没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

逆説の未来史35 贈与の経済(13)  第二次経済を第一次経済へと統合する方法

2013年10月02日 23時33分44秒 | 逆説の未来史

■リカードは第一次財の価値を理解していなかった

 アダム・スミスの『諸国民の富』は次のような文章から始まっている。

「あらゆる国における毎年の労働は資本であり、それが生活上の必需品や利便性のすべてもたらしている」

 種々な形で表現されるこれと同じ概念は、近代経済学において最も疑問視されることがない想定とされ、労働が経済を理解するうえで決定的だと論じられている。自然からもたされている財やサービスが労働を可能としており、それなくしては、労働がまったく役立たないという決定的な事実が見落とされている。それどころか、この認識をきっぱりと拒絶するエコノミストすらいる。その典型が、アダム・スミスの最も有力な後継者の一人、デヴィッド・リカード(David Ricardo, 1772~1823年)である。リカードは、経済学上最も名な人物となっているが、それは、自由貿易協定のためのリカードの議論が、当時の大英帝国、そして、現在の米帝国に極めて有用であるからにすぎない。学生向けの経済学の教科書には、リカードの議論がいまだに見出せる。

 けれども、リカードの経済論のコアをなすそれ以外の要素には奇妙な主張がある。どのように用いるのであれ、「土地は不滅な経済的価値を保持する」とリカードは主張していた。19世紀前半でさえ、多くの人たちがこのリカードの主張の誤謬を指摘できた。不適切な農業を行えば土壌が痩せて農業に使えなくなる事実はリカードの時代にもよく知られていた。けれども、このリカードの土地に関する考え方は、それ以降、ほとんどのエコノミストが天然資源を扱うやり方を前もって示していた(3-2)

■農地の豊かさは自然との贈与のやりとりで維持されている

 誰かが環境を汚染すれば、結果として、それ以外の人たちも経済的な価値の損失に苦しめられる。ある個人が環境破壊によって利益を得ることを認める社会は、結果てきに社会全体にそのコストを負担させることになる。ギャレット・ハーディン(Garrett Hardin, 1915~2003年)の「コモンズの悲劇」のように、「外部性」の概念を主流派の経済学が取り入れたのはごく最近のことだ。けれども、「外部性」の議論もハーディンの主張も、環境と経済学とのつながりの重要性を見落としている。いずれも、リカードの「不滅な土地」という幻想を大前提として認め、これをあらゆる環境に適用し、「外部性」の問題を例外的な状況として扱っている。

 この思考の欠陥性をより明らかにするため、リカードが「その価値が不滅である」とみなした土地についてさらに掘り下げてみよう。リカードの時代のどの農民たちも知っていたにもかかわらず、リカードが理解していなかったことは、それ以外のどの価値とも同じく、農作物の栽培に適した肥沃な土壌は自然発生しないということだった。

 肥沃な土壌はただ石が細かくなったものではなく、この宇宙における最も複雑な物質のひとつであり、良質な土壌のほとんどは半分以上が有機物で、完全に腐植化はせず、分析化学者も頭を悩ますほど複雑な有機コロイドとなっている。その土壌内では、絶えずエネルギーや物質が流れ、バクテリア、菌類、藻類、虫、昆虫他の多くの生物からなるこの地球上で最も複雑な生態系のひとつとなっている。

 農作物を育てたい農民は、土壌生態系から「富」を引き出すことを試みる。なるほど、農民は土壌のニーズに注意を払うことなく作付や収穫を行える。けれども、それを続ければ数年で土壌養分は枯渇し、作物が育てられなくなるであろう。あるいは、農民はその養分を化学肥料に、天敵を農薬で代用できる。けれども、それを続ければ同収量を得るために、さらに大量の化学資材を使用しなければならなくなり、こうした化学資材を生産するための石油や天然ガスが枯渇すれば、無菌化された土壌と悩ましい害虫だけが残されるであろう。そして、私たちの社会はまさにその兆候を示している。

 もし、農民がリカードが言う「不滅の土地」のように、祖父母から継承したのと同じ状態で孫に土地をゆだねたいのであれば、農民は長期的な土壌の健康のために、土壌のニーズを満たさなければならないであろう。別な表現をすれば、農民は、土壌と「物々交換」し、作物との引き換えに土壌が受け入れてくれるものを与えなければならない。

