もう20年以上前のことになるが、よく呑みに行っていた福富町のスナックで山好きのオジサンと知り合った。 飲食関係のお店をやっておられる方で、毎週、何曜日だったか忘れたが、定休日を利用して丹沢の鍋割山に登っていた。 彼が山から汲んできた水は、私たちが作るウィスキーの水割りによく利用させてもらったものだ。 そんなある日、オジサンから誘われて丹沢ボッカ駅伝に出場することになった。 ボッカとは荷物を背負って山を登ること、あるいは登る人のことをいう。強力(ごうりき)も同じ意味で、ボッカには「歩荷」の字があてられている。 丹沢ボッカ駅伝は、重たい荷物を背負って、山麓の大倉から鍋割山山頂まで駆け登る過酷なレースなのである。話には聞いていたイベントであるが、まさか自分が選手として参加することになるとは思ってもいなかった。 あれよあれよという間に、鍋割オジサン、ミニヤコンカから奇跡の生還を遂げた登山家・松田宏也さん、松田さんの同僚、『山と渓谷』の編集者、そして私という、酒好き山好きによる混成隊が立ち上がった。 冒頭の写真は駅伝当日の計量風景である。 ポリタンクの中身は水。チームの能力に応じて10キロ~40キロまでクラス分けされていて、タスキの代わりにこのポリタンクを5人でつないでいくというわけだ。我々は20キロ級に挑戦した。 【コース・区間】 距離 区間と標高 1区(1407m) 大倉どんぐりハウス(290m)~見晴茶屋前(610m) 人里から山へのいざないの区間で、前半は舗装路が続く。 2区(1211m) 見晴茶屋前(610m)~駒止茶屋前(900m) 木漏れ日と山の匂いに包まれる区間。 3区(1054m) 駒止茶屋前(900m)~堀山の家前(950m) 新緑のトンネルを潜り抜ける区間。標高差も少なく距離も短い。 4区(1185m) 堀山の家前(950m)~花立山荘前(1300m) 初夏の日差しが体いっぱいに降り注ぐ厳しい区間。標高差350m。 5区(2778m) 花立山荘前(1300m)~鍋割山荘前(1273m) 新緑のブナ原生林を巡る区間。標高差はないが距離は最長。 誰がどの区間を担当するか、すぐに決まった。 1区 スタート時の瞬発力を買われて私が抜擢された。標高差330m。 2区 鍋割オジサン。標高差290m。 3区 松田さんの同僚。標高差50m。 4区 標高差350m。花の4区は松田さん。 5区 最長区間なので『山と渓谷』の編集者。 そして今回のレースにはテレビ局の取材が入ることになっていた。カメラが付いて回るのは、ほとんどわがチームだ。 なぜ、テレビカメラが我々を追いかけてくることになったのか。それは松田さんが、こういう方だったからである。 2区の中継所。 鍋割オジサンのスタートダッシュ。右端にいるストックを持った男性が松田さん。彼は2区、3区の選手より先に第4中継所に行っていなければならないのに、この時点でまだこんな下の方にいる。 しかし、これでも間に合ってしまうんだから凄い! 4区の中継所で20キロのポリタンクを引き継いだ松田さんが、花立山荘に向かって走り出した。いや、正確には歩き出したというべきだろうか。 なにしろ両足とも義足なのだから走るという感じではない。それでも足が痛むのか、苦しそうな表情がうかがえる。 そんな彼の顔をNHKのテレビカメラがアップで撮影していた。 それにしても早い、早い! ぐんぐんと標高を稼いでいく。 花立山荘が近づいてくると、さすがにバテバテの様子。 ポリタンク2個を背負った選手が追い越して行った。40キロ級だろうか。 いよいよ最後のツメだ。 最後に来て、再び軽やかな足取りになった。 花立山荘前。第5区中継所に到着! 『山と渓谷』編集者が待っている。 松田さんの健闘を称え、ポリタンクを引き継ぐと一気に駆け出して行った。 テレビ局の取材。 エキシビションで駆け登ってきたチーム。60キロ級である。 こちらも60キロ級だ。