エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

写経(一)

2015年10月20日 | 雑感

2008年記

               

 

毎年、夏になると家内と一緒に、写経をするのを楽しみにしていた。

場所は京都の西にある落ち着いた寺で、写経場は広い池に面しており池から気持ちのいい風が入ってくるのを我々はいたく気に入っていた。

 まず、般若心経の字がうすく書かれた用紙を500円で買う。ここにはいつも同じ尼さんがいる。血色のよいつやつやした顔の中年女性だ。

この用紙をもって隣の写経場の入口で匂いのいい粉で手を清め、仏様の前に座り合掌する。そして写経台に座りこころを落ち着けて、「摩訶般若波羅密多心経」以下の薄い字をなぞってゆく。

 

これは簡単そうにみえて、なかなか難しい。わたしは筆など普段は持たない、手がこわばっている、眼がかすんでいる。家内とはちがってがたがたの、さまにならない字が連なるが仕方ない。

約40分ほどで写経は終わる。住所、氏名、年齢、願い事を書く欄があり、それらを記入して完了。これを仏様の前のお香の煙にかざし、一礼して前の台において、さらに合掌して写経場を退出する。

そして清涼とした気分にあふれて帰宅の途に着くものだった。

 

ある年のことだ。

そのときは夕方近くで、閉店間際というか、「時間ありませんよ」という尼さんに、“急ぎますから”と頼みこんだ。実際、写経をしていたのは二、三人だけで、その人たちも次々と帰り、我々が最後になった。

なんとなくあわただしい気持ちで写経を終え、それでも書き終えた清々しい満足感で写経場を出てゆこうとした。入口のところに彼女がいた。

 我々は「有難うございました」と声をかけて頭をさげた。ところが彼女はまるで見向きもしない。一心不乱にぱらぱらと、多分その日の売り上げだったのだろう、お札を数えている。我々の千円札も入っていたに違いない。

 

 以来あの寺に行かなくなって久しいが、あの時の尼さんの顔はいまでもよく憶えている。