エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

竜安寺石庭(その一・雨の日)

2015年10月18日 | 雑感

2014年6月26日

 

竜安寺石庭に行った。

ここには、屈託することがあったときによく来る。ただぼんやり座る、気持ちがいい。

人観光客と修学旅行生がすごく多かった。

 

空模様があやしくなって、

“雨が降るだろうが、同じ降るなら土砂降りの雨だったほうが気持ちいい”と言っていると、ふりだして本格的土砂降りになった。

みな縁側から退いて雨しぶきを避ける。

 

家内が言うには、なにか石の感じが変わってきたような気がする。

               

“坊さんが少しずつかじってるのかな” と、わたし右手奥の頂上が少しかけた岩を見て、くだらない冗談をいう。 (最初の写真。縁下の溝は激しい雨で ざわざわとあふれかえっている)

 

遠い昔、国語の実力テストに出題されていた井上 靖の“石庭”という詩が高校生の彼女を石庭にいざなうきっかけとなり、以来幾度となく家内が行くこの庭に、私もまた行くようになった。 

 石の様子が変わったことについて、単なる気のせいという私のことばに、“いや、そうではない、あの石も、あの石も、なにかちがう”

と言いながら

「それにしてもわたしたちみな、配置された石の位置を強制的に見さされてることになるのよね?・・・」と言い出した。

 “はあ?!”

家内はさらに続ける。“私らはこれを絶対と思っている。完全な美の世界としてね。だけど、たとえば、あの石をこっち側に置いて、この石とあの石を入れ替えて、それから、こうして、ああして・・・・、そうなっても、私らはそれに満足して見るのではないか。”

私はなんとなく理解した。

 

 二番目の写真は私の父の長年の友達で画家だった人が40年ほど前に描いた石庭の絵だ。

どういう風に描いているのかとおもって、以前、持っていったのだが、決定的に違う点がある。

父の友人が描いた絵の土壁の屋根は瓦だが、今は板葺の屋根になっている。78年以降瓦から板葺になったとのことだ。

このことについて、今回の家内の言葉から再度思いだした。絶対的なもの、そして悠久とはなんだろう。

                    

 雨はまだやまない。もう1時間以上降っている。時に激しく、ひさしをつたって前の石に跳ね返る様は興があって何とも面白い。

もっとも最初は喜んでいても、観光客は雨で捕虜になった人質のようだ。

 激しく降る雨の石庭は初めてだった。今日の石庭はいろいろと想念が浮かび上がって、これもひとえに雨の    おかげだろう。

  

                   『石 庭         井上 靖

     

     むかし、白い砂の上に十四個の石を運び、きびしい布石を考えた人間があった。

     老人か若い庭師か、その生活も人となりも知らない。

     だが、その草を、樹を、苔を否定し、冷たい石のおもてばかり見つめて立った、

     ああその落莫たる精神。

     ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰がいひ始めたのであらう。

     ひとはいつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りに小さきを思はされ、慰められ、暖められ、

     そして美しいと錯覚して帰るだけだ。