没落屋

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逆説の未来史43 贈与の経済(21) 第三帝国

2013年10月22日 22時37分38秒 | 逆説の未来史

■マネー経済を規制すれば失業問題は解決できる

 逆説の未来史37「暴走するマネー経済に歯止めをかける」では、アイゼンハウアーの取り組みについてこう書いた。

「米国が1950年代にその繁栄のピークであったとき、高額納税者たちが、その収入の90%以上を納税していた。マネー等の抽象的な富からなる第三次経済は、バランスを逸脱し、金融資産の蓄積が最もダメージを引き起こす。マネーを使う人たちのマネーが金融に向かわずに、食料品店に向かえば景気が安定することは容易にわかるだろう。アイゼンハワーの経済政策は、第二次経済における財やサービスの生産や消費に対しては規制を行わず、第三次経済を規制することで、非生産的な形で第三次の富が少数者の手のもとに集中しないことを担保していた。民間の手に生産手段をゆだねても、公益のために適切な規則を行う経済は、自由放任の資本主義や極端な社会主義のいずれよりも、多くの人々に多くの繁栄を生み出すことは歴史が示している」(3-6)

 そこで、グリアが書いてはいない深刻な失業問題を解決した国の事例を武田知弘氏の本から抜粋して紹介してみよう。

「日本では景気浮遊策として公共事業が進められているが、地主や大手ゼネコンに支払われる金が大きい。大手ゼネコンから中堅業者、零細業者という具合にピラミッド式に金が流れていくようになっているため、労働者の取り分は非常に少なく微々たるものである(略)。公共投資においては、貯金に回される額が少なければ少ないほど、景気への効果は高い。労働者に場合、低所得者が多いので賃金のほとんどは消費に回される。その消費が景気の効果を産み出す。経済学でいうところの「乗数効果」が得られる(略)。そこで、建設費の46%が労働者の賃金に充てられた。これは驚異的な数値である。労働戦線組合が企業を監視していたため、労働者のピンハネをすることは許されなかった(6,P37~40)

「雇用を市場に任せていれば、企業は若い人を守りたがる。そこで、妻や子どもがいる中高年の雇用を優先した。一家の大黒柱を雇用すればとりあえずその一家は飢えずにすむ。それは社会心理のうえでも安定につながる(6,P45)

「日本の場合、高額所得者、資産家には大減税を行い、中間層以下のサラリーマンには増税に次ぐ増税を行っている。これでは格差社会ができてあたりまえだし、社会が暗くなって当然である。そこで、高所得者から多く取る累進課税を導入し、低所得者の税金を軽減し、家族が多い者の税金も軽減した。1934年末には大企業に対して増税を行い、企業に6%を超える余剰金があった場合、配当は6%までしかしてはならず、残額は特別公債を購入し、貧困者の救済資金や建設資金にあたられることにしていた。また、通貨の暴落で利潤を得た企業は利潤をすべて徴収され、1935年の8月には法人税をひきあげた。すなわち、大企業や資産家から多くを取り、労働者、低所得者層に分配するという税金政策を行った(6,P108~109)

■大型店進出を規制して中小商店街を守る

 逆説の未来史38「観念の遊戯」では、市場もコモンズであるとしてこう書いた。

「ウォルマートのような廉価な粗悪品によって地元ビジネスは立ちゆかなくなり、地域コミュニティが苦しめられ、高い質の商品やサービスが利用できなくなるという同じ競争が、工業化社会のどの産業においても起きている(略)。地元企業の経済では、ほとんどの収益は地元で費やされるが、多国籍企業は、全世界のコミュニティからマネーを吸い上げ、一人握りの都市に集中させる。それが、工業化社会の多くの町や農村が経済的に衰退している理由なのだ」

 そこで、この国では、地元商店街がシャッター通りになって衰退していたのだが、大店規制法を発動することで見事に地域経済を再生してみせた。

「デパートやスーパーは確かに便利だし、価格も安い。しかし、商店街という地域財産の消滅を考えると本当に経済効率がいいのだろうか。当時、衣料、建築、食料品等で人口の12%、700万人以上が中小企業で働いていた。そこで、大規模店舗規制法によって、デパートを規制した。また、日本では特定の大手業者が官公庁と癒着して独占的に納入することが多い。そこで、官公庁が備品等を購入する際には一定規模以下の業者しか発注してはならず、中小の商店が優先的に指名されるようにした(6,P47~49)

