没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

逆説の未来史40 贈与の経済(18) 抽象化の罠

2013年10月13日 16時29分26秒 | 逆説の未来史

■進歩の神話と黙示録の神話はキリストの再臨時期の違いから誕生した

 逆説の未来史の「進歩の神話」と「崩壊の作法」では、進歩の物語と黙示録の物語を紹介してきた。実のところはいずれも、ドイツ出身の米国の政治哲学者エリック・フェーゲリン(Eric Voegelin, 1901~1985年)が「終末の内在(immanentizing the eschaton)」と呼ぶ同じプロセスである(1-2)。フェーゲリンは、1933年にナチズムの人種差別を批判した書物を出版し、その後にスイスを経て米国に移住した。終末の内在は、1952年に作り出した言葉である。古代グノーシス派は彼らが「霊知」と呼ぶ学びや知識によって世界の混乱を超越できると確信していたが、その思想の根源には社会的疎外があった。フェーゲリンは、この古代グノーシス派と共産主義とナチスとに類似点を見出した。その後、終末の内在は、共産主義のユートピアを軽蔑するものとして保守的な批判家が用いた(4)

 「終末の内在」は、今日もおびただしい量の思想の基礎となっている。すなわち、近代イデオロギーには、終末論が内在している。「終末」という言葉は「終わり」あるいは「境界」を意味する古代ギリシャ語に由来し、キリスト教神学の専門用語では、今の堕落した世界が、いつの日にか永遠の至福の神の王国へと取ってかわることを指す。複雑な操作を行っているとはいえ、進歩の神話と黙示録の神話は、キリスト教神学の世俗的な形式への練り直しにすぎない。それでは、もともとひとつであった神話が進歩の神話と黙示録の神話とになぜ分裂したのだろうか。その背景には、複雑な歴史がある(1-2)

 まず、ヨハネの黙示録を確認しておこう。

 黙示録では七人の天使がラッパを吹く。第一のラッパでは地上の三分の一、木々の三分の一、すべての青草が焼け、第二のラッパでは海の三分の一が血となり、海洋生物の三分の一が滅亡し、第三のラッパでは、「にがよもぎ」という星が落ちて川の三分の一が苦くなって人が死に、第四のラッパでは、太陽、月、星の三分の一が暗くなり、第五のラッパでは、額に神の刻印がない人をいなごが五カ月にわたって苦しめ、第六のラッパでは四人の天使が人間の三分の一を殺し、第七のラッパで、この世は主メシアのものとなり、天の神殿が開かれ、契約の箱が見えるのである(4)

 もともと神学者たちは、黙示録で描かれた出来事を「シンボル」とみなし、それが何を意味するのかを論じていた。けれども、今を遡ること400年以上も前の宗教改革時に、このキリスト教の主流派は「唯物論」に敗北した。それ以降、深遠で神秘的な聖書の物語は「世俗史」として再定義されることとなった。したがって、黙示録で描かれた同じ出来事が、現実世界の歴史上の事件として、いったいいつ、どのようにして起こるのかが論じられるようになったのだ。そして、この議論から二つの思想が産まれる。後千年王国説と前千年王国説である。一方、この二つの見解から神学の部分をそぎ落としてみてほしい。そうすれば、進歩の神話と黙示録の神話とが手にできる(1-2)

■後千年王国説が進歩の神話を作りだした

 キリスト教の聖なる歴史の物語は、進歩の神話に近く、後千年王国説は、さらにそれに近い特徴を含む。後千年王国説(postmillennialists)では、千年王国が成立した以降にキリストの再臨が起こると考える。したがって、キリスト教徒があらかじめ千年に及ぶ至福の世界を統治し、その後にキリストが再臨することになる。したがって、キリストが到来する以前に、キリスト教徒は何千年もの世界を統治できるため、歴史は人々の側にある。したがって、すべてが正しく、時とともに改善されていく。

