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op's weblog

文字通りのログ。経験したことや考えたことの断片のアーカイブ。

今日のひとこと:「片手打ちバックハンド」は絶滅危惧種なのか? について。

2024年03月07日 21時45分06秒 | Weblog
「片手打ちバックハンド」は絶滅危惧種なのか?男子テニス世代交代の波とともにプレースタイルも転換期に<SMASH>


この問題って、数十年前から言われていた「危機」なんだけど、根本的な原因は多分、

「片手打ちバックハンドの、フォアハンドとの重要な違いを明確にし、それに基づく論理的な打ち方のレクチャーや練習がされてこなかった」

からではないかと思います。具体的には、「打点」が大きく違うので、それに合わせた立ち位置、テイクバック、ステップインの幅、ヒットのタイミング等をフォアとバックでは別々に学ぶ必要があります。一方、両手打ちバックハンドはフォアハンドとまあまあ同じ打点とタイミングで打ててしまうので、手っ取り早く覚えられる。いざとなれば不完全な準備でもなんとか「手打ち」で打ててしまう。

史上最強のテクニシャンの呼び声も高いフェデラーが若いライバルたちに研究され、苦労した原因もこれです。フェデラーはテンポの速い超攻撃型で、しかも魔法の様なフォアハンドで先手を取り、早く前へ行って決めたいプレイヤーです。だからストロークのポジションはどうしても速いタイミングでフォアが打ちやすいものになりがちです。するとそのままでは片手バックハンドでは食い込まれたり、守備的なスライスで打たされる比率が高くなります。

一方、フェデラー復活の立役者のひとりにもなったエドベリをはじめ、バブリンカ、ガスケたち片手打ちの名手は、必ず「一歩下がって」構えて片手でヒットしやすい空間を確保し、そこから厚いあたりでスピンも効いた強烈なバックハンドを打っています。より若い事例では超攻撃型プレイヤーのシャポバロフも実は比較的「片手バックハンドに合わせた基本ポジション」をとっています。その分フォアハンドはやや時間的余裕があり、より高めの位置で打つことが多くなるので、テイクバックが高く大きめになっています。

では、フェデラー(とエドベリ)はどう改善したかというと、フェデラーの強みであるテンポの速さとフォアハンドを活かしたままのポジションで、バックハンドはより打点を前に、常にほぼオンザライズか場合によってはノーバウンドで打つという、稀代の天才らしいやり方を選択し、成功したのです。

ちなみにコーチのエドベリは、現役時代、歴史に残るネットプレイヤーだったにも関わらず、じっくりラリーする時はベースラインから大きく下がってより低い打点で打ち合い、そこから機を見てベースライン近くまでポジションを上げ、アプローチショットを打ってネットへラッシュするという、非常に体力の要る戦い方をしていました。これでジュニアグランドスラム達成、オープンクラスでも多数のグランドスラムタイトルを獲り、単複世界1位を達成、そして全仏でも決勝フルセット負けの準優勝を達成したのですから、(優雅で)上手いだけでなく「勤勉さとタフさ」も印象的なプレイヤーでした。


さて、現在のトッププロの「環境」を見てみると、西岡良仁選手が指摘する内容から類推するに、今までよりやや空気圧の低いボール、ハードコートはよりグリップがよく跳ねやすいサーフェイス、が増えているのかも知れません。そうなるとより速いヘッドスピードと、より強い「押し込み」で球速と回転数を稼ぐ打ち方(&パワー)ができて、ポジションもより前でテンポが速いプレイヤーが有利になっている可能性があります。これではまず軽いラケットでパンパン攻め続けるのが基本トレンドになってしまい、早く「戦績」が欲しいジュニアたちに片手バックハンドを教える時間的?余裕も投資対効果も少なくなる、かもしれません。


では、片手バックハンドによって多様性と美しさ?をテニスが保つためにどうすればよいのか?一つのソリューションとして、日本の様に砂入り人工芝の様な跳ねにくく球速も落ちやすいサーフェイスを増やすという方法があります。が、現実的な策としては、まずこのエントリーの初めに書いた、フォアとバックの違いを考慮した教え方をする事、特に今はプレイ&ステイや、場合によってはピックルボールの様な、体格も体力もない子供がより軽い負荷でより自由なプレイがし易い環境があります。そしてコーチ含め「大きなお友達」達には、「そもそも両手打ちと同じ戦い方をする必要があるの?」と。

今日のひとこと:一見眉に唾つけたくなる様な研究発表を含め…

2024年03月04日 19時40分20秒 | Weblog
概要を知るだけでも、AIの研究や開発というのはつくづく人間や生き物の研究、というかその現象の理解の探求、学びなんだということを実感します。例えば言葉のベクトル化は、生命の根本的な衝動を持たないはずの現在のAIにさえも、機能的構造的な(表層的な)意味以外の?意味を与えている…のかもしれない。ならば言葉(強度に変換される概念の学習)だけで意識は生まれるのか?その意識は表層と深層に分かれるのか?等々観客として最高最先端のスリルを楽しませてもらっていますが、気が付いたら映画館が火事で非常口も閉まっている…ということになる確率もどんどん高まっている事も「頭では」理解してます…

今日のひとこと:AI研究・開発競争(狂騒?)のスピードは依然衰え知らずなんだけど、

2024年02月26日 23時28分03秒 | Weblog
進化の予測の精度や内容というものにはやはり注意を促す、というか「くれぐれも取り扱いに注意」を呼びかけたいと思います。

これはもう人生上仕事上の(長年の)経験則というか少なくとも1980年代にはもう義務教育終える年代になっている方々には明確なファクト(記憶が鮮明で記録も豊富なので)だと思うのですが、