 これが有機農業の前提である(3-2)。フランクリン・ヒラム・キング(Franklin Hiram King, 1848~1911年)が『東アジア四千年の永続農業・ 中国・朝鮮・日本』(2009)農文協(Farmers of Forty Centuries or Permanent Agriculture in China, Korea and Japan,1911) で記録された中世の中国や日本の農業システムは、なによりもそのよいモデルである(3-5)。それは、自然の循環に対抗するのではなく、自然とともに働くように20世紀前半の有機農業のパイオニアたちをインスパイアした。現在の有機農法では、ほぼ化学農業に匹敵する収量が得られているが、有機農業がさらに重要なことは、有機農家にとって土地とは所有できる商品ではなく、農民がかかわるコミュニティであって、そのコミュニティに農民の経済が依存していることである。すなわち、作物栽培に適した肥沃な土壌は、作り出されるものであり、ひとたび作り出されても維持されなければならない。さらに、土壌がそれ以外の工業製品と決定的に異なっているのは、この肥沃な農地を作り出し維持するために必要とされる労働のほとんどは、人間によってはなされないということなのである(3-2)

 この概念をさらに発展させてみよう、ある農民が畑からではなく、近くの先住部族の村から農作物を得ているとイメージしてみてほしい。先住民たちは保守的で、その経済も伝統的なしきたりに従っている。そこで、農民が作物を得たければ、先住民たちが嬉々として作物と交換したがるものを見つけ出さなければならない。既に余剰に生産されているものや先住民が嫌悪するものは不適切で、不足しているものや望まれるものが適切であろう。農民の先住民の村との関係性は、有機農家とその農地との関係性とアウトラインではまさに同じであろう(3-2)

■マルクスが自然の贈与を理解していなかったことから社会主義国家では環境破壊が生じた

 この自然に対する依存は、経済活動のほぼすべての形式に該当する。第二次財を産み出す人間活動の背後には、驚くほどの人間以外の活動がある。そして、人類が第一次経済のキャパシティーを超えてしまった兆しは、身の回りにすべてある。世界の「在来型(液体性)石油」の生産が2005年にピークに達したことは、そのひとつにすぎない。ミツバチの大量死も別の兆しだ。原因が何であれ、人間の財・サービス生産が依存している自然システムはおかしくなってきている。人間の経済活動を可能にしている自然システムが、私たちが課す負荷の下で壊れ始めてきているけれども、「自然の富」のためには人間以外の世界に対して支払う必要がないとされ、人間の労働によってそれ以外のものに転換されるまでは、自然の富は無価値だとされている。例えば、マルクスも「自然からの無償の贈与」をまったく評価していなかった。20世紀のマルクス主義政権下において、環境問題が発生したことは、偶然ではない。それは、マルクス主義から理論上必要な派生物だったのである(3-2)

■アダム・スミスは「マネー=富」ではないと警告していた

 これだけで十分に気力はくじかれる。けれども、私たちの苦境はそれだけではない。第一次財と第二次財とには違いがあることを見てきたが、自然によっても人間の労働によっても産み出されない三番目の財がある。それはマネーである(3-2)。第一次経済はサバイバルに欠かせず、第二次経済も、自然から直接的にはもたらされることがないとはいえ、実質資産のすべての源である。一方、マネーは富ではなく、ただ冨を測定する尺度にすぎない。富を分配するための社会的メカニズムとして機能する指標にすぎない。

 もちろん、アダム・スミスの時代においてもマネーを冨と同じものと見なすことが一般的だった。けれども、アダム・スミスは、『国富論』において、この概念を批判している。アダム・スミスは、国の富とは、天然資源と労働の成果から構成されると指摘していた。それは、ここでの表現では、第一次経済と第二次経済によって産み出された財・サービスである。一方、マネーからなる「第三次経済」は、ただ富を測定し、その分配を管理する手段にすぎない。現実にそれを支える実質資産、第一次経済と第二次経済で生み出された財やサービスがなければ、それは何ら意味がない。