背負っているのは水ではなく、山小屋で使う食料品か。 ゴールの鍋割山荘前。 でかい荷物を背負った人の向こうを松田さんが通り過ぎていく。 水戸証券のチームは仮装して出場していた。 こんなのもいいね。 表彰式で紹介される松田さん。 出場チームは61で、成績は次のとおり。 【第1位】 優勝は「とんで~る15」チームで、総合時間は1時間30分57秒。1区を21分42秒で駆け抜けていった。もちろん区間賞だ。 2区は16分36秒でこれまた区間賞。3区では7分22秒となり区間賞を逃すが、それでも2位だ。 花の4区は23分28秒で区間10位。ちなみにこの区間1位となったのは外国人チームで、なんと20分42秒で駆け登っている。 最終の5区で再び区間賞を取る。時間は21分49秒だった。 【わがチーム】 総合時間は3時間3分37秒。優勝チームの2倍以上の時間がかかった。 私が走った1区は37分21秒。61チーム中、49位だった。2区で少し順位を上げて、鍋割オジサンが25分4秒(33位)で走った。 3区で再び順位を落とす。13分34秒で59位だ。そして松田さんの登った花の4区。走ることができないので時間は1時間12分55秒とかかったのは仕方ない。 それでもアンカーの編集者が区間36位の走りをみせて、最下位は逃れることができた。 このあとは選手、応援団と一緒に山上のランチとなった。 ここで『山と渓谷』編集者から簡単なおかずの作り方を教えていただいた。ウィンナーとピーマンのケチャップ炒めだ。 乱切りにしたウィンナーとピーマンをオリーブオイルで炒め、そこにコンソメ少々と塩・胡椒・ケチャップを加えてからめる。最後に辛子で大人っぽい味付けにしていく。 あれ以来、山に行くときは必ずこれを作るようになった。ケチャップまみれのピーマンを食べると、必ずあの過酷なレースを思い出す。 ランチを食べながら山や酒場の話を楽しんだら、いよいよ下山開始である。わがチームのメンバーだけではなく、松田ファンも一緒になって、松田さんから植物のことや山のことについて説明を受けながらブナ林を下って行く。 それにしても下りのスピードが速い。両足とも義足なのにどうしてこんなに早く下れるのか訊いてみた。 「それはね、足を踏み下ろす場所を一瞬のうちに判断しているからだよ。しかも的確な位置にね」 そう話す松田さんの表情には、穏やかさの中にも厳しさが見られる。もともと意志の強さ、負けん気の強さを感じさせる顔だ。ストイックで研ぎ澄まされた雰囲気がヒシヒシと伝わってきた。 これだからこそ、奇跡の生還を遂げたのだろう。 1年以上の闘病生活、リハビリのあと登山を再開し、1986年には厳冬期の富士山に単独登頂している。 1988年、厳冬の北海道知床・斜里岳登頂、1995年、チベットヒマラヤ・シシャパンマ峰(8012m)に遠征し、最終キャンプの7430mまで到達した。 【参考動画】 夢の高さ ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
DVDにして譲ってくださいまし。
感動して涙が出ました。
このストイックさ、何にも負けない精神力ですね。
取材は松田さんだけですので、
どういう番組になったのか不明なのです。
私もほしいくらいです。
本を読めばもっと分かりますよ。
感動します。
すごすぎます。
でも何年か前に山下公園のフードフェスタで偶然会って以来御無沙汰してますねぇ…
そうでしたか!
仕事がらみとはいえ、すごい方とお知り合いなんですね。
私の自転車の遠乗りなんて子供騙しに思います。
今度は鉄人レースに出てくださ~~い。
最近丹沢に走る機会が増えたこともあり、
当時の登山道の様子を興味深く拝見しました。
松田さんのファイトには驚きですね。
丹沢で走っているんですね。
次はボッカ駅伝なんかどうでしょうか。
以前は登山道整備のために石などを背負っていましたが、
最近はどうなのかなぁ。