没落屋

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逆説の未来史39 贈与の経済(17) 人々を幸せにする最大の武器は「増税」だ

2013年10月11日 23時01分14秒 | 逆説の未来史

(はじめに)

 観念の遊戯の産物にすぎないマネーが増えても幸せにならないことを見て来た。GDPはマネーのやりとりにすぎない。そして、GDPが成長しても、それが幸せに直結しないことを多くの人々が指摘しはじめている。幸せの指標として役立たないのであれば「GDPなぞ糞くらえ。一挙に幸せへといってしまえ」、と第4代ブータン国王、ジグミ・シンゲ・ワンチュク(Jigme Singye Wangchuck, 1955年~)が提唱した国民総幸福量(GNH=Gross National Happiness)へと飛びつきたくなる。

 けれども、グリアのトンデモぶりは、やはり意表をついて私たちを笑わせてくれる。これまで述べてきた第一次、第二次、第三次経済というツールを用いて、増税こそが現在の危機を打開する有力な武器になると主張してみせる。今回も変質者グリアの奇妙な発想を多いに笑っていただきたい。
 
■GDPは戦争を推進するための強力なツールだった

 国内総生産(GDP)とは、国内である一定期間に行われた貨幣換算できる経済活動の総額を測るものだ。GDPに関わる数値が全体的にあがっていくことを「経済成長」と呼び、下がっていくと「景気後退」となり、それが長引くと「不況」と呼ばれる。けれども、もともとGDPは1930年代の経済不況を打開しようとする米政府を助けるために、米国の経済学者たちが作り出されたツールである。おまけに、GDPは戦時の経済生産の計画立案をするうえですこぶる有用であることがわかった(略)。経済史家によると、ヒトラーはGDPを手にしておらず、そのため、多くのドイツの工場の生産量は潜在的な生産能力をはるかに下回っていた。これが両陣営が投入できた戦車、航空機、爆弾等数から見て決定的な差につながったのである。

 GDPの考案者サイモン・グズネッツ(Simon Smith Kuznets, 1901~1985年)は自分の考案したものが誤って使用されるのではないかと次第に不安を募らせていた。グズネッツは1934年に「国内経済の新しい統計資料は国の繁栄全体を評価するために使われるべきではない」と警告している。けれども、この警告は完全に無視されたのだった (6,P83~85)
 
■ある水準を超えると経済成長しても幸せにはならない

 1970年代以降、先進諸国ではGDPが増加している。けれども、ある水準を超えると、幸せ感が高まっておらず、むしろ低下している。米国のエコノミスト、リチャード・イースターリン(Richard A. Easterlin,1926年~)は、幸せを増やそうとマネー経済を成長させても、むしろ幸せにならないことを発見した。これを「イースターリンのパラドックス」と呼ぶ(5,P29,135,6,P69)

 このことは他の研究者も指摘する。イェール大学のロバート・E・レーン教授は『市場民主主義における幸福感の喪失』において「米国においては、物的生活水準が高まるにつれて実際の幸福感が低下している」と結論づけている(6,P26)。ハーマン・デイリーも「真の進歩を測定する指標」を用い、ある水準を越すと経済成長のコストが利益よりも大きくなることを明らかにしている(6,P25)。ノーベル経済学を受賞したヤン・ティンバーゲンも、多くのモノの所有と生活の質の向上を同一視することは欺瞞だと述べている(6,P30)。おそらく、このことを最も早く指摘したのは、イヴァン・イリイチである。イリイチは直感で「フラストレーションの成長率は生産の成長率を著しく凌駕する」と述べ(6,P25)、ある段階を過ぎると手段が目的化することをイリイチは一般現象として明らかにした(6,P135)

