NHKカルチャーラジオ漢詩を読む「漢詩の来た道」
の録音(1月29日放送分)を聴いた。
「それぞれの終焉」の放送。明王朝末期の亡国詩人
王彦泓、陳子龍、朱舜水の詩の紹介。
特に興味をもった詩人は、「朱 舜水」である。
中国の時代の転換期(明から清)に活躍し、志ならず
明朝末期に日本に亡命し、日本文化の発展に貢献
した、この人物を初めて知った。
朱 舜水作 漫 興(苦吟せず、ふと生じた閑興)
テキスト P168
私ははるかに徐福のあとを追い
舟を寄せて中国とは別のこの日本に住むことになった
埋もれた先哲の遺書を求めて古い屋敷を探し
仙島への路をたどって中国本土とは縁がなくなった
流れる水のように年月はとめどもなく去ってゆくが
古い知人たちにはいつになったら再会できるのか
故郷からのたよりが何年も経って届いたのを見て
別離の嘆きは深まるばかりだ
Wikipediaより
朱 舜水(しゅ しゅんすい 1600年~1682年)
明の儒学者である。江戸時代初期に来日。
舜水は号。諱は之瑜、字は楚嶼・魯璵。
中国では李自成の乱により1644年に明朝が滅亡し
新王朝である清朝が成立する。
舜水は仕官はしていなかったものの華南を中心に
明朝再興のための運動に参加し、軍資金を得るため
日本やヴェトナムへも渡り貿易などを行い、南明政権
の魯王や、台湾に拠った鄭成功を支援し、1659年の
南京攻略戦にも参加している。
舜水は鄭成功が鎖国政策下の日本へ救援を求める
日本請援使として派遣されていたが、南京攻略戦の
敗退後、1659年冬に復明運動を諦めて日本の長崎
へ亡命する。
1660年には筑後国柳川藩の儒者安東省菴に援助
され流寓生活を送る。
明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が
渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われてい
たが、1665年には常陸国水戸藩藩主の徳川光圀が
彰考館員の小宅処斎を派遣して舜水を招聘し、同年
7月には江戸に移住する。
光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えた
ほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、
光圀の修史事業(後に『大日本史』と命名)の編纂に
参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者
とも交友し、漢籍文化を伝える。83歳で死去。
死後には光圀により遺稿の編纂が行われ、1715年
には『舜水先生文集』全28巻としてまとめられる。
東京大学農学部内には“朱舜水先生終焉之地”と記
された碑がある。
墓所は水戸藩主累代の墓地である瑞龍山(茨城県
常陸太田市)で、明朝様式の墓が建てられた。
テキスト P169 東京大学農学部校内にある碑