United Minds (Strikes Back)

2013年に解散した電子音楽ユニット、SpiSunのWeblog“United Minds”跡地

彷徨して徘徊する男 その2 続・郷土編(下) 〔by ラウド〕

2007-02-26 01:35:31 | History

もう約一週間前の話になっちゃいますが、続きを。


降りてくると、何やら台座のようなものが建設中。志摩城に関しての石碑でも建ててくれるのでしょうか?
…まぁそれはないか。
この写真の右側にも登ってみるが、収穫はなし。


志摩城跡から多古城跡を臨む。携帯電話用のアンテナを天守閣に脳内変換してみる。


このまま帰るのも何なので、島地区を少し探索してみることに。

戦国以後の島地区は、日蓮宗不受不施派の拠点となっていた地だ。
現在でもわが町は日蓮宗を主な宗派としているが、その日蓮宗は主流となる受不施派と、「より日蓮の教えに近い宗規を」と分裂したのがこの不受不施派だ。
江戸時代、両派は対立から江戸城で論を戦わせる。身池対論と呼ばれるものであるが、キリスト教同様に支配者に何かと都合の悪い不受不施派はこれに破れ、キリシタン以外の宗派としては唯一弾圧を受ける事となる。
ちなみに、身池対論には何とわが町から両派の代表が一人ずつ参加しているようです。すげーな。
不受不施派に関しては、ウィキペディアで詳しくどうぞ。

この島という地域には中心に不受不施派の拠り所となるお寺があったが、明治頃に長崎に移転してしまった…という話は聞いていた。(この方のHPが詳しいです)

とりあえず、走ってみる。

この写真ではちょっとわかりにくいかもしれないけど、この地区の道は迷路のように細く入り組んでいる。

地元からちょっとだけ離れた高校に通っていた頃、博識でお金持ちだった古文の先生が我が町の事をよく知っていて、この地区は多古城への敵の侵入をふせぐため、迷路のような地形で敵を惑わせ関門としてその役割を果たしていた…という話をしていた。
はたまた、不受不施派の人々がその身を潜めるために、このような複雑な道にしたのだ、と言っていた人も。
一つ言えるのは、この地区全体が“島”として、強固に団結していたことだけは事実だ。

道を奥へ奥へと入っていくと、お寺がある。前述の移転した所ではない。



大戦の戦没者を祀った碑の他に、信者が連判で記された碑などが建っている。これは怪しい。

帰って調べると、予想は的中。このお寺は成等山正覚寺といい、明治の不受不施派解禁以後、彼らが受不施派から買い取ったお寺らしい。

このお寺の隣にあった小さな神社らしきものにお賽銭をあげ、しばし祈る。
ここでついこないだまで弾圧に耐え、自らの信心を貫いた人々の思いをひしひしと感じるようで、何だか圧倒された。
この地区の人間とはあまり親しくなかったが、ここ出身の人間はみな我が強く、一筋縄ではいかない逞しい奴らだった…ような気がする。

早起きしたおかげで、まだ時計は午前中のまま。
しかしあまり逞しくない僕としては、Jの2007名鑑も早く購入したいのでここで帰路へと就くのであった。