■近代経済は第一次経済をタダとして扱っている

 アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラークと並んで、世界SF界のビッグスリーとも呼ばれたロバート・アンスン・ハインライン(Robert Anson Heinlein,1907~1988年)は、地球の植民地である月が独立を目指し革命を起こす『月は無慈悲な夜の女王』(The Moon Is a Harsh Mistress)で、タンスターフル(TANSTAAFL= There Ain't No Such Thing As A Free Lunch) 「無料のランチなどという甘い話はない」という造語を登場させた。後に、この言葉は、「タダほど高いものはない」「うまい話には裏がある」の意味で使われるようになる(4,3-6)

 工業化社会は、まさに、過去300年間、自然の第一次経済を「無料のランチ」の源として扱ってきた。第一次経済は、経済的な虚構によって覆い隠せる「外部性」ではなく、コストとメリットが分析されなければならない経済的なコストなのだ。樹木、蜂、鉱物を人間を支えている経済の一部としてみなす習慣が広まれば、それらを使い捨てのアメニティーとして扱う習慣は、より合理的でプラグマティックな思考様式に取ってかわるであろう。

 けれども、これには、現在の「経済統計」の方向を変えることが必要である。今日の経済統計は、第一次経済をまったく無視し、第二次経済を第三次経済のタームで測定することに執拗にこだわっている。すなわち、ジャガイモや散髪を実態ではなく、ドルで計算することを重視している。この病的執着によって、ある経済政策が第三次経済さえ推進すれば、たとえ、その政策が第一次経済や第二次経済にダメージを与えたとしても、それがまるでよいことのように見えてしまう。すなわち、現在の統計は中立ではなく、経済が自然から独立しているとの不正確な幻想を想定しているため、あらゆる経済政策を捻じ曲げる要因となってしまっている。

 例えば、資源を枯渇させればコストがかさむ。けれども、現在の経済体制では、こうした問題を引き起こす活動から利益をあげる人たちにコストが科されることはない。油井の所有者は地中から石油を汲み出すことで経済的な利益をあげているが、今日の抽出が将来の経済的にもたらす影響の代価を支払う必要はない。事実、多くの産業国の政策は、油井の所有者が資源の枯渇を加速化することにメリットを与えて、未来に対して重い負担を科している。同じく、煙突から汚染物質を放出して大気を汚染させることで経済的な利益をあげている人も、経済全般に及ぶ汚染コストの経費を支払う必要がない。
この現状からは二つの結果が生じることになる。

第一に、油井の所有者も煙突の所有者も、自分の活動のネガティブな影響を削減するための経済的なインセンティブを手にしていない。

第二に、長期的な資源の枯渇や汚染のコストが、経済的な尺度には含まれていない。

 その結果、現実への理解は大きく歪められてしまう。金融業界を除いて、短期的に利益をあげるために、ごく近い将来に破綻をするためにわざわざ借金を増やすことは通常のビジネスでは考えられない。けれども、まさにこれがさらに再規模なスケールで、現在の経済システムが行っていることなのだ。それは、資源の枯渇や累積する汚染のコストを無視することは、目先の一時的な繁栄を購入するために、将来的に重い借金を抱えているのと同じだ(3-6)

■GDPを第一次経済、第二次経済、第三次経済で組み立て直す

 この現状の解決策は明らかだ。最も重要な経済統計である国内総生産(GDP)を第一次、第二次、第三次に分類しなおしてみてほしい。

 総一次産品=GPP(gross primary product)は、油井から抽出される石油、鉱山から掘られる石炭等、経済化される瞬間のあらゆる未加工の天然産物の価値となろう。
 総二次生産=GSP(gross secondary product)は、自然の原材料と金融商品や金融サービスを除いた、すべての財・サービスの価値となろう。
 総三次生産=GTP(The gross tertiary product)は、すべての金融商品とサービスの価値、そして、その経済によって生産されたすべてのマネーとなろう。
 ひとつだけの一般的なGDPをこうした三種類の数値要素に分け、互いに比較すれば、財・サービスの実体経済での動きがトレースでき、抽象的な金融資産の増加とそれを区別できる。例えば、GSPが増えていても、GPPが増えていなければ、その経済は天然資源の利用効率を高めていることになり、政治家や企業のエクゼクティブは、それを自慢していい。一方、GTPが急増していても、それ以外のGPPやGSPが頭打ちとなり低下していれば、それは国が豊かになっていることをけっして意味してはいない。第三次経済が膨張し投機的な破産で破綻する前にある程度のガス抜きをする必要があることを意味している(3-6)