 すなわち、再臨と天国の到来との間にもたらされるキリスト教の千年の聖なる歴史を早く進めるのが、進歩の神話であり、それは、科学革命の形で既に起きており、今日の科学者たちは、涙の谷(a vale of Tears=キリスト教ではこの世のことを「涙の谷」と呼ぶ)にユートピアをもたらす偉大な神の進歩を待っているキリスト教徒の期待に応える役割を果たしている。進歩の神話の信仰者たちは、産業文明の時代はどの歴史時代よりも良く、科学研究に十分な資金を投じる等により、さらによくなっていく運命にあると主張する。
 
過去300年、キリスト教は、科学的な唯物論によってみくちゃにされたとはいえ、西洋のイマジネーションからはまだ神話は排除されてはいない。その結果、物質主義の名の下に、キリスト教の神話を焼き直す試みがなされた。17世紀の科学革命は、この古い神話に新機軸をすえた。初期の近代科学の創設者や宣伝者たちには、神が天国をもたらすことを待つ必要はなかった。自然世界を支配する人間の合理的な力を利用することで、今、ここで天国が構築できるからである。「進歩の神話」は、この種類の使い古しの神学の一例なのである(1-2)

■前千年王国説が黙示録の神話を作りだした

 一方、前千年王国説(premillennialism)は、黙示録に述べられた千年王国に先立ち、キリストが再臨すると考える。したがって、キリスト教徒が世界を統治することになる至福の千年が訪れるのは、キリストが復活してからのことになる。前千年王国説に従えば、キリスト自らが介入しなければ、至福の千年がもたらされることはない。すべてが間違っていて時代とともにそれは際限なく悪化し、イエスが再臨して、資本主義、文明、共和党、等の悪魔やその手先をすべてを打ち倒すことで、ようやく千年王国がもたらされる。したがって、歴史は悪魔の側にある。黙示録の信仰者たちは、産業文明はどの歴史時代よりも悪く、現在の困難は、カタストロフィーによって終焉し、その後に神話によって約束されるより良き世界が到来すると主張する。

 ほとんどの人たちが良く知っているこの事例がマルクス主義である。マルクス主義理論によれば、歴史は生産様式の変化により決定づけられ、原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、プロレタリア革命を経て、未来の永遠のユートピア、共産主義へと決められた順番に展開していく。唯物主義の専門用語に包み込まれているとはいえ、その理論の土台となっているのもキリスト教の終末論である。原始共産制はエデンであり、私有財産の発明が崩壊を引き起こす原罪である。そして、社会主義の千年至福状態が起こり、プロレタリアートの再臨によって、最終的に共産主義が到来する。それは、聖なる歴史の神の摂理であって、キリスト教の神話の焼き直しなのである(1-2)

■神話に経済学が組み込まれるとマスクス主義、人類学が組み込まれると新原始主義のユートピアが産まれる

 最近、見られる黙示録の神話のほとんどは、マルクスが行ったのと同じラインに沿って、キリスト教の物語を再加工し、マルクスが神話に導入した「経済」の概念を、大衆にさらに説得力のあるそれ以外の思想に交換している。例えば、経済学を「人類学」に置き換えたのが、ジョン・ゼルザンやダニエル・クイン(Daniel Quinn)のような新原始主義(Neoprimitive)の理論家である(1-2)。彼らは、産業社会が没落し、人類は狩猟採集型のライフスタイルに戻ると主張するが(2-13)、彼らにとっては、有史以前の過去の狩猟採集社会がエデンの園であり、農業の発明は、堕落へとむすびつく原罪である。そして、差し迫る文明崩壊が黙示録の役割を果たし、残された人々は、採集狩猟型のライフスタイルという天国に入ることになる。

 現在の社会秩序から疎外され、恩恵を受けられずにいる人たちは、黙示録の信仰者となりがちだし、現在の社会秩序から恩恵を得ている人たちは、進歩の信仰者になりがちである。けれども、いずれの神話も、言葉を変えれば、ユートピア神話で、未来には現在よりもはるかに良き世界がもたらされることが約束されてはいる。ただ来るべきユートピアへの到達方法が一致しないだけなのである(1-2)

