2014年6月26日
竜安寺石庭に行った。
ここには、屈託することがあったときによく来る。ただぼんやり座る、気持ちがいい。
外人観光客と修学旅行生がすごく多かった。
空模様があやしくなって、
“雨が降るだろうが、同じ降るなら土砂降りの雨だったほうが気持ちいい”と言っていると、ふりだして本格的土砂降りになった。
みな縁側から退いて雨しぶきを避ける。
家内が言うには、なにか石の感じが変わってきたような気がする。
“坊さんが少しずつかじってるのかな” と、わたし右手奥の頂上が少しかけた岩を見て、くだらない冗談をいう。 (最初の写真。縁下の溝は激しい雨で ざわざわとあふれかえっている)
遠い昔、国語の実力テストに出題されていた井上 靖の“石庭”という詩が高校生の彼女を石庭にいざなうきっかけとなり、以来幾度となく家内が行くこの庭に、私もまた行くようになった。
石の様子が変わったことについて、単なる気のせいという私のことばに、“いや、そうではない、あの石も、あの石も、なにかちがう”
と言いながら
「それにしてもわたしたちみな、配置された石の位置を強制的に見さされてることになるのよね?・・・」と言い出した。
“はあ?!”
家内はさらに続ける。“私らはこれを絶対と思っている。完全な美の世界としてね。だけど、たとえば、あの石をこっち側に置いて、この石とあの石を入れ替えて、それから、こうして、ああして・・・・、そうなっても、私らはそれに満足して見るのではないか。”
私はなんとなく理解した。
二番目の写真は私の父の長年の友達で画家だった人が40年ほど前に描いた石庭の絵だ。
どういう風に描いているのかとおもって、以前、持っていったのだが、決定的に違う点がある。
父の友人が描いた絵の土壁の屋根は瓦だが、今は板葺の屋根になっている。78年以降瓦から板葺になったとのことだ。
このことについて、今回の家内の言葉から再度思いだした。絶対的なもの、そして悠久とはなんだろう。
雨はまだやまない。もう1時間以上降っている。時に激しく、ひさしをつたって前の石に跳ね返る様は興があって何とも面白い。
もっとも最初は喜んでいても、観光客は雨で捕虜になった人質のようだ。
激しく降る雨の石庭は初めてだった。今日の石庭はいろいろと想念が浮かび上がって、これもひとえに雨の おかげだろう。
『石 庭』 井上 靖
むかし、白い砂の上に十四個の石を運び、きびしい布石を考えた人間があった。
老人か若い庭師か、その生活も人となりも知らない。
だが、その草を、樹を、苔を否定し、冷たい石のおもてばかり見つめて立った、
ああその落莫たる精神。
ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰がいひ始めたのであらう。
ひとはいつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りに小さきを思はされ、慰められ、暖められ、
そして美しいと錯覚して帰るだけだ。