op's weblog

文字通りのログ。経験したことや考えたことの断片のアーカイブ。

レビュー:ベイビーステップ(15)

2011年01月21日 14時29分11秒 | Weblog
テコ入れか、はたまた路線変更の狼煙かと思うような表紙だが、中身を読んでからまた見てみると、これはアニマとかの“元型”を指してるのかと勘ぐってしまう…というのは考え過ぎか?


さて、主人公の人生を賭けた戦いがいよいよ始まり、物語が新しいステージに入ったのと同時に、はっきり『メンタル』にフォーカスが移ってきた巻となった。もちろん“濃度”の高いこの漫画らしく、一口に『メンタル』といっても、テニスプレイヤー一般に通ずるもの、プレイヤーのレベルによるもの、そして主人公の年齢や環境によるもの、がそれぞれきちんと採り上げられており、例によってリアリティのある展開になっている。但し、主人公の一種怪物的な(笑)設定上、まだ振れ幅は少ない。

が、心の揺れについては今後どんどん大きくなる話になってゆくはずだ。いままで、リアルとはいっても、この漫画が実験室の中の出来事のようにも見える理由であった、主人公がテニスの上達にだけ集中できている幸せな状況から、自分ではどうしようもない障害や、人間としての経験を通した成長を強いられるように否が応でもしなければ話が進まなくなるはずだからである(作品の質を落としたり、方向性を変えるつもりがなければ、だが。)。そういえば、最近、錦織圭氏のツアー・コーチに就任したブラッド・ギルバート氏の名著『ウィニング・アグリー』は、2巻ともかなりの部分(特に2は全部)はメンタルに関する話だった。


まず、前巻から引き続いている合同練習会では、主人公はプレーのチェンジ・オブ・ペースについて学ぶ一方、女子のトップエリートが、あまりにも周囲に護られたまま順調にきてしまったがゆえに、ゆれ始めている姿を見る。もちろん主人公の方はプロがかかった一連の戦いへ向けて集中しきっており、その目的意識が高いため、既にプロとして実績を上げ始めている先輩タクマとの練習マッチの“捉え方”(このゲームが自分にとってどのような意味を持つのか、そしてどのように自分の糧にするか)もより成熟したものになっている。つまり本番に向けたベンチマーキングとして考えている(ような描き方になっている)。もちろんこれは相手のタクマも同様で、前巻までのようなコダワリはもうどちらにも見られない。


そしていよいよ大会が始まるわけだが、この巻で描かれている2試合とも、事前の調査分析を一度脇に置かざるを得ないような展開になっている。

と、その前に、メンタルに関して今までと違う要素、『対戦相手以外の他者の存在』がはっきり登場する。恋愛関係である。但し相手も志を同じくする“戦友”であり、現時点ではお互いを高めあう理想的な関係である。1回戦では浮ついている様子も無く、だからコーチの反応も最小限である。

さて、1回戦の相手は、肉体の成長によって大きくプレースタイルを変えていた。成長して、変わっているのは自分だけではないのだ。そこで主人公はまず、「使える情報だけ活かしてあとは自分のテニスをすればいい」という考えから始めるが、それでも事前の予想とあまりにも違うことに戸惑う。そこで気を取り直し、ゼロベースから観察と分析をやり直し、第1セットの前半で評価を完了、あとは評価に基づいて立てたプランに集中してペースを上げてゆく展開となった。まあ、これはこの漫画のいつもの流れであり、基本的に主人公のほうが実力が上であることが前提のケーススタディとなっている。


2回戦は早くも大きな山で、大舞台、大きなプレッシャーがかかる状況ほど強い、全国での実績もある相手である。試合前のハプニングについては、主人公はその性格ゆえに影響されない。が、ハプニングによって引き寄せられた観客と、ハプニングによってアドレナリンを出している相手のいるコートでプレーしなければならない。

いわゆる感覚派プレーヤーは、なによりずっといっしょに練習してきた恋人との練習マッチで一応経験済みであるため、パニックにはならず、“問題解決の手順”を冷静に決める。つまり、相手は「その場の思いつきで攻撃しているように見えて、試合が進むにつれてだんだんそれがちゃんとした意味を持ってくる」から、「見た感じを重視して」、「今日の」相手の傾向を探ることに決める。まだこの巻では、戸惑いはあるものの、主人公にとって比較的問題ない状態で終わる。が、双方にとってそれぞれ“不安要素”は示されている。主人公にとっては、相手の一見不規則な選択の結果のショットの精度が、「ノリ」とともに上がってゆくことであり、対戦相手にとっては、主人公の技術とフィジカルの成長に加え、机上の?評価分析作業とさらに「常にポイントを覚えるようにしてるから二度同じ攻撃は効きにくい」という、まるでレインマンのような特性である。


画に“色気”がある方ではないので、余計連載中はピンと来ない部分もあるのが、単行本になるとやはり把握しやすくなる。それにしても、腰帯の台詞は何だかテキストかハウツー本の挿絵みたいでちょっと野暮ったい。