 けれども、いずれの神話も、言葉を変えれば、ユートピア神話であって、現在よりもはるかに良き世界が未来にもたらされることが約束されてはいる。一致しないのは、来るべきユートピアに到達する方法だけなのである(1-2)

 米国の思想家、テレンス・マッケナ(Terence McKenna, 1946~2000年)は、カリフォルニア大学バークレー校時代にLSDやジメチルトリプタミン(DMT)を摂取し、DMTがエイリアンのいる超空間や次元へと人間をつれていくと考えた。その後、休学して、ネパールやアマゾン熱帯雨林でシャーマニズムの文化に出会い、幻覚剤がシャーマニズムに与える重要な役割を確信した。1980年には、『易経』の六十四卦をもとにコンピュータ計算を行ない、2012年12月22日に何かが起こるという理論を提唱している(4)

 米国の経済学者、デービッド・コールテン(David Korten, 1937年~)ハーバード大学教授は『ポスト大企業の世界:帝国の原理の出現による崩壊(The Great Turning the Fall with the emergence of the principle of Empire)』で、貨幣中心の市場経済から人間中心の社会へ』で資本主義社会を超えるビジョンを提出している(4)。これもユートピアの役割を果たしている。

 テレンス・マッケナや後述するヘーゲルのように全く異なる思想家が、完全な社会が近未来に実現するとの歴史観を抱いている。すなわち、政治的、社会的、あるいは、スピリチュアルな政策がひとたび正しくセットされれば、完全な未来へのアクセスが可能なのである。けれども、我々の文化や集団心理に深く根ざすユートピアの魅力は、産業化社会の危機に対して、建設的な対応を行ううえで大きな障害となっている(1-2)。こうした未来予測は情緒的なアピール力を持つが、どの主張も歴史的には証明されない(2-13)。化石燃料が爆発的な経済成長を支えてきた300年間は、大きいことが良いとされてきた。けれども、産業化の時代がピークに達し、没落が始めるにつれ、いまこの方程式は逆転している。豊かなエネルギー時代はすでに終わり、化石燃料や非再生資源がすべて不足し、困難なエコロジー的な限界を抱え、機会も制約され、今までどおりの夢や希望は実現がされる進歩する未来にも、黙示録的な崩壊にも期待できない。ユートピアに別れを告げ、残された時間と限られた資源で、実際に実現できることに取り組んでいかなければならない。再び、いかに小さくするかを考えることを学ばなければならない(1-2)

■進歩の歴史観は中世イタリアの思想家ヨアキムにルーツがある

 さらに、進歩の思想が誕生するためには、歴史にはあらかじめ目標があり、望ましい目標に向けて全体として運動していくとの「歴史主義(historicism)」が必要であった。この歴史主義の思想をたどると、中世イタリアのキリスト教神学者、神秘思想家フィオーレのヨアキム(Joachim of Flora,1135~1202年)にゆきつく。ヨアキムは難解な神学の書物を執筆することにほとんどの人生をささげた(2-13)。ヨアキムは富裕な家庭に生まれ、放縦な生活を送っていたが、その後、回心して牧師となる。1195年頃に弟子とともに、コゼンツァ東方のシラ山(La Sila)に「フィオーレ」と呼ぶ修道院を建て、死ぬまで瞑想と著述に専念した。ヨアキム主義の思想は、予言的・終末論的な歴史思想である(4)

 ヨアヒムが思想的に斬新であったのは、神の「救済計画」が世俗史を通じて働くと主張したことにあった。すなわち、三位一体構造を世界史にあてはめ、世俗的な歴史も旧約聖書下の法の時代、新約聖書下の愛の時代、そして、これから始まる自由の聖霊の時代にわけられるとした(2-13,4)。そして、この第三の時代において、現在の教会秩序や国家等、支配関係に基づく地上的な秩序は破壊され、兄弟的な連帯において修道士が支配する時代がもたらされ世界は完成するとしたのである。ヨアキムの思想は終末論を含んでいることから、問題視され、著作『三位一体論』は1215年に異端の判決を受けた(4)。けれども、13~18世紀にかけ、どの教会改革者もヨアキムのアイデアの影響を受けて自由の時代の到来を考えるようになり、次には、三つの時代は、神の導きの進歩であるとした。