■天然資源に課税することで資源枯渇を防ぎリサイクルを推進

 次のツールは課税政策だ。現在の税制度では、第一次経済の稀少資源や自然循環にして過重な負担がかかり、第三次経済の金融資産の蓄積が加速化している。そこで、それにかわる正しい課税制度をイメージしてみてほしい。まず、この想像上の課税法律は、消費税、所得税、配当税等の第二次経済に対する課税は一切行わない。けれども、そのかわりに、二種類の課税を行う。

 第一は、第一次経済の天然財やサービスに対する課税だ。これは、現在の財産税(property taxes)とほぼ同じ論理に従うであろう。この税制度においては、どの天然資源を開発しても抽出税や公害税が課税される。製造メーカーが税を逃れようと海外で資源を採掘、輸入しても、それは原材料であれ完成品であれ、同じ関税が科されることになる。そうすれば、他国の資源を丸裸にすることが妨げる。抽出税は、自然の第一次経済から第二次経済へと原材料が入る時点で適用されよう。結果として、メーカーが支払う税金は、製品価格が値上がりする形で消費者に負担されよう。したがって、このことは、財やサービスの価格が今以上にアップすることを意味する。けれども、現在でも誰もが、収入税や販売税を支払っていることから、現実的な負担感からすれば、これは少ないかもしれない。

 さらに、何を購入するかの慣習を変えれば、この資源税を負担しないですむ。例えば、ハイブリッド車を買えば、石油税の負担は減り、同じく排気税の支払いもさらに少ない。一方、バッテリーやエレクトロニクスに用いられる希土類鉱物の採掘税がメーカー希望小売価格には含まれることになる。けれども、地球上から新たに採掘した金属から製造された製品の価格には、鉱石の採掘税が含まれるが、リサイクル資源から製造された製品の価格は含まれないことになる。このことは、メーカーがリサイクル資源を利用することに大きなインセンティブを与えるであろう(3-6)

■消費税を無税にして財テクに課税する

 第二は、第三次経済における、利子所得、キャピタルゲイン、そして、マネーによって創り出されたそれ以外のすべてのマネーに対する課税だ。現在の税制度では、実質的な財やサービスの生産からのマネーを第三次経済の金融バブルに注入した方が、ビジネス上のメリットがある。それが、ゼネラル・モーターズ社が、バブル経済でクラッシュするまでは、かなり長期にわたって自動車よりも金融業に力を入れてきた理由の一部だ。そして、大局的にみれば、最近の米国が、製造業や非金融サービスをさほど生産せず、抽象的な金融経済がこれほど増えた理由の一部だ。新たな税制度は、この問題にも対応する。すなわち、給与所得(earned income)ではなく、金融収益(financial income)に課税すれば、この方程式をかなり逆にできる。自分のマネーを債権やデリバティブに投資すれば、どれほど収益をあげても重課税に苦しめられ、財やサービス生産にマネーを使う場合に無税となれば、デリバティブはさほど魅力的ではなくなる(3-6)

