中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

謎の橋

2022年05月07日 | レトロ探偵団

 最近、横浜中心部の橋の近くで、このような看板が目立つようになってきた。コロナ禍の中であまり出かけていなかったから気づかなかったのかもしれないが、もしかしたらかなり前から張り付けられていたのかもしれない。

 これは、石川町駅南口改札口を出て、目の前にある中村川に沿って元町方面へ少し行ったところにある。
 着色絵葉書の画像がはめ込まれているが、川の左側が石川町で上流に赤い橋が写っている。これが謎の橋だ。
 亀の橋ではないようだが、いったい、なんていう橋なのだろうか。


 もう一枚の板に解説が書いてある。
 幕末から戦後まもなくまで、現れては消える橋。赤い橋と呼ばれていたそうだ。のちに売却され、柏尾川に移設されたという。


 むかし、この対岸に横浜製鉄所があった。


 その記念碑が石川町駅前にある。


 説明板の中に当時の写真が組み込まれている。
 中央の建物が製鉄所で、手前の川は旧「派大岡川」だ。現在は車の流れる高速道路や駐車場になっている。
 左に流れている川は中村川。今はその上に高速道路がかぶさっている。


 その製鉄所跡地に、昔は横浜掖済会病院があった。
 

 以前はこんな大きな記念碑が建っていたのだ。


 病院が山田町に移転したあと、私の記憶が正しければ、そこにボーリング場ができたと思う。
 ニット―ボウルといった。右側に見えるのがそれだ。
 (あとで地図を見て分かったのだが、病院とボウリング場は同時に存在していた)
 

 やがてそこも撤退すると、次にできたのはテニスコートだった。


 中村川をふさぐような形で高速道路の建設も始まった。
 石川町駅の上空も跨ぐ、うっとおしい道路だ。
 北口と南口は中村川で分断されていて、非常に不便であったため、両者を結ぶ人道橋もできた。


 さて、写真を現代に戻そう。川の向こう側が製鉄所の跡地だ。


 フェンスから川を覗くと、こんな階段状のものが並んでいた。おそらくここから船に出入りしていたのだろうね。
 手前の空き缶は、後ろのベンチで呑んでいたチューハイ。もちろん放置せずに持ち帰ったことは言うまでもない。


 西の橋。昔はもう少し下流で、「かばのおうどん」の角から元町側に架かっていた。
 写真の左側に写っている排水溝みたいなものは何だろう…?
 もしかしたら派大岡川関係の構造物か?


 橋のたもとに一等水準点があった♪


 船を繋留するためのボラード。ここでも船が接岸していたんだろうね。

 さて、ここからは昔の地図を眺めながら製鉄所を取り巻く川と橋を調べてみよう。


 1865年の「PLAN DE YOKOHAMA」。フランス人のクリペットが実測で作製したもの。
 堀川に架かる西の橋は、現在の長安道とつながっている。前田橋は今と同じく南門通りとつながっている。


 1865~1866年頃の「御開港横濱之全図」。煙が立ち昇っている施設が横浜製鉄所である。
 マリウポリではロシア軍によって製鉄所が攻撃されており、この煙とは違う戦争による煙が……

 派大岡川に架かる橋が、製鉄所と現在の山下町中華街側とを結んでいる。


 1868年の「横濱明細全図」。製鉄所と山下町の間に橋が描かれている。
 赤丸は西の橋。黄色丸は前田橋。


 1868年の「大港横濱之図」。絵図なので橋の向きが違うけど、山下町側に架かっている。


 1870年の「横濱全図」。現在の中華街とその周辺の街路パターンがはっきりしてきた。
 製鉄所から橋を渡ると、この辺に出るような感じかな。
 西の橋は長安道につながっていることが、はっきりと描かれている。


 1871年の「横濱一覧之真景」。


 1871年の「横濱地図」。製鉄所と西の橋際を結ぶ線は何だろうか。汚れかな…。


 1878年の「横濱分見地図」。赤丸の位置が善隣門だ。
 製鉄所から橋を渡ると、現在の横浜中央病院と港中学校の間の道を経て、関帝廟通りに至る。


 1895年の「新撰横濱全図」。製鉄所と山下町をつないでいる橋の名前が、やっと表示されるようになった。
 吉浜橋だ。
 もちろん、現在の吉浜橋とは位置がまったく違うけどね。


 1898年の「横濱新景一覧図絵」。
 橋の位置が変わった! 今までは山下町側に架かっていたのが、この地図では石川町側に架かっている。
 これが冒頭のパネルに描かれていた「赤橋」なのだろう。


 1901年の「拡張改正横浜市全図」。『横浜絵地図』から接写しているため、よく読めない。
 *橋のようだが……。はたして「*」は「赤」なのだろうか。


 1920年の「大正調査地番入横濱市全図」。残念ながら橋名が書かれていない。


 戦後の「横浜戦災状況図」。ベースとなっている地図は米軍が作製したもの。やはり戦後もこの橋は架かっていたんだね。

 で、結局、私が持っている地図類からは何もわからなかった。

参考:ハマ伝サイン
   濱橋会


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2 コメント

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Unknown (ちゃめごん)
2022-05-08 12:48:51
謎の橋の解説板に「…売却され
大船柏尾川に移設されたと記述
があります。」と書かれていま
すが...移設先ってどこ⁈
戸塚から藤沢の橋をざっと検索
してみましたが、わかりません。
謎は深まるばかり。
返信する
柏尾川に移設 (管理人)
2022-05-09 06:20:13
>ちゃめごんさん
私も探しちゃいました。
でも時代が古すぎる。
その後は撤去されているのではないでしょうかね。
返信する

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