■役人の天下りを禁止

「政治家や官僚と民間が癒着することの弊害は現在も解決されていない問題である。日本の財政がこれほど悪化した最大の要因は官僚が補助金を使って天下り団体を大量に作ったからである。これは誰もがわかっているが、それを禁止するだけの政治力を持つ人間がいないからである(略)。そのため、この国では国会議員や党員が私企業の役員になったり、退職後に私企業に再就職することを禁じた。さらには、この規制を公務員にも適用することを目指していた。首相はこう語っている。

「自治体幹部、国会議員、党指導者は誰ひとりとして私企業の重役であってはならぬ。もし、そうした地位に甘んじている公僕がいるとすれば、彼が国家のために尽くしていたとしても、国民は彼への信頼を失うであろう」
「公務員が退職後、前職に関連する業界に天下るのは禁止すべきだ。どの企業も天下る公務員を雇いたがるのは、彼の仕事の能力を買ってではない。その持てるコネゆえなのだ」
「そのうえ、けしからんことにこの手の天下り役員は、その企業のために働き、一歩一歩トップの座にあがりつめてきた人間が座るべき椅子を横取りしている」(6,P123~124)

■労働者の権利を守りリゾートと休みを充実

 それだけではない。この国は世界に先駆け、労働者の勤務時間を8時間以内と法的に規定した。「学生に夏休みが与えられるように、労働者にも長期休暇が与えられなければならない」とのスローガンの下に、1934年の労働管理布告は、半年働けば最低でも6連休を有給休暇で取得するよう規定した。しかも、休暇は身体を休めるためのものであり、他の仕事を行った場合には休暇手当を返還のうえ、今後の休暇の請求権を認めないと規定した。

 また、労働者の通勤時間は30分以内にするようにしたため、ほとんどの会社員や労働者は昼食は家に帰って食べていた。さらに、時差出勤制度も取り入れ、早いものは午後4時には退社し、夕方の買い物ができた。さらに、健全な休暇を楽しめるよう、今で言う「レクリエーション」という概念を作りだし、ビーチ・リゾートを整備し、さらに労働組合を通じて、豪華客船による格安の海外旅行も推奨した。当時の豪華客船といえば、イギリスのタイタニックが有名だったが、タイタニックには金持ちしか乗船できなかったのに比べ、この国では、普通の労働者が半月分程の給料で旅行ができたから労働者だけでも10万人が豪華客船の旅を楽しめた(6,P84~94)

■小規模農家を守り、国をあげて有機農業を推進する

 グローバリゼーションは廉価な農作物を市場に溢れさせ、中山間地域の小規模農家の生活を成り立たなくする。そこで、この国は、米国の大規模機械化農業からの廉価な農産物の輸出攻勢に対抗し、小規模農家を何よりも守った。さらに、国の自立は健全な国土の保全と自給率をアップすることが必要である。そこで、世界に先駆け自然保護法を定め、今で言う「もったいない運動」を強力に推進し、「健康は国民の義務」のスローガンの下、健康にも十分に配慮し、合成着色料を禁止し、肉やバターを減らし、国産野菜やジャムを食べる運動を推進した。

 その結果1927年にはわずか65%しかなかった自給率を1936年には81%までアップさせるが(5,P124)、首相自らが「化学肥料のために疲弊している土壌を無理強いしてこれ以上、生産を増大させることは不可能である」(5,P123)と化学肥料の危険性を警告し、世界で初めて国家の総力をあげて有機農業を推進していく。

 さらに、健全な国土を維持するためには、若手新規就農者が欠かせない。

「中高年の雇用を優先したために職を失った青年に対しては、やることがなくなり非行に走るのを防ぐため、農村で勤労させた。1933~1935年の二カ年で平均10万人の青年が農村にでかけた(P55~56)。さらに、自給率をアップするため、家が持てない人のために300坪の家庭菜園付きの住宅を廉価で提供した(6,P100)

■弱者救済とナショナリズムで国民の心を捉える

 これほどラディカルな政策転換を行うことは至難の業である。ハイパーインフレ、大不況、財政破綻、通貨危機とあらゆる問題に直面し、約560万人と国民の三人に一人が失業していたのである。そこで、閉塞し切っていたこの国を改革するため(6,P24,P128)、この首相は1923年にまず国家クーデター試みた。けれどもそれは失敗した。

