
69年前の5月29日、米軍による横浜大空襲があった。 投下していったのは爆弾ではなく焼夷弾。内部に粘着性のある油脂を詰め込み、それをさく裂させて家屋や人間を焼き殺すためのものだ。 アメリカでは、木材と紙でできた日本の家や街並みを再現し、そこで燃焼実験を行っていたという。 それに協力させられていたのが、山手のエリスマン邸や伊勢佐木町の不二家ビルを設計したレーモンドだった。横浜に縁のある建築家が砂漠での実験に協力し、そこで完成した焼夷弾によって横浜中心部を壊滅させたのだ。後年、レーモンドはそのことを大変悔やんでいたらしいのだが… 昭和20(1945)年5月29日火曜日、天候は朝から快晴で無風状態だった。午前9時過ぎ、横浜上空に姿をあらわしたB29爆撃機は、防戦する日本軍の高射砲や機銃の弾幕の上を飛行し、高高度からの空爆を行った。降りそそぐ大量の焼夷弾によって、当時97万の人口をかかえる大都市横浜の中心部は、山手地区と山下公園周辺を除いて、ほとんどが燃え尽きた。(横浜市HPより) そのとき被災した平沼駅が、一部当時の姿でまだ残っている。 ![]() 京浜急行の駅であるが、現在、ここに止まる電車はない。 戦跡として保存されており、毎年5月29日には慰霊祭が行われると聞いたが、私は見たことがないのでその辺の事情はよく分からない。 ![]() ホームにはコンコースに降りる階段口が見えている。 なんとなくレトロっぽい柱の一部も残ってるようだ。 ![]() ホームにあがる階段。 京急では耐震工事をやっているようだが、今後、この駅はどうなるのかな。 橋脚を補強して、駅自体は残してほしいものだ。 現在の平沼駅を見たあと、中華街へ向かうべく歩いていたら、こんなものを発見した。 ![]() 戸部本町にある電柱だが…… ![]() 見上げると、NTTの路線名が書かれたプレートが貼ってあった。 天神町支線だ。 おそらく戸部本町というこの町は、かつて天神町と呼ばれていたに違いない。 後日、横浜の町名を調べたら、やはり紅梅町、戸部町、御所山町、石崎町、桜木町、天神町の一部から新設した町となっていた。 NTTの路線名は旧地名の宝庫だな♪ さて、ここから中華街まで、延々と歩く。 そしてランチの前に町内の観察だ。 ![]() 先日閉店した香港路の「山東」。 空き店舗が発生すると、すぐさま自転車の駐輪場となってしまうのだが…… ![]() ここは早くも次のお店が決まったみたいだね。 すごいなぁ… ![]() 週末中華の本須さんが、まだ出ないのかと気にしておられた「桃源邨」の荷葉飯。 やっと登場した。 ![]() ずっと閉まったままの「廣新楼」。 シャッターに張り紙が出た。 ![]() 閉店だ! 店舗移転と書いてあるが、はたしてどこへ…… 決まっていれば移転先の情報も載せるはずなのだが、行先が決定していないのか。 ![]() 西門通りの八百屋「日昇商店」の店内が空っぽになっている! ![]() こちらも店舗移転なんだね。 行先ははっきり書いてある。山下町131番地だ。ここって「雲龍」の裏側で住宅地区のはずだが… そして、横浜橋商店街にも店を出すのか。 ![]() |
最初は成層圏を飛行していたのが、段々と高度を低く飛ぶようになりました。
そして、夜間飛行なんかには電波妨害のアルミテープを空中にばら撒きました。
拙らガキどもは空襲の翌日には油脂焼夷弾の不発を拾ってきては、
自転車のパンク修理のゴム糊にしたが驚くほど良く接着しました。
もはや戦前です。
不発弾から油脂を取り出し、
ゴム糊にしたという話は聞いたことがあります。
空襲でよく生き延びられましたね。
大変だったと察します。
越してきた者なので、昔の話が大変貴重に思えます。
今度きょろきょろしながら歩いてみます。
昔のいろいろな痕跡を探して歩くのは面白いですよ。
西区あたりは、絶好の散策エリアですね。