 ヨアキム以前には、どのキリスト教の神学者たちも、ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の司教であったアウグスティヌスこと、アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354~430年)が提唱した「神の国(City of God)」と「地の国(City of Man)」の区分にしたがい、すべての世俗史(secular history)は地の国のこととされ、「救済計画」からは脇においていた(2-13)。アウグスティヌスは、ローマ崩壊をまのあたりにした人物である。このこともあって、人間の意志を無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。そして、創造以来の歴史を「地の国」とそれに覆われ隠されている「神の国」として叙述した。アウグスティヌスは、西洋思想全体に影響力をもつ理論家で、とりわけ、自由意志に関する思想はアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えている(4)。けれども、ヨアヒムのイノベーションによって、歴史は、アウグスティヌスの言う神の救済計画から、人類の運命に関する壮大な世俗理論(secular theories of humanity)へと加工されたのである(2-13)

■進歩思想を完成させたヘーゲル

 進歩の思想を進めるうえで、人間の精神の進歩を歴史的に描いたフランスの哲学者ニコラ・ド・コンドルセ(Nicolas de Condorcet, 1743~1794年)の理論も重要だった。コンドルセは、よりよき世界は前もって計画でき、集合的な意志によって創造できると信じていた。このコンドルセの思想がフランス革命に火を付けた。けれども、フランス革命でルイ16世の君主制が打ち倒されたとき、それにかわったものは幸福な理性の共和国ではなく、ギロチンのパレードだった。恐怖政治に反対したため、コンドルセ自身も死罪を宣告され、革命警察から隠れながら『人間精神進歩の歴史』を執筆した。不幸な経験も理性や進歩に対するコンドルセの信念をなんらへこませることはなく、野蛮からユートピアの未来へと絶えることなく上昇していくのが人類史であると主張した(2-13)。その後、コンドルセは、逮捕され獄中で自殺している(4)

 コンドルセの進歩のビジョンは、数多くの賛同者を得た。その中でも最も影響力を持ったのが、ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770~1831年)である。ヘーゲルは、フランス革命以降のヨーロッパの混乱を目撃する中、相反する力、テーゼとアンチテーゼーの対立によって壮大な歴史変化が描かれると信じるようになった。そして、両者の統合によって歴史は最終的な完成状態に至るのである。ヘーゲルの思想は、ヘーゲルについて知らない人々にさえ影響を及ぼしている。例えば、必要とされる資源が使い果たされても、それは、何か新たなものが創造されるためであり、その結果はさらなる進歩だと主張される。これは、経済学の視点で焼き直されたヘーゲルに他ならない。不足はテーゼであり、創意工夫がアンティテーゼであり、進歩はジンテーゼ(統合)である。歴史主義からすれば、何が起ころうとも、その結果は、より進歩となるのである(2-13)

■人類の伝統的な歴史観は「周期論」で進歩史観ではなかった

 さて、フィオーレのヨアキムにまで遡ることができる歴史主義は、目標とする歴史の未来予測に失敗してきた。ヨアキム自身も自由の時代が1260年には到来すると信じていたが、その予測は外れている。すなわち、歴史主義は、未来を予測するうえでは適切ではないが、その繰り返される失敗にもかかわらず、あらかじめ規定された終末に向けて歴史が進歩していくという世界観に人気があることは理解できる。なぜなら、歴史主義を否定すれば、歴史にはまったく方向性がないことを受け入れることになる。そして、多くの人たちは、これに深刻なトラブルを見出すからである(2-13)。けれども、歴史主義に対して、歴史には目的、方向、目標はなく、ただパターンがあるだけで、歴史とは様々なパターンが何度も繰り返して姿を現すだけだとの考え方がある。周期論(the theory of cyclic history)である。

