本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

愛してくれてありがと

2007年12月12日 14時36分27秒 | 心についてのあれこれ
2,3日前から風邪を引いてしまった
初めは喉が痛くて
昨日の夜から体全体に風邪が広がった感じ
今日はさすがにダウンして
朝から布団でお休み

ちょっと寂しいかな、と思ったら
あちこちからメッセージ

どうして分かったの
どうもありがとう
愛してくれてるのね

どうもありがとう
愛してくれて
とっても幸せよ

宇宙よ周りの人を通して私を愛してくださっていることに
感謝します

本当の自分

2007年12月12日 12時26分13秒 | 心についてのあれこれ
最近よく考える
私ってどんなに本当の自分から遠ざかってしまったんだろう、と
何かの折に、本当の自分の気持ちに嘘をついて生きていたことに気づく

嬉しい
悲しい
楽しい
悔しい

こんなことはイヤだ、と思っていても、笑顔を作ってしまっている自分
楽しい、嬉しいと心では思っていても、人目を気にして素直になれない自分

なんのために自分を偽ってる?
社会のため?周りの人のため?
でも、自分を偽っていて、それが本当に人のためになっているんだろうか

自分に正直になったら、人のためにはならないんだろうか

私を好きな人は、偽りの私を好いてくれているんだろうか

私が自分に正直なったら、人は私を嫌うのだろうか

イヤなことはイヤと言ってはいけないのだろうか

他人に受け入れられるものしか好きになってはいけないのだろうか


子供の頃、私は自分を完璧だと思っていた
成長するにつれ、その自分から少しずつ離れていくのに気がついていた
経験を積んで大人になっていくのに、どうして過去の幼い自分が理想の姿だったと思うのだろうかといぶかしく思っていた

それは子供の頃の自分が本当の私の姿だったからなのね
子供の頃の私が真実の私の姿だったからなのね

その姿は美しいものだったと思う
今の大人の私が思うほど、幼くもなく、弱くもなかった

本当の自分
それを取り戻せたら

いいえ、取り戻そう

怒りの行き先

2007年10月29日 14時11分23秒 | 心についてのあれこれ
先日書いたブログですが、少し感情的だったかな、と反省したので消去させてもらました。

私はそれこそ不完全な人間なので、よく怒ったり、不平不満を言いたくなったりするのでありますが、現在は、怒りの感情について、研究中なのであります。
楽しい、嬉しい、喜びなどは、一般に良いものとされるため、それを表すのに抵抗を感じにくい感情ですが、怒りや悲しみ、苦しみなどの感情は表出させるのに躊躇があります。
ただ、そういった感情をなきもののように無視したり、いけないものとして抑圧してしまうと、別のときに違う形で出てきたり、体の中にネガティブなエネルギーとして滞ってしまったりするということを学習したので、感情が湧き上がってきたら、できるだけ無理に押さえつけたりしないように、と心がけています。心がけてはいるのですが、私が特に扱いがやっかいだな、と感じているのは「怒り」の感情です。

「怒り」をそのまま他人にぶつけてしまうとはた迷惑だし、かと言ってそれを無理に押さえつけようとすると、自分の力がだんだん削がれてしまい、自分が弱くなるのを感じます。私の怒りの感情はとても激しく、瞬間的に膨れ上がるので、対処するのがやっかいだな、と感じています。

マーク・サーストンとクリストファー・フェイゼルという人が書いた「エドガー・ケイシーに学ぶ 幸せの法則 」という本があって、とてもいい本です。

エドガー・ケイシーについてちょっとご説明しますと、彼は1877年から1945年の間に生きた、言わばリーディング(霊的透視)の元祖のような人であります。
彼は、高い教育を受けた人ではありませんでしたが、24歳のときに突然、8年しか受けたことのなかった教育をはるかに超えた知識の源泉につながる能力があることを発見します。そして、病気で苦しんでいる人々に治療法のアドバイスを次々と与え、そのリーディングによるアドバイスによってたくさんの人の病気を治癒させた、という人です。

前述の本「幸せの法則」は、エドガー・ケイシーが与えたアドバイスを元に、人はどう生きていったら良いのか、という考察が書かれた本です。
ごくごくよく見られる、人間はこうするべきだ、とかいった説教くさい本ではなく、節制するにしても、極端になりすぎず、その中間点を見つけることが大事、と説く非常に愛に溢れた本なのですが、その中に、怒りについての記述があります。

ちょっと引用しますと....