 フィデルが1953年にクーデターに失敗し、裁判にかけられ「歴史は私に無罪を宣言するであろう」と述べたことは有名である。そして、フィデルが獄中で書いた原稿が同志たちを通じて地下出版され、それが後のキューバ革命の青写真になっていく。そして、革命を成功させたフィデルの最も有名なスローガンは「社会主義か死か」であった。この首相も同じであった。クーデターに失敗した後、フィデルと全く同じフレーズ「歴史は私に無罪を宣言するであろう」を述べ、刑務所の中で執筆した著作がベストセラーとなり、その後、フィデルのような武力革命ではなく、民主的な選挙を通じて見事に国家元首となった(7,P27)。そして、「我が第三帝国は農民帝国か、しからずんば死か」というスローガンを掲げるほど農業と農民を大切していた(5,P123)

「大衆にとって理解しがたいことは、現在働きもせず、過去に働いたわけでもないものが投機によって収入を得ていることである」(6,P162)。ケインズの『雇用・利子及び貨幣の一般理論』が出版されたのは1935年のことだが、それよりも早くこの慧眼な首相は公共事業の重要性に気づき、公共事業を通じて失業者を解消する政策を展開してみせた(6,P20)

 当時の極端なマネー経済による資本主義の矛盾をこの国の国民は痛感していた。一方で、極端な社会保障を重視した社会主義の非効率さも身にしみて感じていた(6,P154)。資本主義は経済の効率的な発展につながるが、利己を追い求めるだけで深刻な格差が生じれば、社会的にはかえって不経済となる。個人の創意工夫を生かしながら富の分配をしていく(6,P155)。資本主義の活力を生かしながら、過度な競争、大企業の横暴な振る舞いには制限をかけ、社会のセーフティネットを整えていく。共産主義でも資本主義でもなく(6,P5)、弱者救済とナショナリズムを柱に自給自足の経済を目指し、マネーに頼らず物々交換で他国と貿易を行っていく(6,P158,206)。国民は正直である。こうしたこの国の政策に対して1951年になされた世論調査によると、半数以上が「1933~1939年までは最もいい時代だった」と答えている(6,P4)

 もう、お分かりであろう。1939年とは、こうした政策をとってきたこの国の首相、アドルフ・ヒトラーが戦争を始めた年なのである。

 ナチスの科学技術力は傑出していた。1935年に世界に先駆け、テレビ局「パウル・ニプコー」を開局し定時放送を始めた。テレビ電話の研究開発を進めていた米国が、テレビ電話を発表したのは1967年のモントリオール万博においてだが、ナチスはその30年前の1936年にすでにテレビ電話を市民サービス化していた(8,P68~73)。ヒトラーは首相になると直ちに宣伝省を設置し、ゲッペルスを大臣に据えた。ゲッペルスは、ラジオ、映画、ポスター等を総動員してナチスの政治の宣伝に努めた。人々の心理が景気の波にかなり影響していることは多くの経済学者が指摘している。景気が上向いているとメッセージを送ることは有効な経済対策と言える。人々が安心してものを買い、それが景気を刺激するからである。国民を洗脳したとして批判の対象となる宣伝省だが、ナチスは宣伝省を使って自分たちがやろうとしていることを十分に国民に説明はした。アウトバーンの建設でのヒトラーの鍬入れの様子、作業現場にシャベルを担いで行進していく労働者の隊列、その映像を見て民衆は「この大掛かりな高速道路を建設することで失業がなくなりドイツは発展していく。何か新しいことが起きている」と安心し、実感できたはずである(6,P43~44)

■石油と金不足がナチスを戦争に駆り立てた

 逆説の未来史40「抽象化の罠」では、中世イタリアの思想家フィオーレのヨアキムが進歩思想の元祖だと述べた。ヨアキムは世界史が「律法の元に俗人が生きる『父の国』時代」、「イエス・キリストのもとに聖職者が生きる『子の国』の時代」、そして最後の審判の後に訪れる「自由な精神の下に修道士が生きる『聖霊の国』の時代」三つの時代に分けられると定義した。このことから、三番目の「第三の国」が来るべき理想の国であるとのニュアンスを持つこととなった。そして、このネーミングをストレートに国名にした国がある。『第三帝国』である(4)