 周期論的な歴史観は古代の直観にそのルーツを持つ。初期文明の大半は、大きな天界の循環にしたがって、国家が隆盛しては衰退すると信じていた。シュメールの聖職者は、星から政治を予言しようとし、中国の歴史家は、王朝の変遷の天命を追い、マヤの王たちも、循環する時間に共通する意味を用いて作られた複雑なカレンダーに基づき、隣人と戦いにでかける日を選ぼうとしていた。古代ギリシャ哲学では、ギリシャの歴史家ポリュビオスが主張する「anacyclosis」のように、繰り返えされる都市、国家を追跡する歴史的サイクルの世俗的理論(Secular theories)が出現した。そこでは、君主制、寡頭政治、民主主義と続き、それが衰微すれば、順番に次のものにおき替えられるのだ。イブン・ハルドゥーンの歴史論は、このギリシャの伝統から影響を受けた王朝の隆盛と崩壊についての周期的な見解を含んでいた。そこで、この歴史の世俗的理論は、イスラム世界には見出させていたが、西洋ではローマ帝国の崩壊以降は、ルネッサンス時代までほとんど普及しなかった(2-13)

■周期的歴史観はヴィーコが復活させた

 ヨーロッパにおいて周期論的な歴史観を復活させたのは、イタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668~1744年) である。ヴィーコはナポリ大学の修辞学の准教授という低身分でそのキャリアを終え(2-13)、その死後ほぼ一世紀は完全に無視され、再評価されたのは19世紀半ばになってからのことだが、ヴィーコの影響力は今も続いている(2-13,3-3)。例えば、ヴィーコ以降のあらゆる周期的歴史論はヴィーコに依存し、アーノルド・トインビーの12巻にも及ぶ『歴史の研究』も、まさにヴィーコの思想に依存している。そして、周期的な歴史論を拒絶しながら、ヘーゲルもマルクスも、実は、ヴィーコのアイデアを大きく利用していた。歴史家アンソニー・グラフトン(Anthony Grafton)は「ジャンバッティスタ・ヴィーコは、巨像のように近代社会科学と人文学に跨がっている」と書いている(2-13)

 ヴィーコは、ヨーロッパ史が古代ギリシャやローマの歴史とパラレルであることを認識した最初の近代的な西洋思想家だった。そして、歴史を統治する法則を初めて理解しようと試みた。ヴィーコは、余暇時間を利用して、著作、『国家に共通する性質に関する新科学の法則(Principles of a New Science Concerning the Common Nature of Nations)(通常、新科学と呼ばれる)を執筆したが、その中で、ギリシアとローマを事例に「社会は未開から文明まで隆盛し再び未開へと衰退するプロセスである」と描いてみせた。わずか2事例だけからヴィーコは論理を飛躍させた(3-3)。幅広く世界史を見れば無理な面もある。けれども、ヴィーコの思想には驚くほど予知能力があり、その直感は、今も壮大なスケールで歴史の意味を理解する試みの中心となっている。例えば、ヴィーコは、英雄時代には古典時代が続き、新たな未開状態への衰微が始まるというように時代は循環するが、循環運動は単純にもとに戻るのではなく螺旋を描いて進展し、未来を予測できないと考えた。当時としては革命的ともいえるこの歴史哲学はトインビーの歴史観に近いが、前述したように生前には評価されなかった(4)。最もヴィーコが理解されにくかったのは、ヴィーコが、自分の思想をルネッサンス思想に基づいて表現していたためであった。例えば、ヴィーコは「理想的な永遠の歴史(ideal eternal history)」を「神の時代」、「英雄の時代」そして「人間の時代」に分割しているが、ヴィーコが古典的なルネッサンスの比喩的用法を用いず、そのかわりに、歴史を「信仰の時代」「理性と記憶の時代」に分割していれば、おそらく、存命中にさらに多くの注意を得たであろう(2-13)