 なるほど実質資産は、数値化することが簡単ではない。一方、マネーは富を測定する単位であることから定量化することが容易い。これが、様々な富を交換するために、とりあえずの手段として、その相対的な価値を分類するためにマネーを使う理由なのだ。けれども、冨の測定手段としてあまりにも便利であることから、マネーは冨そのものの影を薄くしてしまう。日常生活のすべてがマネー化され、マネーなしでは何もできなくなっているため、マネーと富とが混同されている。ほとんどのエコノミストたちが、「富」について語っていながら、実のところは「マネー」について語ってしまうのもそのためだ。これは、私たちが「マネー」に関してまず子どもたちに教えるべきものだろう。そして、「マネー」に関してエコノミストたちにまず教えるべきものでもあるべきだ。けれども、もちろん、そうなってはいない(3-3)

■マネーだけあってもモノがなければ生きられない

 最近では、多くの人たちは多額の「マネー」を集めることが、困難な未来への最良の準備だと考えている(3-3)。けれども、マネーの異常性を明らかにするため、極端な事例を思考実験してみよう。乗客全員がエコノミストである飛行機が、太平洋上の不毛な島に不時着したとイメージしてみてほしい。その島には露岩と砂とわずかな草があるだけで、食料も水も家もない。エコノミストたちは、アタッシュケースに100万ドルを抱えて沈む飛行機から島にやっと漂着する。その島での需要は、食料、水、家である。けれども、その需要は島に船が到着するまでは、マネーがあっても満たされない。つまり、経済学は物理的な現実には打ち勝てない(3-1)

 不毛な島のエコノミストたちの思考実験を続け、今度は、エコノミストたちが餓死を心配する必要がないだけの水や食料が島に不時着したとしてみよう。島のエコノミストたちは各自が手にしている100万ドルに相当する生活水準を手にしているだろうか。もちろん、してはいない。彼らの豊かさは、手にしたパンの木の実や捕らえる魚、建てる小屋等によって測定されるであろう(3-3)

■逆説の未来への教訓~贈与経済の威力

 このように、第一次経済、第二次経済、そして、第三次経済の違いは大きい。けれども、まったく異なるこうした三つの経済を、あたかもそれらが同一であるかのように扱っていることが、経済的な愚行を避けられなくしている。この違いが現在の苦境の中心となっている(3-2)。前述したとおり、「第一次財」の価値を評価することは、どのマネー制度においても大きな難題である。そして、マネーは、「第一次財」のように大きな財の評価を簡単にするのではなく、むしろ難しくする。

 けれども、世界中の長期的に生きのびてきたほとんどの伝統社会は、「第一次財」の価値を認め、なんらトラブルを抱えることなく、自分たちの交換システム内にその価値を統合するやり方を見出してきた。例えば、カナダの北西海岸に沿う、約70万人、630以上の先住民、ファースト・ネーション(First Nations)における「サケの儀式」がその適例である。ファースト・ネーションのような社会は伝統的に贈与経済を持ち、その社会的な地位や影響力は贈与システムによって獲得され、その社会内において物的な富を循環させるうえできわめて効果的に機能させてきた(3-2)。ある者が多くの権力を持ち、あまりにも多くの富をその手に集めないようなシステムを構築してきた。狩猟採集社会においては、大きな獲物の肉をわかちあうことが慣習的なルールになっており(3-1)、クン族は、伝統的なしきたりにしたがってバンド間でヌーをわかちあってきた (3-3)。多くの部族社会の伝統的な社会的規範は、酋長の地位を維持するには気前が良く寛大であることを求め(3-1)、カナダ・ブリティッシュコロンビア州に居住する先住民族(ファーストネーション)のハイダ族(Haida)の酋長は、来訪者全員にポトラッチで毛布やサケをわかちあってきた(3-3)

 そして、彼らは毎年のやってくるサケを、「サケの人々」からの贈与として、まさに同じように扱っていた。サケを保全する伝統的な実践は、サケの収穫に影響しないよう決定されてきたが、「サケの人々」は、贈与経済に完全に参加できても、それを現金化したり、言えば書きとめる方法はなかった。こうした取り決めは無貨幣経済においてはほぼ普遍的で、歴史上マネーをささやかなやり方でしか用いてこなかった多くの経済において見いだせる。人類学者はこうした取り決めを純粋に宗教的な問題として扱っているが、その重要な中心的な面を見逃している(3-2)。中世の小農は領主のためにある日数だけを働いていた。けれども、誰も、マネーを使ってはいなかった。古代エジプトの複雑な都市社会も完全にマネーなしで千年も運営されていた(3-3)。一方、経済がより完全にマネーに従うようになればなるほど、経済的な計算に第一次財を組み込むことが困難となっていく。贈与は、伝統的な第二次経済を自然の第一次経済へと統合するやり方だったのである(3-2)