 それでは、自由の国を目指したであろうナチスは、なぜ暴走を始めたのだろうか。その理由のひとつは石油である。ナチスは自給自足を目指し、物々交換で貿易を行っていた。ナチス当時のドイツの輸入額の60%は原材料、25%が食料であった。食糧自給率は、鶏卵68%、果物68%、バター等の脂肪製品は45%だったが、ジャガイモ101%、小麦97%、肉類97%、乳製品90%、その他穀類73%とほぼ自給できていた(6,P226)

 けれども、最重要物資である石油はどうしても自給できなかった。そこで、ナチスは石油を作ることでこの悩みを打開しようとした。石炭から石油を製造する技術はカイザー・ウィルヘルム石炭研究所が開発しており、ドイツ最大の化学工業メーカーIGファルベン社は石炭液化法を驚異的なまでに発展させ、1934年にはガソリン使用量150万トンのうち35万トンが自給され、1944年には天然石油300万トンよりも多い350万トンの人工石油が製造されていた。けれども、人工石油の生産コストは天然石油の4~5倍も高く付き、ナチスの経済を大きく圧迫した。モスクワ陥落を目の前にしてドイツ軍がコーカサス地方に転じたのも油田を確保するためであった。ナチスは石油のためにソ連に敗れたともいえる(6,P222~226)

 第二の理由は、金である。当時は金本位制度を取っていたため、一国の通貨は金の保有量に応じた分量しか発効できない。そして、相手国が金を要求してくる場合には金で支払うことが必要となる。ドイツの金保有量は1931年の17億1100万マルクが1937年には6800万マルクと25分の1以下に現象し、このままでは石油の輸入や対外債務の支払いができなくなっていた(6,P231)。ヒトラーとしては、一か八かの勝負に出るしか手はなかった。すなわち、旧ドイツ領を回復し現地の銀行を没収することで金の保有量を増やし経済的な再起を図ることであった。ヒトラーはそれほど大戦争をするつもりもなかったと思われる。1939年にポーランド侵攻を契機にイギリスとフランスは宣戦布告をしたが、実際の戦争が始まるまでの1年の空白期間にあの手この手を使って和平工作を呼びかけていたのはナチスの方であった。しかし、英仏はヒトラーの退陣を要求したため戦端が開かれたのである(6,P232)

 そして、英仏との戦火が開かれた後もドイツは破竹の勢いで、フランスは2カ月で占領され、イギリスが降伏するのも時間の問題と思われていた。第二次世界大戦のターニングポイントは、米国の参戦である。それまでだんまりを決め込んでいた米国が、立場を変えたのはなぜなのだろうか。それは、1940年7月25日にナチスドイツが「欧米新経済秩序」という計画を発表したことにある。ナチスは金本位制の通貨の欠点を見抜いていた。そこで、マルクをヨーロッパの共通通貨にしようと試みた(6,P16)。だが、この欧米新経済秩序は米国にとってこの上もなく目障りなものだった。当時、米国は世界の7割の金を保有し、そのために世界一の繁栄を謳歌できていた。もし、欧米新秩序がグローバルスタンダードとなれば米国の金は宝の持ち腐れになってしまう。そして、当時、世界一の工業国は米国だったが、ドイツが猛追していた。そして、ドイツのマルクが欧州全体で使われれば、ドイツの工業製品がヨーロッパ市場を独占することも目に見えていた。このことから、米国にとっては第二次世界大戦は対岸の火事ではなくなっていた(6,P243~245)

■逆説の未来史への教訓

 武田氏の説によれば、第二次世界大戦は、自国の利益がドイツに冒されることに危機感をいだいた米国が、真珠湾攻撃を事前に知っていたがわざと日本に攻撃させることによって、ドイツとの戦争の機会をつかんだことになる。そして、武田氏は独裁体制の限界を次のように指摘する。

「独裁体制にはなんといっても重要な短所がある。独裁者が賢明なときにしか有効に機能しないということである。もし、独裁者が暗愚な場合は、国が落ちてくスピードも尋常ではない。ナチスドイツの場合も前半期は社会に目覚ましい発展をもたらしたが、後半期に転落を始めてからは、坂道を落下するように転落していった。独裁体制は人類が国家のシステムとして使いこなすにはまだ難しいということかもしれない(6,P153)

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) ウィキペディア
(5) 藤原辰史「ナチスドイツの有機農業」(2005)柏書房
(6) 武田知弘「ヒトラーの経済政策」(2009)祥伝社
(7) 三浦伸昭氏「カリブのドンキホーテ」(2010)文芸社
(8) 歴史ミステリー研究会編「ナチスの陰謀」(2013)彩図社