この『ベイビーステップ』とともに最近少年マガジンで楽しみにしているのが(そもそもマガジンしか覗かないのだが)、『あひるの空』で、画の訴求力や所謂キャラ立ち、ストーリーのリアルさなどは(方向性がちょっと違うので仕方が無いのではあるが)こちらの方が上である。まずタイトルからして残酷なダブルミーニングに読めてしまうところからしてすごい。「飛べないあひる」の主人公にとっての「空」は、名前であると同時に(主人公を解放する)バスケットボールそれ自体を表すのか、所詮主人公は「飛べないあひる」であるというのか。読んでいると要求されるバスケットボールの知識が急に高度になって戸惑うこともあるが、こちらも物語としてはいよいよ今まで出最大の山場にさしかかっており、楽しみである。漫画にうとい者にとっては、『ドカベン』はもとより、『スラムダンク』からスポーツ漫画は随分遠いところまで来たなあと思わせられる『ベイビーステップ』と『あひるの空』である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「グローバルで“地続き”に共感できる作品と言ってしまうと褒めすぎか?」レビュー:海炭市叙景

2011年01月04日 01時44分26秒 | Weblog
スノビッシュなところが昔からどうも好きになれないBUNKAMURA(という人は結構いるらしい)の角の交差点をちょっと入るとラブホとクラブが目立つ中にユーロスペースの入っているビルがあった。

1,000円の日の翌日だし、正月ぐらいもちっと景気のいい映画をと考える人が多いだろうと思って行ったら、夕方の回で半分ぐらい埋まっていました。


この映画、おそらくフィルムで撮影し、デジタル処理も入っていないのであろう、最近の映画に多い、無駄にクッキリギラギラがない。ちゃんとスクリーンで一番映えるようにできている映像だから、これは映画館で観るべき映画である。

この映画の驚異的な点は、非日常性を全く見せないところ。多分実際にそこに暮らしている人たちの家をそのまま使っているではないだろうか、ディテールにとにかく隙が無く、日本で生活する者にとっておそろしく高度にリアルにつくられたフィクション作品なのだ。関東地方だと、フジテレビの毎週日曜午後2時あたりでやっているドキュメンタリーのナレーションをとってしまったものがイメージ的には近い。

僕自身は、「独身中年タクシードライバーの日常」みたいなものが何故か昔から嫌いじゃなかった。傍から見れば、ただでさえ勤めに疲れているのに、他の勤め人の生活覗いて何が楽しいのかと思うかも知れないが、あの淡々と独りで生きている姿が醸し出す「静けさ」を見ていると、日曜の午後になってもまだ緊張が抜けきっていない状態だったのが、不思議と落ち着いた気分になれたのだ。もっとも、勤めに悩まなくなってからはこの手のものを観ることはなくなってしまったのだが…


そんな“凝った”映像でできた、オムニバス・スタイルのこの作品は、言ってしまえば、うつろう世の中において過去にとらわれているために未来を拓けないでいる人たちのスナップショット。淡々とした日常(なつかしい過去)へ戻ることができなくなって途方に暮れている姿である。しかも何らかのカタルシスが得られるきちんとした結末もない。だから映画として評価する前の時点で好き嫌いが分かれてしまう作品かもしれない。


2010年公開のこの映画の原作は、1990年に自殺した作家が書いた小説である。20年以上前の、ローカルで時事的な素材を扱った作品がいま、更にリアルに感じられるのはおかしいか?いや、これはずっと前から世界中で繰り返されてきた物語であり、それをこの(高度にローカライズした)映像で見せることで、逆に、多分国内外の誰が観ても“地続き”に共感できる作品になっていると思う。うん、良くも悪くもこの作品には共感しか与えるものがないと思う。


舞台セットに劣らず、出演者もプロアマ問わず皆とてもよい。だから高度に“非非日常的”な映画になったわけだ。それでも首を捻るところもなくはない。例えば谷村美月氏はとてもいい演技をしていて、冒頭の起床の場面や展望台でビールを断る場面などは無茶苦茶自然で、フィクションではなく隠し撮りを観ているようだ。が、エピソードの終わり、なかなか来ない兄を待っている場面、“事実”を察しているためか、それともどん詰まりの“現実”に対してか、プレッシャーからすくんで動けなくなっている姿、そして「あと一分だけここに居させて」と訴える表情は、この映画の中で唯一演技で観客に直接的に訴えかける場面なのに、いまひとつ“来る”ものがない。それまでがよかっただけに、「あれっ?」という感じである。演技者のコンディションか演出の詰めの問題か?また、その兄を演じた竹原ピストル氏については、さらに全般的に演技のぎこちなさをはっきりと感じたし、演出もイマイチだったのは残念。


さて、各エピソードの主役たちには設定上の共通点がある。家族に欠落やゆがみの問題を抱えていることだ。これこそが核となる問題(テーマ)であり、最後はそれぞれが、それぞれの形で一息つく姿を与えられている(最初のエピソードもそうなのだろう)。もちろん(スナップショットなのだから)事態は未だ進行中であり、それはこの映画を観ている我々もまた同様なのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする