シリーズ「昭和31年の地図に見る銭湯」。前回のNo.7 石川温泉をアップしたのが2021年2月10日だったので、今回はほぼ2年ぶりに記事を書くことになる。 第8回は豆口台にあった「豆口温泉」だ。豆口台というのはJR根岸線の山手駅で降りたら立野小学校側に出て、線路沿いの坂を上っていった先にある町。坂の中腹には根岸外国人墓地があり、町の南端は根岸の丘の崖っぷちになる。 冒頭の地図を拡大してみよう。 ←クリックして拡大 赤い線で囲ったところが「豆口温泉」だ。名前に「温泉」と付いているが、今まで見てきた銭湯と同様に、たぶん温泉ではなく、沸かし湯だった思う。 周囲には耕作地と牧場が目立つ、郊外地といった風景が広がっていたに違いない。耕作地というのは野菜畑だろうか。あるいは、もしかしたら花卉栽培をやっていたのかな。 牧場が2軒。栗原牧場と高井牧場と書いてある。牧場といっても北海道なんかで見るあのような広大な牧場ではなく、牛舎だよね。牛小屋で数頭飼育していた、そんなイメージだ。その牛舎から出てくる牛糞などが耕作地での肥料として利用されていたのだろう。 豆口温泉の北側には「斎藤養魚池」(オレンジ色で囲んだ部分)というのがあった。どんな魚を育てていたのかと思うだろうが、この当時の養魚といえば大抵は金魚だ。今はどうなのか分からないけど、昭和30年代といったら多くの家庭で金魚を飼っていたのではないだろうか。 そういえば、20年くらい前、山手駅から本牧通りへ向かう大和町商店街で金魚を売っている店があったのを思い出した。この金魚池との関係は分からないが、昔からある金魚屋さんなら、ここから仕入れていたかもしれないね。 この金魚池から道路を挟んで向こう側には「外人墓地」がある(エンジ色で囲んだ部分)。これは現在でも残っている「根岸外国人墓地」だ。 門柱。 片翼の天使。 前回ここを訪れた2019年はまだコロナ前だった。なのにゴミ箱はこんな状態に。ゴミを入れるな、ということなんだろうが、だったら撤去すればいいのに……。 案内板。最近は確認しに行っていないのでどうなっているのか。気になるところだ。 根岸外国人墓地から惣菜店へ 根岸外国人墓地とドイツ巡洋艦爆破事故 ところで、昭和31年の地図にJR根岸線が描かれていないのは当然で、このエリアに鉄道が入ってきたのは昭和39年(1964)だったのだ。東京オリンピックの年である。 そのラインはというと…… 線路敷は地図の真ん中を縦に通る道路の右側に入ってきた。牧場とか耕作地の辺りを買収して線路を敷いたのである。 それから約半世紀後の2013年、山手駅はバリアフリー化されて上下線にエレベーター、上り線にはエスカレーターが設置され、多目的トイレも設けられた。これらの設備スペース確保のため、駅舎の位置が大船方面に50m移動したのだが、その際に驚くべきものが発見された。 今まで構造物に隠されていた馬頭観音(馬頭観世音)が出てきたのである。当時は「なぜ、ここに?」「誰が建てたのか?」といった疑問が飛び交っていたのだが、上の地図をご覧になって分かるように、牧場をつぶして線路が敷設されているのだ。おそらく牧場時代からこの場所に馬頭観音があったのだろう。 根岸線建設工事の際にこれの存在に気がついていたはずなのだが、撤去するわけにもいかず、「どうしよう、困ったなぁ~」なんて言いながら、そのまま駅構内に収まるよう工事を進めていったに違いない。 あれから約50年経った2013年、再び馬頭観音が出現したわけだが、ここでもまた「馬頭観音どうしようか問題」が発生したのだ。このままの位置では支障をきたすし、かといって、まさか捨てるわけにもいかないよね。一時は駅長室の中に、なんて意見もあったらしい。JR東日本、横浜市が地元の方々を巻き込んで大騒ぎになったのだ。 その後、私はこの騒動を忘れていたのだが、ある時、横浜シティガイド協会の嶋田昌子さんから「あの馬頭観音は移転した」と教えられた。場所は根岸外国人墓地近くの清水寺(せいすいじ)の境内だという。豆口温泉のすぐ下に描かれている鳥居マークがそれだ。 馬頭観音。 裏面は風化していて読みにくいが、大正時代のものらしい。 