■メカに課税することで雇用創出を有益にする

 第三は、第二次経済におけるこの課税の効果だ。現代の経済政策が最も誤っているひとつは、人間の労働力をメカに置き換えていることだ。第一次経済も第三次経済も問題となっている現状では、第二次経済の核心である人間の労働力が私たちが手にしている最大の再生可能資源だからだ。そこで、この二種類の税制度がどのように機能するのかを考えてみてほしい。まず、ほとんどの産業国では失業問題が深刻である。金融危機の以前でも、労働者階級は望ましい仕事を見つけ出すことが困難だった。それには多くの理由があるとはいえ、労働者をさらに雇用しても、雇用者がさらに税金を支払わなければならない税制度は確実に失業問題の解決には役立ってはいない。そこで、こうした税金を無税とし、そのかわりにエネルギーや自然の原材料への課税を重くすれば、メカよりも人間の労働者がコスト効率良く仕事をできるようになろう。これと同じ目的を達成するには、それ以外のやり方も容易に考案できよう。

 自然から浪費的に資源を略奪しながら、第二次経済に負荷をかけ、第三次経済でバブルを促進する税制度は、近い将来の嵐を切り抜ける助けとはならない。そうではなく、その反対のことを行う税制度―人間の存在を下支えする自然循環を壊したり、既にトラブルを抱えた経済にさらに投機をもたらすことを不利益とし、人間のニーズを満たすために人間の労働を雇用することで利益があがるようにする税制度―は、たとえ危機の時期にさえも極めて有用な資産となり、社会全体をバラバラにしたり根底から再建しなくても簡単に実施できる(3-6)

■逆説の未来史への教訓~幸せになるには「個」を捨てる必要がある

 モノが増えてもなぜ幸せになれないのだろうか。セルジュ・ラトゥーシュはイタリアの経済学に着目する。
 第一はストレスである。古代ギリシア人は節度のない過剰な生活を「Ubris」と呼んだ。豊かな生活を送っていても、同時に満たされない心、生きづらさを感じ(6,P113)、生産が高まってもフラストレーションも高まってしまう。そこで、幸せのためには、自ら律することでつつましい生活を送ることが必要となる(6,P31,32 )

 第二は人間関係の喪失である。ロバート・E・レーン教授は、幸福度の低下は、人間関係の崩壊に起因していると指摘する(6,P26)。ギリシアの哲学者コリュネリュウス・カストリアディスも「新しい自動車よりも、新しい友人を得るほうを好む」と述べている(P31)。けれども、経済成長優先社会においては、「負け組」にならないためには、他人を蹴落す「勝ち組」にならなければならない(6,P27)

 以上のことから、幸せになるためには

①自ら律することでつつましい生活をおくる
②贈与の精神を再生し、個人主義によるエゴイズムを静め、共愉の倫理により(6,P31,32)、わかちあう社会を構築する(6,P178)ことが求められている。

 実はこのことは、はるか以前からわかっていた。ナポリ啓蒙主義広めたイタリアの経済学者アントニオ・ジェノヴェシ(Antonio Genovesi, 1713~1769年)は、市場競争や自己益を追求することと同時に、トマス・アキナス主義の伝統を否定しなかった。そして「他人の幸福を創ることなく、われわれの幸せを創るのが不可能なことは宇宙の法則だ」と述べた。イタリアの経済学者のグループによる「みんなの幸せ(la pulica felicita)」プロジェクトは、アリストテレスの伝統に基づき、個人主義を批判し、ジェノヴェシの思想を見直しているのである(6,P29)

(捕捉)
 セルジュ・ラトゥーシュは、脱成長の糸口をイタリアの経済学の伝統に求めたが、グリアも ほぼ同年代のイタリアの哲学者にグリアも着目する。それは、ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico 1668~1744年)である。グリアはヴィーコの思想をどのようにマネーと結びつけてくれるのだろうか。

【引用文献】
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) ウィキペディア
(5) マルク・アンベール、勝俣誠編著『脱成長の道』(2011)コモンズ
(6) アラン・アトキンソン、枝廣淳子『GDP追求型成長から幸せ創造へ』(2012)Random House Japan

グズネッツの写真はウィキペディアより
イースターリンの写真はこのサイトより
ジェノヴェシの画像はこのサイトより