【引用文献】
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) ウィキペディア

リカードの画像はウィキペディアより
ハーディンの写真はウィキペディアより
キングの写真はこのサイトより
ハイダ族の集落の写真はウィキペディアより



逆説の未来史34 贈与の経済(12) 需要と供給の法則の限界

2013年10月02日 02時10分13秒 | 逆説の未来史

■ロハスによって持続可能な未来が自発的に実現する?

 ラズロの精神世界とのつながりはかなりやばい。トンデモなのではないか、と述べた。けれども、こと持続可能な未来に向けたシフトや社会変化の展望についていえば、ラズロの見識はそれほどラディカルなものではない。例えば、著作『カオス・ポイント』で、ラズロは革新が起こる不安定な時期には多数のサブカルチャー、オルタナティブ・カルチャーが既存文化と共存する(P101)と述べ、米国の社会学者ポール・H・レイ(Paul・H・Ray)の研究を引用する(5)。レイは心理学者シェリー・ルース・アンダーソン(Sherry Ruth Anderson)とともに、米国人10万人を対象に15年間の歳月をかけて調査を実施した結果、従来の「モダニズムVS保守主義」という定義を超えた新たな価値観を持つ人々を見出す。比較的教育水準が高く、環境問題に憂慮し、精神世界に興味を持ち、競争社会や消費社会を好まない人々である。レイは、これを『文化的創造性を持つ人々』(Cultural Creatives)と呼ぶ。

 レイによれば、1999年時点では大企業を重視する価値観を持つ主流派、「近代的人間」が約48パーセントを占める一方、教育水準も所得も低いが、国家への献身、聖書の尊重、コミュニティや農村への愛着、拝外主義等の昔の生活を懐かしむ保守主義者が24.5パーセントを占めている。そして、上述した「文化的創造性を持つ人々」が23.4パーセントを占めていたのである(5)。これを元にレイと起業家のジルカ・リサビが、開発したマーケティングコンセプトが「LOHAS=lifestyles of health and sustainability」なのである(4)

 ラズロは、こうした人々がさらに増えていくとし(P100~111)、2025年の生活様式として、誰もが自発的な選択をした結果、質素で持続可能な生活が実現していることを期待する(P90) (5)。けれども、同じ、レイの分析をとりあげながら、グリアはさらに過激に暴走してくれる。それは、宗教やスピリチュアリズムと関連してくるので、後に紹介するとして、さしあたって身近な生活と密接する経済を見てみよう。ヒモ生活の「家事経済」をなんとか正当化したいらしく、グリアは経済についても驚くほどの暴走ぶりを見せてくれる。

 例えば、グリアの没落本の2011年の『The Wealth of Nature: Economics As If Survival Mattered』がそれだ。「自然の冨」という題名がついているだけに、牧歌的なエコ的ライフを描いた本だとイメージするとその期待は見事に裏切られる。題名そのものが、アダム・スミスの『国富論(The Wealth of Nations)』に対抗している。没落の原理と没落の未来を描いたグリアが次に取り込んだのが、経済問題なのである。

 グリアにとっては、成長が終わることは大前提で織り込み済みだ。となれば、のっけから破局シナリオが進む。まず、先進国の医療制度が没落し、ハーブやオルターナティブ医療を備えていなければ死者が続出するであろう。先進国は第三世界の国になっていくのだと主張する。グリアが描く未来世界は、まことに、スペシャル・ピリオド以降のキューバに近い。そして、バック・トゥーザ・フューチャーというセクションを設け、マネー漬であったローマ世界が、中世に戻っていったように、未来は古代へとトランジションすると言ってのける。その脱マネー化の世界に向けた最大の武器としてグリアが重視するのが、有機農業による自給菜園、都市の自給化である。そして、この過激な経済論を展開するにあたってグリアが登場させるのが、有機農業協会の代表を長らく勤めたフリッツ・シューマッハーなのである。

