没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

逆説の未来史42 贈与の経済(20) へまをしながらも、ごまかしごまかし戦略でいこう

2013年10月21日 00時49分58秒 | 逆説の未来史

【はじめに】
 10月20日、日比谷公園で開催された「土と平和の祭典」に参加し、『移住&国民皆農 のススメ』というトークステージで、渡邉尚氏(NPOトージバ)、神澤則生氏(同)、斉藤博嗣氏(一反百姓じねん堂)、尾崎嘉洋氏(NPO法人苧麻倶楽部)、甲斐良治氏(農山漁村文化協会)とともに、少しだけおしゃべりをさせていただいた。自ら手に鍬を持ち田畑を耕すでもなし。地域に密着して住民たちとともに地域経済再生のための活動を行うわけでもなし。どうでもいいことをぐだぐだと述べるだけしか能がない人間である。ということで、トークでは「ドロンボー=レジリアンス」というこのブログでは二回(2013年5月4日の記事『ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~3左派、保守、みどり』、2011年2月16日の記事『人類滅亡回避のヒントは、ウメボシデンカとヤッターマンにあった』)も書いていることを再度、強調した。

 レジリアンスについては、アグロエコロジーブログ、2011年2月19日の記事『レジリアンスな人々』にも書いたので、興味ある方は読んでいただきたいのだが、なぜか、このレジリアンスが日本流に解釈されてしまうと藤井聡京都大学教授の『救国のレジリエンス 「列島強靱化」でGDP900兆円の日本が生まれる』(2012)講談社のように、250兆円規模の公共投資による経済成長に化けてしまうのである。

 けれども、私は「やられても、やられても、なんともなーいなーい。おれたちゃ不死身だ ヘイへへーイ、ドンドンドロンボー」(作詞:山本正之/作曲:山本正之/ 編曲:神保正明/ 歌:小原乃梨子、八奈見乗児、たてかべ和也)こそが、まさに、レジリアンスの本質そのものだ、と考えている。

 さて、トークで相席させていただいた甲斐氏とはキューバを現代農業増刊号に始めて紹介させていただいて以来の長いつきあいになるのだが、数年前にお会いしたときに「マスコミを通じたイメージ選挙ではなく、顔の見える村の選挙から首相が選出されるシステムであればヒトラーは決して歴史に登場できなかったであろう」と語られたことが記憶として印象強く残っている。前回のブログでは、グローバル経済に対抗する手段として、国家の持つ権力の重要性について述べたが、まさにキューバの選挙システムは甲斐氏の指摘したとおり、顔の見えるシステムとなっている。そして、それが、一党独裁という極めて危ない政治システムを抱えながらも、ギリギリ、ヒトラーの選出を防ぐことにつながっているのではないか、と私は思っている。そうしたことを念頭に、次回のブログとあわせて、ドロンボーになぜ私がこだわるのかを意識しつつ、グリアの主張をお楽しみいただきたい。

■自然の摂理に逆らえないことを諭したカヌート王

「ウォーレン・ジョンソン(Warren Johnson)は著作、『へまをしながらの倹約戦略(Muddling Toward Frugality, 1978- Sierra Club)』で、豊かな化石燃料の終焉を迎え、これと戦おうとすることは、おしよせる波に対して「引け」と命じるカヌート王を演じるのと同じようなものだと論じている(2-5)

 カヌート王(Canute,995~1035年)とは、中世に広大な北海帝国を築きあげたデンマルク王である。41歳で死去した後、後継者争いが起こり、帝国は死後わずか7年で崩壊するが、イングランドに侵攻したばかりか、ノルウェーやスウェーデンにも遠征し、イングランド王・デンマーク王・ノルウェー王を兼ねた人物である。そして、イギリス民話には、ジョンソンの一文についての象徴的な逸話が残されている(4)

 カヌート王に仕える家臣たちは、わけもなく王に媚びては褒めてばかりいた。王の意志決定に対して、常に褒め、それに対して苦言を呈するものがいなかった。けれども、カヌート王は名君であって愚かではなかった。
「海すらも王の命令に従います」とおもねる家臣たちを前に、
「そうか。ならば、本当にそうであるかどうか、確認をしてみよう」
 とある日、海岸の水際に王座を設置し、押し寄せる海の波に向かって大声でこう命令した。
「波よ!押し寄せるのをやめよ」
けれども、当然のことながら、波は止まらず、王の足や着物を濡らした。
王は椅子から立ち上がり、あわてる家来たちにこう告げた。
「よいか。いま目にした教訓を学ぶがいい。すべての力を持っておられるのは、空と海と山そのすべてを創造された神である。お前たちが褒めなければならないのは神だけなのだ」