■終末論では神秘体験の「超絶」が外部からもたらされると考える
 
 終末論の信仰の背後には紀元前六世紀からの長く複雑な歴史がある。当時、旧世界全体では、時の輪廻と苦しみの世界から抜け出し、完成された永遠の王国へと至る方法を約束する宗教が信者たちを集め始めていた。仏教徒が涅槃を追求し、グノーシス派が永遠の光の世界(aeonic world of light)への回帰を追求したように、そのほとんどは、時の輪廻から逃れる手段は個人のためのものとされていた。けれども、一握りの伝統では、これがある未来の特定の時点において世界全体が永遠へと突入するとの思想へと変化した。通常の歴史は止まり、それ以外の何かとすべてが取り替えられるであろう。ユダヤ人たちの「来るべき救世主の時代」というビジョンは、この中でも最も古いもののひとつである。それは、キリスト教へと改造され、「再臨」の予言へとなった。終末論は、過去2000年にわたって発展し、多くの論争がなされてきた。そして、終末がいつの時期であるのかに関しては、いまだにコンセンサスが得られてはいない。けれども、それは完全に歴史領域外にある。トランペットが鳴り響くとき、天は裂け、全く別の「他のもの(otherness)」がもたらされるのである。神学者たち言語では、「再臨」や「他のもの」の性質は、超絶(transcendence)と呼ばれている。超絶とは、日常生活のリアリティとは別の非日常のリアリティ、変性意識の神秘体験が、外部からもたらされるとの考える(1-2)

 神学における最大の論争は、「神(God)」あるいは、「神(gods)」が「超絶」、すなわち、自然の外部にあって制約から自由であるのか、それとも、「内在」、すなわち、自然の一部であってその法則に従うのかであった。

 超絶:この非日常のリアリティは、どこか日常の存在の外部からもたらされたものである
 内在:この非日常のリアリティは、まさに、ここにあるが、終始、気づかれない。

 この神の「内在」の概念を持つ宗教のほとんどには、終末論の概念が全くないか、際限なく時間が繰り返される輪廻の世界観を持つ。萌芽、開花、無限の時の輪廻の宇宙観を持つヒンドゥー教や終末論を全く持たない神道がそうである。一方、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のように「超絶」の概念を持つ宗教のほとんどは、終末論の概念を伴う。終末論の核心とは、通常のリアリティがまったく別のものへ溶けていくことだからである(1-2)

■神秘体験は脳に組み込まれている現象である

 ちなみに、現代の脳科学では幽体離脱は側頭葉のてんかんが原因であることが判明している。側頭葉に軽い電気ショックを受けると意識は身体から離脱し自分を天井から見下ろすことができる(5,P155)。麻酔をかけた手術中に幽体離脱は頻繁に報告されている。麻酔中でも周囲の動きは情報として脳にインプットされ、脳波それを無意識に三次元に変換し、真上から手術を俯瞰しているかのように錯覚する(6,P140)。しかし、斜め後方からの自分の姿を認識しても、前方や真横から自分の姿を見る人はいない。これは脳に共通する構造による。人間の祖先であるサルは樹上生活をしてきたため、人間の意識は自分の位置を空間的に把握するために肉体から離脱するようにできている(5,P156)。この「空間的知能」が鋭敏となり、平面の資格情報が三次元に置き換えられると神秘体験になるのである(5, 156,6,P140)。覚醒剤として知られるアンフェタミンは脳内でノルアドレナリンやドーパミンを放出させ、強い快感を引き起こす。同じように、側頭葉が刺激されるとドーパミンが放出され、ヒトは幻覚を見るし、左前頭葉が刺激されるとナチュラル・ハイが起きる。そして、大脳の快楽中枢である視床の前にある中隔が刺激されると、オーガニズムの一千倍もの喜悦を感じる(6,P198)。光に包まれたり、光の中に身体が溶けていくといった神秘体験や霊的体験もよくあるタイプの幻覚にすぎない(6,P172)。あらゆる人間世界に「神」が普遍的に存在しているのは、霊魂や死後の世界が実在するからではなく、ヒトの脳が神を産み出すように配線されているからである(5,P160)。橘玲氏が指摘するように、非日常のリアリティは脳が作りだす幻影にすぎない。したがって、神秘体験が外部からもたらされると考える「超絶」は誤っていることになる。