 なんというトンデモぶりであろうか。安倍首相は先頃、ニューヨーク証券取引所で演説し、日本が国際経済回復の牽引役になることを強調し、「世界経済の回復のためには、3語で十分です。『BUY MY ABENOMICS!』と言ってのけたではないか。世界が我が日本国が誇る安倍首相の経済政策によって大成長を遂げようとしている今、なんという気違いじみた主張であろうか。そして、グリアの没落本の推薦コピーをリチャード・ハインバーグが書いている。

「グリアは経済学の基本想定をエコロジーを基本に抜本的に見直している。その結果は、経済学において、おそらく、最も重要で読むべき本となっている。スモール・イズ・ビューティフル以来・・・」
 ああっ、ここでもシューマッハーが。ということで、今回からはグリアのエコノミー論を紹介していく。その時局認識を欠いたトンデモぶりを多いに笑っていただきたい。

■需要と供給の法則が働かない石油の生産

 近代経済学が想定する「需要と供給の法則」によれば、自由市場において利用可能な商品の供給はその需要によってコントロールされる。市場にある以上にある商品を消費者が望めば、商品価格があがる。それは、この商品を生産するためのインセンティブを生産者にもたらす。そのため、市場での商品量は増える。市場シェアを獲得しようと生産者は互いに競い合い価格を引き下げる。一方、消費者の支払い意欲にも制約がある。こうして、商品を買おうとする消費者側の要望と、その生産から利益を得ようとする生産者側の要望とのバランスで価格は決定される。これが、アダム・スミス(Adam Smith, 1723~1790年)の「見えざる手」であり、この法則は、ある状況下においては、かなりよく働く(3-1)

 近代経済学だけでなく、未来に関しても話題の中心となっているのが、需要と供給の法則で動く自由市場に対する期待である(3-1)。世界の「在来型(液体性)石油」の生産は2005年にピークに達し、それ以降、急速に落ち込みつつあるが、エネルギーの未来を懸念する人たちは誰もが需要と供給の法則に期待している。

 既存の埋蔵量が枯渇すれば、需要の増大と供給の落ち込みから価格は高騰する。そして、これが、さらなる油井の掘削や多くの石油を生産するそれ以外の手段や別の新エネルギー資源の開発や発見へとつながり、それがさらに多くのエネルギーを産み出し、元の値段に引き下げる。あるいは、再生可能エネルギーの生産を効率化し、少なくとも、さらなる価格高騰を引き起こさないことにつながるというのである(3-4)。すなわち、起業精神に富んだ人々が、化石燃料のより効率的な生産手段や新たなエネルギー資源の開発へと投資資金を振り向けることで、化石燃料の増産に市場が対応できると一般に主張されている。この論理は一目すれば誤謬がないように思える。石油価格があがれば、市場に石油をもたらすことで利益もあがる。利潤を熱望する投資家たちは、石油や石油の代替え製品を生産するベンチャーへとマネーを注ぐ。価格が低下するまで、それに応じて生産は高まるはずである(3-1)

 いかなる商品であれ、価格の上昇は自動的に供給増加を引き起こす。エコノミストたちは、そう主張してきた(2-1)。けれども、石油に関してはこの法則が働いていない(2-1,3-4)。そのかわりに、ピーク・オイルの数年前から始まっているのが、すさまじい石油価格の変動である。投機によって2008年にはバレル当たり130ドルとパニック的に高騰したが、その後には暴落した。価格の高騰で非経済的だった古い油井が再び開発されたが、それに続く価格暴落の間に再び閉鎖する。経済的なショックが、新エネルギーの開発資本の確保を困難とし、オルタナティブエネルギー技術に対する補助金をカットすることを政府も強いられる。米国の中西部のどこかで、半分は完成していたエタノール・プラントは親会社が破産したことでスクラップ用に売却されている。また、不況によって石油の需要は落ち込み、備蓄量は十分になったのだが、石油価格は2009年の底値以来、再びあがり、ジグザグではあるがゆっくりと上昇し続けている(3-4)。そして、この10年でその生産は頭打ちとなり、価格もあがっているのに供給は増えていない(2-1)