境内にある「築井戸稲荷」の碑。四百年記念碑と彫られている。碑の裏面と赤いお稲荷さんを撮影してこなかったのが残念。 それにしても清水寺に築井戸稲荷とは、おもしろい組み合わせだ。どちらも水に関係ある名称であるが、この辺の事情は分からない。 豆口温泉から話がだいぶ逸れてしまったが、逸れついでに豆口住宅のことを貼っておこう。以下は『中区史』からの引用。関東大震災後の話である。 豆口に建てられた住宅は、当時としてはモダンな建物であった。この時入居した人は次のように語っている。 「私どもの入居は九月でした。初め市営豆口住宅といわれており、文化的で大変きれいな住宅でした。屋根はスレート、外壁は板を横に並べたものでした。柱はアメリカからの援助資材で作られておりました。七十戸ほど建てられ、その中三棟六戸は長屋でした。 そのほかは普通の住宅で、それにも三種類があり、少しずつ間取りが違っていました。特号というのが六戸あり、六畳間と風呂とが追加されていました。 普通の家には風呂場がありませんでしたので、住宅の中ほどに市営の風呂屋がありました。その風呂がまたモダンなもので、たしか径三間(約五・四メートル)位の円型で、青タイルで張りつめてありました。 商店としては、二棟の長屋に一つずつ、牛乳屋、コロッケ屋、魚屋、煎餅屋、よろず屋(雑貨店)、炭屋などがありました。それにおかず屋というのがあって、煮豆などを売っていましたが、注文を受けるとカレーライスや肉鍋の仕出しまでしてくれるので、それは便利でしたね……」 おもしろいのは、おかずの出前である。今でこそ、すし、そばなどの出前はあたりまえであるが、おかずを近所に届けてくれたのは珍らしいことである。 もう一つ「西洋料理」というのがあるが、これは本当の西洋料理であった。ちなみに当時のサラリーマンや小学生の弁当には、まん中にコロッケが入っていたこともあって、これがかなり「高級」なおかずであったようだ。 大正の初期から昭和十年代まで庶民にとって、コロッケは立派な西洋料理であり、食生活にうるおいを与えたものであった。因みに「今日もコロッケ、あすもコロッケ……」という歌が大流行したのは大正七年頃であった。 「住宅の管理は、市の住宅課でした。住宅地内に管理人さんがいて、毎月の家賃はそこへ持って行くのです。特号で三十二円から三十五円、普通で二十円から二十二円、長屋は二十円以下だったと思います。米が一升二円四十銭(十キログラム十六円八十銭)位の頃です」 「住んでいる人は腰弁(当時のサラリーマン)の人が多かったですね。それで、お互いの近所づき合いはよかったですね。新しい文化住宅の村、といったような感じでした。家賃は戦争になると、特号が二十五円位、普通が十五円ぐらい、だんだん値下げになりました」 「授産所長宅は今でも残っていますが、現在の空地に市営の授産所があり、いろいろな人が内職に通っていました。後に交通局の住宅となりました。市営の外人住宅もその頃出来たもので今も残っています。市営住宅の出来たおかげで、いろいろな催し物がありました」 「いま、豆口児童公園となっている子どもたちの遊び場は、昔の風呂屋の前で、この広場で素人相撲、祭礼のみこし、よしず張りの生花展、盆踊り、ぼんぽり作り、児童画展、少年野球、小運動会などが催されました。戦争中、風呂屋はこわされて畑となりましたが、現在は豆口台上町内会児童会館が出来ました」(以上、豆口台福田ユキ氏談) このように市営豆ロ住宅は、現在の団地の先がけとして、この地域の大きな変化となっただけでなく、地区の住宅化の契機となった。いま住宅のほとんどは老朽化はしているものの、現存している。まさに震災後の住宅として、記念碑的存在といえる。 【出典:「中区史』1985年発行】 ※区制50周年で発行された記念誌である。区制施行は1927年なので、50周年というのは1977年のはずだが、なぜか8年も遅れて発行されている。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
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