「偽善的な行為や方向の誤った理想は彼女(エドガー・ケイシーのところに相談に来た女性)の中に「正しい怒り」の感情を生み出していました。リーディングでは、この性格を励まし、彼女は怒りを感じてもいいし、罪でもない、と述べています。言葉を変えれば、正しい怒りは美徳であるということです。
ついでケイシーは、この人物を透視的に分析し、「腹を立てない人物は非常に弱い、しかし、怒りをコントロールできない人物はもっと悪い」と言い切りました。この結論は意外な展開です。確かに私たちも、怒りをコントロールできない人は、その感情のある部分を癒す必要があることに同意します。しかし、「怒りの感情が欠如していることも同じく問題だ」という議論は奇異に感じられるかも知れません。実際、多くの霊的な伝統では、怒りを霊的成長の障害だと考える傾向があるからです。内的な平和が人間の目的であるため、ある種の静かな充足感が目標であり怒りや欲望を知らない冷静な平安が、唯一の至福の喜びであると、私たちはしばしば思い込んでいます。しかし、そのような前提は本当に現実的なものかどうか、人間に与えられた性質である怒りを抑えることが、本当に適切なのかどうかが問題です。」

ううん、なるほど~、と思いませんか。
「怒り」という感情は必要があって天から人間に与えられている感情なのだから、内的な心の平安を得る、という目的を追求するあまり、無理にそれを抑圧することは適切でなない、というのです。

私の場合、以前仕事をしていたときはよく怒っていたのですが、それをあまり良くないものと思っていたので、怒った後はよく落ち込んだり、罪の意識を感じたりしていました。
でも、なんだ、怒ってもいいんだ、というのが、この本を読んで腑に落ちたのでありました。怒っても、それを無理に押さえ込んだり、溜め込んだりしなければ、一過性のものなので、通り過ぎて行ってしまうものなのです。

問題は、怒りの表出の仕方ですな。それについては、まだまだ研究中。
でも、最近は、ポコポコと怒っていても、意外と周りの人が受け止めてくれている、というのが分かって、これも、なんだか意外な発見。

人生とは、まだまだ面白いものですな。

人魚姫 2

2007年10月05日 23時55分22秒 | 心についてのあれこれ
例の人魚姫と一緒に暮らすことになった今日この頃、彼女はとても大人しく私のハートの中におさまっているようです。
しかし、この人魚姫にからんだテーマに出会うことが多くなってきました。

今日の昼間、ふっとテレビをつけると、教育テレビで森鴎外の「舞姫」のあらすじの紹介をやっていました。そう、明治時代、ドイツに留学した太田豊太郎という日本人の青年が、エリスという貧しい美少女と恋に落ちますが、エリスとの交際を職場の上司に反対され失職、その後エリスと同棲し、エリスは妊娠しますが、結局豊太郎は復職の話しを断れず、エリスを捨てて日本に帰る、というお話しで、森鴎外の実際の話を元に書かれたとも言われている小説です。

その番組を見ながら、涙がポロリ、ポロリ... あらら、人魚姫が泣き出したみたいです。そうねえ、エリスは人魚姫と境遇がよく似ているものねえ...
その番組が終わってチャンネルを変えたら、CMに人魚が登場。まあまあ。

今日の午後はスペイン語のレッスンの後、春にボディワークショップで知り合ったお友達とビオダンサというダンスのクラスに行く予定でした。
クラスの前、更衣室で着替えながら彼女とおしゃべりしている時、突然彼女から「人魚」の話しが出てきてビックリ。
あれ?彼女に私のブログのこと、教えてなかったよね?じゃ、これって全くの偶然なんだ。う~ん、すごい...