■エネルギーは需要と供給ではなく熱力学の法則に従う

 なぜ、このようなことが起きるのだろうか。それは、経済学そのものの基本的な想定に欠陥があるからだ。そのことを理解していたエコノミストは数少なかったが、ドイツ出身のイギリスのエコノミスト、E・F・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher,1911~1977年)がその一人だった(3-4)。シューマッハーは、エネルギー資源は、それ以外の商品とは違って、「非商品(urcommodities)」であって、あらゆる経済活動を可能とする中核資源であり、それ以外の商品を管理する経済学の需要と供給の法則は、エネルギー資源には適用できないと指摘していた(3-1,3-4)。シューマッハーは言う。

「エネルギー問題はすでに前の章で扱ったが、再びここで繰り返さないわけにはいかない。その基本的な重要性はいくら強調しても、したりないからである。一次エネルギーが―そこそこの価格で―十分に入手できれば、他のどのような一次原料が不足しても、なんとかなると考えていい。ところが、一次エネルギーが不足すると、他の大半の一次産品に対する需要が減るので、これらの供給不足の問題はまず生じないのであろう。(小島慶三・酒井懋訳『スモール・イズ・ビューティフル』160Pより)

 エネルギーは需要と供給の法則ではなく、熱力学の法則に従い、両者が対立するときは、熱力学の法則の方が優先される(3-1)。化石燃料は市場の力には依存しない。簡単にアクセスできる埋蔵量が枯渇し、より困難で経費がかさむ抽出で代替えしなくならなくなれば、その平均コストは着実に増えていく。ある範囲までは効率性の改良や新技術によって対抗できるとしても、熱力学の法則が作用し始めれば、よく知られた収量逓減の問題にいずれも直面することになる(3-2)。需要があっても供給が増えないのは、市場の力が地質学に敗北し、潜在的な需要を満たせるだけ供給がもはや増えないポイントに到達しているからなのである(2-1)。エネルギー資源を通常の商品として扱い、エネルギーを支配する熱力学の法則を無視するとばかげた予測を産む。シューマッハーの指摘からは、近代の経済学の抜本的な欠陥が見えてくる(3-4)

■すべての基礎にはリービッヒの法則に規制される第一次財がある

 E・F・シューマッハーは、自然によってもたらされる財やサービスを「第一次財(primary goods)」、人間の労働によってもたらされる財やサービスを「第二次財(secondary goods)」と呼んで、両者を区別していた。けれども、この二つを識別していないことが、今日の経済学の根底にある課題なのである。シューマッハーの洞察をさらに広げて、人間の労働を伴わずに、人間が必要とする財やサービスをもたらす自然の循環のプロセスを「第一次経済」、自然の財に対して人間の労働を投入することで、自然のプロセスからはもたらさない財やサービスを産み出すプロセスを「第二次経済」と呼ぼう。現在の経済学が通常扱うのは、「第二次経済」だが、それは「第一次経済」によって可能となっている。通常「第一次産業」として分類される農業や鉱業等も「第一次経済」ではなく「第二次経済」に属する。農作物の生産を可能とする太陽エネルギー、土壌、水、種子は「第一次経済」の一部だからだ。鉱石を作り出す地質的なプロセスは、「第一次経済」に属するが、鉱石は「第二次経済」の一部である。人間の労働とは、ただ自然の産物を人間に役立つ形態に変えるために必要とされるエネルギー投入にすぎない。すなわち、すべての基礎にあるのは自然の「第一次経済」からのインプットであって、それが「第二次経済」の活動を支えている。けれども、そのことは、エコノミストたちからは無視され、今日の経済政策においては位置づけられていない (3-2)

 さらに、「第一次経済」に需要と供給の法則があてはまらないこともめったに認識されていない。例えば、人々がさらに水を望んだとしても、ある河川の水量は、水循環から供給される以上には増えない。すなわち、第一次経済の財の供給に制約があり、これは「ネガティブ・フィードバック」と呼ばれる。河川の水位、土地の肥沃度、蜂による農作物の授粉まで、すべての第一次財は、バイオスフィアーのデリケートなバランスがとれたネガティブ・フィードバックのプロセスによってコントロールされている。さらに、自然の第一次経済は、「リービッヒの法則」によってコントロールされ、その生産は最も不足する資源に制約されている。農場を考えてみてほしい。その農場に土壌から肥料、機械まで農業に必要なものがすべて整っていたとしても、水がなければ、何も育てられないではないか(3-2)

