
旭川に来て3日目、つまり1月25日のことだが、明け方に少し寒さを感じてタオルケットを一枚お腹にかけた程度で、室内は快適な温度が保たれていた。しかし、外に出るとかなり冷え込んでいる。 そんな中、近くのスーパーまで買い出しに行った。一人暮らしの義父は自分では滅多に買い物に行けない。いつも友人やヘルパーに頼むことが多いらしい。ということで、この日は私が出かけることになったのだ。 スーパーまで5,6分だというから歩いて行ったのだが、横浜人にとってこの雪道は厳しい。パウダースノーだから、滑る、滑る…… 安全のために履いてきた登山靴がまったく役に立たない。こんなことなら軽アイゼンを持って来るんだったなぁと悔やまれたが仕方ない。 結局、スーパーまで15分ほどかかってしまった。しかも近いからと思って手袋をしてこなかったのがいけない。帰り着いたときには、指先の感覚がなくなるほど凍っていた。 買ってきたものと、冷蔵庫にある食材を使って朝食を作る。 ![]() タッパウエアの中に蟹の身が残っていたので、それを溶き卵に混ぜて「なんちゃって蟹玉」をでっち上げてみた。ここに甘酢あんをかけようと思っていたのだが、面倒なのでそれはやめた。蟹のエキスがタップリ入っているので、塩コショウだけで充分だった。 そして食後、再び原稿や資料、写真の確認作業を行う。 ![]() 北の歌を作りたいという作曲家・船村徹と一緒にサハリンに行ったときの写真。1981年というからまだソ連時代のことだ。 そしてできた歌が、たぶん「サハリン無情」と「サハリンの舟歌」なのではないかと思う。この2曲の音源はネット上にあがっていないため、どんな歌なのかは分からない。 稚内のラーメン屋にいわせれば「ラーメンは北へ行くほど旨くなる」そうだが、船村徹は「演歌は北へ行くほど味が出る」と言っている。サハリンは日本人にとって馴染みのない地域なので、この2曲は世間的に話題にのぼらなかったのだろうが、義父にとっては思い入れの強い歌謡曲なのである。 なぜなら、彼は旧樺太(現サハリン)の出身者だからね。 ![]() サハリンの友人から送られてきた写真。日本人が樺太に入る前からあったという謎のエリア。 ![]() 以前、私も義父と一緒に行ったことのある美しい海岸。 ![]() 義父が生まれた町、落合(現ドリンスク)。 廃墟となった日本時代の製紙工場だ。 昭和20年8月9日、突然、ソ連軍が侵攻して来た。北樺太との国境付近に住んでいた大勢の日本人が、身を守るためどんどん南下し始めた。 8月15日、終戦となったがソ連軍の攻撃はやまない。 8月20日、真岡(現ホルムスク)に向けて、ソ連の軍艦から艦砲射撃が始まったが、義父の住んでいた落合(現ドリンスク)にもその轟音は鳴り響いてきたそうだ。真岡ではこのあとすぐ、郵便電信局事件が起きるのである。 その後、落合も爆撃されるようになり、月日は覚えていないがこの町の中で拘束されてしまった。 彼は旋盤の技術が優れていたことから、ソ連軍に抑留されて2年7か月も働かされていた。 婦女子を主体とする引揚船が8月20日、ソ連軍の潜水艦によって撃沈され1700人以上が犠牲になっているが、それに比べれば生きて帰還できたのは嬉しいことだった。 ![]() 戦後の北海道に引き揚げてきた人たちを待っていたのは炭鉱だった。 経済復興のためには重要な産業である。義父はここで坑内夫として働き始めた。 ![]() やがて炭鉱労働組合の執行委員になり、社内で弁論部を立ち上げたりする。 ![]() 現代の労働組合からは想像もできないが、当時はまだ日の丸を背負っていたんだね。 「復興に向けてなにをなすべきか」、「私の夢」、「既成観念を打ち破れ」といった演題が並んでいる。今なら「反戦平和」とか「自民党政治を倒せ」とかになるのだろうが、日本の復興に向けて若者たちが前に進んで行こうとする気概が満ち溢れていたようだ。 (つづく) ![]() |
次回くらいでラーメンネタでも出てきますかね(笑)
一人で街に繰り出すことがなかなか難しかったので、
ラーメンは無しでした。
残念……