■逆説の未来史への教訓~抽象化された社会は崩壊する

 初期の文化においては、社会は特定で具体的な現実に注目している。けれども、複雑な社会では、具体的な現実から抽象化への動きが進んでいく。法律はより複雑化し、個人的な神秘体験からスタートした宗教も、現実体験から遊離したエレガントな神学概念へと広がっていく。そして、この抽象化の罠が、文明の没落や崩壊の背後にある原動力であることを18世紀に指摘していた人物がいる。ヴィーコである。ヴィーコの思想の核となるテーマのひとつは、抽象化が果たす役割である。修辞学や法律の学者として、ヴィーコは経済にはさほど関心がなく、経済については、ごく短く言及しているにすぎない。けれども、西洋経済史は、ヴィーコのスキームに正にフィットする。

 エコノミストたちは、自分たちの分野において「マネー」を最も重要なものとして一貫して扱っている。マネーはすべてを共通の尺度で測定することを可能にするように思える。したがって、この習慣はとても誘惑的なもので、近代経済学にはこの思考習慣が浸透している。けれども、エコノミストたちが、マネーを富の特性とし始めると、問題が生じる。近代産業化社会では、暮らしのすべてがマネー化されている。私たちが知る限り、これほどマネー化を進めた過去の社会はない。けれども、富を抽象的な観念によって表現することは最近になって始まったわけではなく、はるか以前からある。複雑化した社会にとっては、この抽象化に大きなメリットがある。わずかな投資によって現実を動かせるからだ。けれども、この便利さには同時に隠された罠が伴う。具体的な現実から乖離すればするほど、具体的な現実が必要になるときには実際にはそこにはない可能性が大きくなるからだ。中国史をはじめ、その権力を抽象化させすぎ、現実の武力に抵抗できずに崩壊した政権の歴史的事例は数え切れない。同じく、経済でも観念的な抽象化が進み、財やサービスの存在を担保するのは、もはやエコノミストたちのはかない夢想の中だけでしかなくなっている。

 抽象化へと向かう動きがあまりにも進み過ぎれば、空虚さの上に構築された抽象的な観念のタワーがあるショックですべて崩れ落ちるまで、現実は無視され続ける。ヴィーコ自身が最初に指摘したように、抽象的な富の消費が、過去の没落した文明の多くでも変化を動かすことを助けた。そして、現在の複雑化した経済は、化石燃料によって可能となった。そして、それ以前のどの文明よりもいま世界の産業諸国は、経済の抽象化を進めている。現代社会は現実以上の価値を評価するために様々な商品を作りだし、抽象的概念の異常なピラミッドを構築している。しかも、エジプトのピラミッドとは違って、現実の財やサービスの基礎が狭く、上にいくほど広がっている。いま流通している株、債券、デリバティブの額面価値に匹敵するだけの現実の財やサービスは存在してはいない。そして、今日の世界の経済活動の圧倒的多数は、純粋な富の表現の交換からなっている。そして、幻影の富の経済は、参加者全員が、その幻影がリアルな価値を持つとのふりをすることに依存している。それが緩めば、その狂言は一瞬にして蒸発する。これが、金融バブルが金融パニックへと変わる理由だ。チューリップの球根、株、郊外住宅他の投機媒体をめぐる集団幻想は、狂気のラッシュへと溶解していく。

 そして、産業化の時代とは、ある意味では究極の投機バブルである。豊かなエネルギーが大量に供給されたことで、有限の地球上で果てしなき経済成長が可能だとの幻想に突き動かされた300年もの狂騒なのである(3-3)

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) ウィキペディア
(5) 橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(2010)幻冬社
(6) 橘玲『亜久夢博士のマインドサイエンス入門』(2012)文春文庫

フェーゲリンの写真はこのサイトより
マッケナの写真はウィキペディアより
ヨアキムの画像はウィキペディアより
コンドルセの画像はウィキペディアより
ヴィーコの画像はこのサイトより