 もちろん、第一次財を別のもので代用することが可能なこともある(3-2)。例えば、米国では高品位の鉄鉱石鉱床が枯渇すると、製鉄業はさほど鉄を含まない低品位の鉱石へと転換した。これらは高品位の鉱石とは違い豊富にあり、理論上は、少なくとも、鉄鉱石の供給は尽きることがない。鉄を抽出するための技術や機械設備を改善し続ければ、産業は海水中に溶解している鉄塩(iron salts)まで利用できる。けれども、製鉄業が低品位の鉱石を扱う際には、生産される鉄トン当たりでより大量のエネルギーを消費している。低濃度の資源を、有用な形態に変えるには大量のエネルギーを用いなければならない。鉱物のような化石燃料以外の天然資源にあてはまるルールを、化石燃料に適用すればどうなるか。低濃度の資源を処理してエネルギーを得たとしても、そこから得られるエネルギーよりも多くなってしまう。ひとたびこのポイントに到達すれば、その資源はエネルギー資源であることを止める(3-4)

 人間の労働から産み出された第二次経済の財の供給も、ネガティブ・フィードバックのプロセスでコントロールされている。大気、水、鉱石、化石燃料、表土、漁業ストック、河川の汚染浄化力に至るまで産業経済は過去300年で、あらゆる第一次財を使い果たして第二次財に転換してきた。そして、第二次財は他の財に代替え可能だが、第一次財ではそれができない。この違いを認識しないことが、現在の危機の最も重要な原因なのである(3-2)

■需要と供給の法則が働くのは供給の制約を受けない場合に限られる

 要するに、需要と供給の法則は、非経済的な要因を無視している。例えば、そのひとつには物理学的な制約がある。永久運動機関にどれほど多くの金銭を投じたとしても、熱力学の法則は経済学を受け付けないためにひとつとして手にすることができない。また、制約は政治的なこともある。例えば、1943~1945年にかけて、ナチス・ドイツの石油需要は大きく、連合国側は、販売できる大量の石油を手にしていた。けれども、想定される取り引きは成立せず、期待外れに終わったであろう。そして、それは、技術的なこともある。例えば、どれほど個人的に医療に金銭を費やしてみても、遅かれ早かれ、それは無駄になる。死に対する治療法はいまだに誰も開発できていないからだ。したがって、需要と供給の法則が機能するのは、経済領域外の要因によって供給が制約を受けない場合に限られる(3-1)

■逆説の未来史への教訓~宗教と化している経済学

 今日の圧倒的多数のエコノミストたちは、非経済的な要因を無視して、工業化社会でのエネルギー供給は、純粋に需要と供給の法則の関数として決まるというゆるぎなき信仰を抱いている。この信仰をゆるぎなく固守し続けている。理論と現実にはミスマッチが生じているのだが、米国政府の一部局であるエネルギー情報局(EIA= Energy Information Administration)は、将来にも石油生産は一貫して無限に増え続けると予測する。この予測の背後にある論理は、石油の需要が高まれば、供給も自動的にそれと歩調をあわせるであろうとの想定である。最近の評価は、既存の供給が落ち込んでいるにもかかわらず「未確認の見込み(unidentified projects)」と名付けたカテゴリーを組み入れ、石油の需要増大と供給とをあわせ、2030年には日量4300万バレルがあると予想する。世界の総生産量の半分前後が「未確認の見込み」が占めることになるのだが、これは現実の世界ではどこにも見られない。少なくとも机上で、経済理論の必要条件に現実をあわせることが、この唯一の目的であることがわかる。エネルギー問題のブロガーであるカート・カッブ(Kurt Cobb)は、こうした思考を「信仰に立脚する経済学(faith-based economics)」と実に適切な名を付けて呼んでいる。

 エコノミストたちが、エネルギー供給の未来に関して論じれば、あらゆる不足は市場の見えざる手によって必然的に解決されることから、石油供給の地質学的な限界は問題ではないと主張する。そして、生産低下に対しては化石燃料に対する需要が減少した兆しにすぎないと主張する。したがって、人々が街角で飢えているとき、食料に対する需要が低下したという事実の反映にすぎないという主張も確実に耳にできるであろう(3-1)

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) ウィキペディア
(5)アーヴィン・ラズロ、吉田三知世訳「カオス・ポイント」(2006)日本教文社

レイの画像はこのサイトより
アダム・スミスの画像はこのサイトより
シューマッハーの写真はウィキペディアより