彼女に私の人魚姫の話をしたら、彼女はとてもよく理解してくれました。

多くの女性の心の中に、人魚姫がいると思います。
悲しい、報われなかった恋の悲しみ、痛み、苦しみ...
とってもキレイで純粋な心を持った人魚姫がしくしくと泣いている。

人魚姫のお話しを聞いたのはうん十年も前なので、うろ覚えなのですが、確か最後はこんな話しだったかな。

魔女に人間にしてくれるようお願いしたとき、「もしもお前が王子の心を射止められなかったら、お前は泡になってしまうんだからね」と人魚姫は言われます。
しかし、残酷なことに、王子は別の女性を恋してしまいます。人魚姫の命を助けようとして海から来た人魚姫の友達は、彼女に短剣を渡し、王子を殺せば彼女は泡にならなくても済むと告げます。人魚姫は王子を殺そうとするのですが、最後にはやはり愛する人を手にかけることができずに、泡となって消えてしまう...

悲しいお話しです。


私の中の人魚姫が癒されるにはもうちょっと時間がかかるかな...

人魚姫

2007年10月02日 12時00分03秒 | 心についてのあれこれ
つい先日、なんだか胸が痛くて、ハートの中をのぞいてみたら
それはそれは綺麗なヨーロッパのお姫様のような人が泣いていました。
髪は長い巻き毛、白い薄いベールのようなものを頭に美しく飾って、白い柔らかい布の長い美しいドレスを着ている女性でした。
どうしてこんなに綺麗な人が泣いているのかしら、と思って、「どうして泣いているの?」と尋ねたら、「選ばれなかった、愛されなかった悲しみ」と答えました。

彼女は愛する男性から選ばれなかった、愛されなかった悲しみから泣いているのでした。
私は「まあ、でも、こんなに綺麗で優しげな人なんだもの、愛されなかったのはこの人のせいではないわ」と思い、女の人を慰めました。

その女の人は泣いている顔を上げて少し嬉しそうにして、私たちは抱き合い、それからその女の人と心の中の私は一つになったようですが、彼女は消えずに私の胸の中に住んでいるようです。

昨日透視者の人にみてもらったら、「その女性は私には人魚姫みたいに見えるわね。彼女に聞いても、あなたと一緒にいたい、どこへも行きたくないと言っているから、しばらく彼女と共存してみたらどうかしらね?」

というわけで、しばらく彼女と一緒に暮らすことになりました。

なんだかバリに呼ばれているようです

2007年08月11日 00時56分00秒 | 心についてのあれこれ
私は一度もバリ島に行ったことがありません。
その素晴らしさは友人などからいろいろ聞くので、一度は行きたいな~、と思いつつ、なんだかついつい行かないままになっていました。

でも、なんだか今バリに呼ばれているみたいです。
そう、きっかけは7月の終わりに手に入れたバリ製の音叉なのかな~。
伊豆のエステティシャンの方に以前音叉を使った調整法をしていただいて、すごく良かったので、自分でも手に入れてやってみたくなったのでした。

体の調子を整えるのにも即効性があるというお墨つきもあったので、エステティシャン向けのグッズを販売している会社のHPから注文したのでした。
ちょっと私には高価なものだったので一瞬ひるんだのですが、最近は自分自身のケアのためにエイヤ~と清水の舞台から飛び降りる回数も多くなって来たので、今回もすぐ飛び降りました

それは、バリの模様があしらわれた蓋がついたステキな箱に入っていて、木製の台に鉄製の棒状の音叉が結び付けられてる代物でした。
付属の木製の叩き棒(木琴をたたくようなカンジの先端が丸くなっているもの)で叩くとリ~~ンという気持ちの良い深い音がゆっくり周りの空気に広がって行きます。
実はそのブツには説明書が何もなかったので、はじめは使い方がよく分からなかったのでありますが、スピリチュアルの先生にお聞きし、今や使い方もバッチリです!!

