「震災と原発事故と前後して」、本格的もしくは瞬間的にぶっ壊れてしまった、もしくは化けの皮がはがれた「インフルエンサー」もしくはadvocatorが続出。連中の多くが、知識に裏付けられた論理の積み重ねのように見せてもオポチュニストとしての表現活動で食っていたことを考えると、やはりそれなりに「敏感」な連中ではあったのだなと。


それこそ不謹慎と言われそうだけれど、色々タイミング良く興味深い本を読んでいるのだが、今日読み終わった黒木亮氏の『トリプルA 小説格付会社』の終り、米系格付け会社の日本支社代表が吐くセリフ。
「日本人は優秀で真面目な民族だと思いますけどね。ただ、焼け野原にならないとだめなんですよね。……この東京は、もう一度、焼け野原を経験することになるんでしょう」
には、作者の意図とは別に、「焼け野原」になるときの最大の被害者は大概弱い立場の人たちであることも再認識させられ、やっぱりそうなんだろうなという敗北感というよりもはや無常“感”しか感じられない状況ではある。


まず細かく決められた枠組みができていて、そのなかで「規則正しく自由にやる」のが好きな男連中と、そういう「男社会」を激しく憎みながら「母子関係」を核とした「家族構成」を持ち込み、“裏からの支配”で対抗しようとする女たち。いずれにせよ動的で個が自律した組織を忌避する傾向が強く、当然の帰結として身動きがとれない状態になると、なんでもいいから「黒船」が来てくれるのを待ちわびる社会。まあ、それがあるから食べていけてる自分であることはよくわかっていますが。


いずれにせよ、「口」で生きている人たちをよそに、「動いて働いている人たち」の中では新しい価値観や産業構造へのシフトが本格化してきていることが感じられるから、それはそれで救いではある。


で、「インフルエンサー」の話に戻ると、特に若い世代にはもう古いと看做されていても、“現実世界”で経験積んできた人たちの方が度胸が据わっており浮き足立たず、判断も行動も優れていた気がします。単にボケや頑固さで動じないだけの人も多いようだけれど。



黒木氏は実際にあったことに内在するドラマ性を引き出すのが得意だけれど、この『トリプルA』にしても『エネルギー』にしても、闘う男達の話以外のヒューマニズムっぽいエピソードは苦労しているようだ。
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