
この前の日曜日、たまたま花咲町に用事があってJR桜木町駅で下車した。昼時は過ぎていたのだが、まだ昼食を食べていなかったので駅構内の立ち食い蕎麦「川村屋」で食べることにした。 現在のコンコースは「MM21」や「野毛ちかみち」と接続する部分に造られているが、駅舎が改築される前はもっと関内寄りにあったと記憶している。そして、その頃はたしか「川村屋食堂」といってはずだ。 私はざる蕎麦を食べながら、鉄道の歴史、駅舎の移り変わりなど、桜木町駅にまつわる事柄をいろいろ思い巡らしていた。 そして、最後の蕎麦をたくし上げツユに浸したとき、ふと、「富貴楼・お倉」のことを思い出した。 ![]() 明治の初め頃、現在の中区尾上町付近に「富貴楼」という料亭があった。女将の「お倉」は、この料亭に通った伊藤博文、大隈重信、岩崎弥太郎、清水次郎長などと親交があり、彼らの人間関係にまで深く影響を及ぼした、なかなかの器量と気っ風の持ち主であった。「富貴楼」で大隈重信と伊藤博文を会わせたのも、お倉だったといわれている(明治の政治を動かした女傑・富貴楼のお倉については、鳥居民が「横浜富貴楼 お倉」の中で詳しく書いている)。 待合政治の元祖だったわけだ。 お倉の娘婿は定職を持たない男だった。そこで彼女は新しい業務を立ち上げ、婿に商売を始めさせた。それは桜木町駅でニギリメシなどを売る仕事だった。駅弁売りといってもいいかもしれない。 その店の名が「川村屋」だった。 ここからは私の推測だが、横浜駅(当時はここが横浜駅だった)から汽車に乗る乗客にニギリメシを売る商売が、やがて駅構内での洋食屋となり、今の立ち食い蕎麦屋につながっていると考えてもいいのではないだろうか。 お倉の子孫が今の蕎麦屋を経営しているのかどうかは分からない。だが、屋号の「川村」だけは明治時代から連綿と受け継がれてきたと、私はそう思いたい。 ![]() |
あの仲の悪そうなおばちゃん同志の、意地悪なやりとりも、不思議と重みを持って聞こえてきますね。
青汁効くんでしょうか。野毛上がりの一杯は時間的にとても無理ですが・・・
重みがある立ち食い蕎麦屋です。
偶然に感動でした。
その時の感動をBlogにし、ここにLinkを貼らせていただきました。ご了承いただけます?
もし何か支障があれば何なりとご指摘下さい。
お知らせありがとうございます。
先日、川村屋に行ってきました。
たしかに、ここは富貴楼の関係者だったんですね。
嬉しいです。
リンク、問題ありませんよ。
我が家にも新米蕎麦打ち職人?が居て、月に1度は八割蕎麦の打ちたてを賞味していますが・・・
川村屋の蕎麦には興味津々です。
川村屋の蕎麦もですが、ここの歴史に興味津々です。