2016年9月7日
蕎麦屋では私はもっぱらざるそば(せいろそば)をとる。 京都では河道屋と尾張屋が老舗だが、私は尾張屋の蕎麦のほうが好きだ。
さて、Sという麺類専門の店がある。 うどん、蕎麦とも品数が多くそこそこ人気のある店で、ここの蕎麦は尾張屋のそれと似ているので私は家内とよく行く。
2か月ほど前友人のTとMと3人で行った。昼時だったので、とりわけ混んでいて中でかなり待ってやっと席にありつけた。
私はざるそばと決めているし、Mもざるそばだった。ところが“蕎麦が出てしまってうどんしかない”と店の人が言う。仕方なく3人とも冷やしうどんを注文した。
暑い日だったのでそれもおいしかったが、私は釈然としなかった。蕎麦を目当てにきている人もたくさんいるはずだ、なぜ待っているあいだに蕎麦品切れのアナウンスがなかったのだ。
勘定を払う時に、“なぜうどんしかないことを言わなかったのか”とレジのおばさんに言ったら、「だから暖簾を下ろしています」という返事が返ってきた。
待っている間に暖簾を取り込んでいるのが見えて何をしているのかと思ったのはたしかだ。しかしこのオバサンの接客態度、物の言い方が私は以前から気にさわっていた。
この店の入口は大きい自動ドアだ。内側にもう一つ手動のガラス戸がある。勘定を終わって外にでてみたらたしかに暖簾はとっぱらわれてはいる。が、自動ドアは大きく開きっぱなしになっていて手動ガラス戸越しに店内で待っている人たちが見える。
“暖簾を下ろす”というのは、その日の営業をやめるという意味もあるが、不振で店をたたむという意味もある。言葉として私などは後者の意味合いのほうが感覚に馴染んでいる。だからオバサンの言葉に“ええっ?どういうこと”とひっかかった。
暖簾はないが、入口戸を大きく開けて客を入れるから店をたたむのでも営業終了でもない。“蕎麦が売り切れましたから、うどんだけでよろしいか”という張り紙が出ていれば問題はない。しかし中に入ってさんざん待たされたあげく、“うどんだけです”というのであれば文句の一つも言いたくなる。
もっとも鷹揚なMとTはこのことにあまり頓着していなかったが、彼らは私ほど麺類に執着してはいないからだ。
しかしこの店の商売のやり方はどう考えても気に入らない。
入口に“蕎麦売り切れ”の張り紙さえ出せばいい。「暖簾を下ろした」のなら自動ドアを開放にせずに“営業は終了しました”の張り紙を貼るべきだ。
食は気分と連動する。あれ以来私はS店で蕎麦を食う気が心底しなくなった。
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