簡単に言うと、世の中に直接大きな影響を与える「技術革新」や「技術が関連する事件」というものについて、当該技術の有名な研究者や開発者の語る予測・予想はあたりにくい。特に核心に近づく(影響のクリティカル度が高くなる)事柄や段階になる程それが顕著になります。

21世紀に入ってからでも311関連がすぐ思い出されるでしょうし、新型コロナもそうかもしれません。そしてAIについても今の所残念ながら例外になっていません。それがよくわかるのが、「AIの進歩と普及によって人間が失業する仕事と生き残りやすい仕事」について、オックスフォード大や東大の有名研究者さんが出した予測ですね。

結局研究や開発の渦中にいる人というのは、自分の「仕事」に対して「徹底的に客観的」になるのはとても難しい。つまり利害や興味の中心にある事柄に対してコミットメントが強い人ほど「弱い」。* だから特に、「決定的な評価や見積もり」する際の彼等のバイアスは意識的にも無意識でも強くなります。

*まして自分が考え出してなんぼの仕事についてであれば、自分の頭の中を自分でリアルタイムに観測して予測を行え、というのは無理な話です。


極論かもしれませんが、研究者や開発者は「結果的にそうなっちゃった/こういうものができちゃった」でもある意味仕方がない。大切なのは、オタクたち(研究者や開発者)に嫌われても、彼らを見守り事態の適切な評価や予測をいち早くできる人間、つまり幅も深さも十分な知識(/教養)を持った「タフな人間」をそばに置く事、そしてそういう人間が育つ教育システムにすることです。結局、地球規模で破滅的な災害が起きてすべてが灰にならない限り、どうせどうやっても科学技術は進んでしまう。必要なのは技術をどうするか、という事についてしっかり判断し考えられる人間を増やす、「底上げ」をすることです。

今日のひとこと:権威主義は作り手も視聴者も殺し続ける。「馬鹿のハコ」には近寄るな。

2024年01月30日 13時24分29秒 | Weblog
この手の話題は取り上げるつもりなかったんですが。

https://twitter.com/ryohin_jp/status/1751935402397872353

これねえ、「調整役」の質ももちろん問題なんですが、そもそも脚本家から相当問題のあるツイートが出たのが問題なわけです。そして原作者の自殺を受けてテレビ局が素早く出した「責任逃れ声明」がまた醜悪で。

最近の大御所漫才師?のスキャンダルも結局根は一つなのです。つまり放送業界の権威主義です。善悪や価値判断が独特の権威構造に基づくものになってしまっているので、「業界外のクリエイター」や「新しく入ってくるカモ」に対して無茶苦茶な事しても疑問をもたない。知人の物書きもテレビ局の傲慢さに辟易して、一度取材を受けて以降は断っていると言っていました。最初に挙げたURLのツイートも、「業界内の論理」でしか考えていない発言です。

同じことはもうちょっと大きなハコ、つまり映画業界についても言えます。米国、そして日本でプロデューサーや監督等の性犯罪が暴露されてしばらく経ちますが、「肝心な」クリエイティブのプロセスにおいても問題が露呈してごまかしが効かなくなっている状況である事を僕も時々指摘してきました。最近では以下かな。

2023年06月19日 今日のひとこと: いまさら「ハリウッド映画が終わってる」と言うのはギョーカイ内の人だけだと思うぞ

今回の事件で今更言わなくても「シフト」は加速するでしょうが、とにかくもう旧来のマスメディアにはクリエイターは近寄らない事です。

今日のひとこと:震災と不景気が加速させる居住空間の捉え方と使い方の進歩と進化。

2024年01月06日 14時48分06秒 | Weblog
仕事柄と引越し経験が多かったことから、コンテナ型/モジュール型/セル型住居の可能性というか、こと近年の日本の自然環境下では必然性を強く感じています。が、ネットを漁っても、事例として紹介されていたりや提案されているモデルはその持ち味を活かし切れていないものが多く、また建築関係の法律で無駄に割高にもなっていてじれったく思っていました。

で、今年の元旦に、期せずしてその可能性と有用性に注目が集まる大災害が起きたわけです。

そこで恐ろしくタイムリーに出た記事。

ラトビアから来た30歳女性バックパッカーが「1畳半の“持ち運べる部屋”」で暮らす驚きの理由|BUSINESS INSIDER

この記事で紹介され提案されているモバイルセルはかなり小さいものですが、それでも「外」と「母屋(ハウスコア)」を活用するセンスによって、居住空間/生活空間を豊かなものにできるという実例を見せています。

個々人が本当にスタティックであってほしい空間とそのサイズを明確にし(これが大事)、「エリア」ごとの役割を明確にし、必要に応じて「ダイナミックにつなぎかえる」。(一軒家住まいですが、実は僕もだんだんこの傾向が強くなっています。)

これなら日常を閉塞感を感じず、ミニマムなエネルギー消費で快適に過ごしやすい。そして大きな自然災害の様な「非日常」においては、圧倒的な堅牢さ・保温性・耐震性…そして可搬性で、モバイルセル/個人的空間をそのまま優れたシェルターにすることができます。特に、どんどん増えて問題になっている古い一戸建てをミニマムな改修で再利用できます。また、日常でも非日常においても「外」とのアクセス、関係性を必要に応じてコントロールしやすい。

なにより、「物理的な自分の居場所」の検討は、「自分が欲しい/欲しかった」ものは何かをしっかり考える良いきっかけになり、そこから得られるものも多いと思いますよ。