 以来、家来たちは口先だけの褒め言葉を慎むようになったという(5)

■足下のコミュニティに解決策はある

 専門家だけでなく、普通の人たちも、建設的な現状の打開策がまだあるに違いない、と主張している(1-1)。第一は、危機を解決するため、破局が来るまでに政治システムを覚醒させ(1-4)、例えば、奸物集団である権力者たちの首をすげ替えれば問題が解決される。あるいは、技術的に正しい決定が政治的に下されれば、従来どおりのビジネスが継続できるという主張だ(1-1)

 第二は、社会崩壊を切り抜けるために僻地に銃や食料を装備して隠れる、あるいは、既存経済がバラバラに解体する前に、オルタナティブで持続可能なローカル経済をベースに救命ボートのコミュニティを構築するという主張だ(1-1,1-4)

 さらに、産業文明を破滅させることが現在の危機の最良の解決策だと主張する急進論者がいる(1-1)。新原始主義者(neoprimitivists)たちは、文明が崩壊し60億人が不便な狩猟採集型のライフスタイルを送ることを夢見ている(2-5)。こうした提案は、いずれも解決すべき問題に対応していると思えるかもしれない。けれども、そうではない(1-1)。これら三つの戦略がいずれも現実的な対応策でなく、解決策ではない。いずれも、現在の近代産業システムをそのまま完璧に保全するか、原始時代へと急速に没落するかのどちらかであって、中間の着地点がない。こうした想定がなされる背景には、これまで述べて来た黙示録の神話や進歩の神話がある。けれども、最もありえそうな未来は、中間の着地点であって、この着地点に向けて建設的な対応策を目指すことがおそらく最良の戦略なのである(1-4)

 例えば、1930年代にファシストたちは自分たちの勝利を望んだし、マルクス主義者たちはプロレタリア革命を夢見て、社会正義の活動家たちは富の再配分を切望し、クークラックスクランの団員も再び南部が隆盛することを望んでいた。革命家は現代社会の中から悪いことだけをピックアップして「現状ほど悪いことはありえない」と絶叫する。けれども、「今日の産業社会は最悪の状態にある」と主張する人たちは、自分たちが待望していたはずの崩壊が起こると、高速道路や郊外があった古き良き時代を切望していた自分にふと気づくかもしれない(2-5)

■危険な理想主義のヒーローよりもコミックのヒーローが大切

 米国では、1960年代に以降に新左翼が崩壊し、右翼も伝統的な保守主義を放棄し、本来のあるべき責務を果たさずに、営利ビジネスを支援することが保守だとなってしまっている。その政治的な空白はいまだに満たされず、未来に対する建設的な提案を行う気力がくじかれている。そして、変化を望む人たちにとって、これがマイナスなことは、その希望を育むには完璧な世界のファンタジーしか残されていないことだ。立候補者の是非について活発に論じ合うことが、民主主義にとっては欠かせないのだが、米国の政治状況はわずかな政党間の政策の違いに、極端な「善」と「悪」のレッテルが張られている(2-5)

 そして、いま多くの人たちが、産業文明が直面する危機への唯一の対応策は、理想主義に基づいて、根底からまったく新たな文明を打ち建てることが重要だ、と主張している。 けれども、私たちは、もはやその壮大なスキームのための時間を手にしてはいない。隠喩で例えれば、船がすでに氷山に激突し、沈みかかっているときに、新たな造船技術に基づいて、竜骨から船を再建するのでは手遅れなのである(3-6)。それでは、残された手段は、なんなのだろうか。それが、1970年代の適正技術運動で最も思慮深く、かつ、最も記憶されなかった前述したウォレン・ジョンソンの『へまをしながらもごまかしごまかし戦略』なのである(2-5,3-6)

 ジョンソンは、枯渇していくエネルギーや資源に対して、日々調整していくことが、豊かな経済から節約型の経済への厳しいトランジションの緩和になると考えてきた。最近までは、これは、未来予測の失敗事例として、無視されてきた。けれども、ジョンソンの予測は失敗していなかった。あえてジョンソンの肩を持てば、1970年代に成長の限界に対して、持続性に向けた運動にかかわっていた誰も、ほとんどの産業国が短絡的な視野しか持たず、急激に資源を浪費することで対応し、かつ、それが、永久的な解決策だと誤って認識されてしまうことになるとは予想できなかったからである。

 けれども、ジョンソンの戦略には、まだそれ以外にも利用できるアプローチが残されている。それは、もう手遅れになってしまった事態の中でもまだ適用できる。現在の苦境の性質がどのようなものであるかに対してクリアーな感覚を持って、そのアプローチを十分な熱意をもって死に物狂いでやれば、今後、未来が混乱していく中でも、かなりことをやれるであろう。それはただ傍観して船が沈むことを待っているよりも、確実な見込みをもたらす。それが、ジョンソンの『へまをしながらもごまかしごまかし戦略』であり、それが、私たちに残されている唯一の選択肢なのだ。

『へまをしながらもごまかしごまかし戦略』は、何をすべきかの手際がいいチェック・リストでもなければ、あるプランでもない。ただ、「へまをしながらもごまかしごまかし戦略」方のアプローチで問題に取り組みたい人にそれがどのような意味があるのかを示唆しているだけだ(3-6)。ジョンソンはヒーローの危険性をこう指摘する。
「イデオロギーや壮大な計画に依存する習慣は、悲劇的な言葉から借り受けている。そこでは、偉大なヒーローが理想のためにすべてを危うくする。もちろん、これは壮大な文学やドラマを作ってはいる。にもかかわらず、悲劇のヒーローはたいがい命を落とし、すべてを一緒に引きずりおろすことが多い。したがって、彼らは、建設的な変化のための最良のモデルではないかもしれない」

 このオルタナティブとして、ジョンソンは、コミックのヒーローの想定外の可能性を提示する。コミックのヒーローは、たいがいでたらめなやり方をし、完全無欠でもなく大きな行動計画もないまま手がかりもなく、状況のなかでつまずいたりしていく。ヒーローとは反対に、彼らの努力は、多くの社会変化の提案者たちが熱望する尊敬をとうていインスパイアーできやしない。けれども、悲劇のヒーローとは違い、彼らは、それほど同志を巻き添えに自殺的な暴発を果たすような極端な行動はとらない。

 現代の産業文明の衰退と没落に対しては、コメディーは望ましい素材のようには思えないかもしれない。けれども、まごつきの基本戦略には、推奨すべき多くのことがある。

 なぜならば、エコテクな文明がどのように見えるのかは誰も知らない。産業社会からエコテク社会へとトランジションするために、どのようなステップが必要なのかも誰も知らない。どれほど急速に化石燃料の生産が低下するのか、その結果として経済的なショックの波がどのように展開していくのか、あるいは、グローバルな気候変動の影響がどれほど急速に大きなやり方で今日の社会に影響をもたらし始めるのか、あるいは、これから直面する深刻な問題についてのそれ以外の回答もそうなのだ。そして、こうしたことに対して、効果的に対応できる何かがあるとしても、それが何なのかは誰もわからない。
 わかっているのは、ある種のことが、現在は機能してはおらず、変える必要があるということだけだ。そして、現在は機能しているそれ以外のものも、長期的には機能しなくなるかもしれない。こうした状況においては、未来に対して、あるひとつの雄大な計画にすべてを賭けてしまうことは極めて危険な賭けである。より賢明なアプローチは、状況に対して様々な対応策を促進することであろう(2-5)

■逆説の未来史への教訓

 ジョンソンは、未来の危機を受け入れ、それに対して、適度で、断片的で、印象的ではないステップを取ることが最善のやり方だと提案する。すなわち、ガチガチの理想やイデオロギーを抱かずに、とにかくやれることを肩肘はらずに試みつづけることがベストな対応策、適応型の戦略なのである。そして、適応型ということは、レジリアンスが高いと言うことでもある。

 逆説の未来史14「エコテク文明は直ちには出現しない」では、「ユートピアを目指す壮大なアジェンダが、常に悲惨なまでに失敗する。フランス革命時代のギロチンから、ロシア革命、カンボジアのクメール・ルージュのキリング・フィールドに至るまで、楽園を約束し最も地獄に最も近いものをこの地球上で産み出してきたのは、常にラディカルな運動だった(2-10)。社会構造の全体を一度に転覆させようとした試みは、常に失敗し、暴力や暴政の爆発以外には何も産み出さなかった (3-6)」と書いた。そして、あるひとつの雄大な計画にすべてを賭けてしまい、前半は大成功を治めつつ、後半にはやはり大惨事を招いてしまった政治的失敗事例があるのである。

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4)ウィキペディア
(5) 中野牧師Penguin Club 2009年8月9日「マタイ14:22~33 恐れるな、わたしだ」より
クヌート王の画像はウィキペディアから