そして、今日は久しぶりに以前よく行っていた心理カウンセラーの先生のところに行く日でした。ここのところやっぱり両親のことで少し精神的にまいってしまっていたので、カウンセリングの予約を取ったのであります。
久しぶりのカウンセリングはとっても良くって、精神的にだいぶ楽になりました。
そうしたら、最後にカウンセラーの方に、「バリ旅行をうちで10月に主催するのだけど、一緒に行かない?」と誘われたのです。始めは、はあ、そうですね~、ぼ~っという感じだったのですが、帰りの電車の中でパンフレットを読んでいたら、なんだかとっても行きたくなって来ました。そして、なんだか、バリに呼ばれている気さえし始めました。

そうよ、行こう、バリに行こう!きっと楽しいに違いない。マッサージやバリ舞踊や音楽、バリの神秘的な自然。
朝はカウンセラーの先生が海岸で気功を教えてくれるらしい。オプションでヨガやメディテーション、バリ伝統医術師による治療もあるらしい。
ああ、もう行くわ、絶対行こう!

そして、家に帰ってきてからハッと思い出しました。最近ずっとつけてる夢日記。7月24日のところに、「バリ旅行10日間の旅2名様!に当選した夢を見た!」と書いてありました。

やっぱりバリが私を呼んでいる。

あ、パートナー殿に言わなくっちゃ。

父の入院

2007年08月07日 10時55分48秒 | 心についてのあれこれ
父が入院して一週間になります。
8月1日の朝発熱し一人で立ち上がれなくなったので母が救急車を呼んだのでした。
どうやら歯の膿が体の中に入ってしまい、熱がでて、白血球の数がものすごく増えてしまったとのこと。
結果としては、そんなに深刻な事態にならずにすんだのですが、入院の間、何しろ父は認知症で徘徊のおそれがあるため、夜も付き添いが必要な日がありました。
どうやらまもなく退院できるようなので、とりあえず少し安心です。

でも、今回は父の入院で、またいろいろ学ぶことがありました。
父が認知症になる前、父と私はほとんど会話がありませんでした。
父は大正生まれ、私とは40以上も歳が離れています。無口な人で、神経質で口やかましく、コントロールの強い母にいつも圧倒されている、という感じでした。
私はそんな父が理解できなくて、母の攻撃から私をかばってくれない情けない父、と見ていた時期もかなり長かったと思います。

そんな父ですが、認知症になってからは、私に会うと、以前は言わなかったような言葉が飛び出すようになりました。「お前は性格はいいんだからな、自信を持って」とか、「お前はよくやってるよ。」など。どうしてそんな言葉が飛び出すのか分かりません。

今回の入院では、父の長所をまたいろいろ発見しました。
父は、他の患者さんと比べても、普段はとても穏やかです。半分はもう別の世界に行ってしまっているからか、時々は仏様のように見えるときもあります。

ただ、目の前で私と母が口論したり、イライラしている人が周りにいると、それが父にも伝染してしまうようで、目に見えて機嫌が悪くなるのが分かります。
すると私は、「ああ、いけない、いけない、父の前では平静な気持ちでいなくては」と思うのです。

他界した私の祖母は、寝たきりになって認知症になってから子供のようになってしまい、よく周りの人にわがままを言っていました。でも、それに比べると父はたいそう穏やかで、子供がえりもせず、大人としての品格を保っているようであります。管理が楽だからとオムツで済ませようとする周りに対して、オムツで用を足すのをよしとせず、歩けるようになると断固として自分でトイレに行こうとします。
看護婦さんにも、年長者としてねぎらいの言葉をかけます。若い可愛い看護婦さんに話しかけられるとニコニコと嬉しそうにし、「どうもお世話になります」とか、「ご苦労」と声をかけたりするのです。

食事のときには周りに人がいると、「オレはいいから、あなたが食べなさい」などと言ったりし、私には「お前、お金は大丈夫か、お金がなかったらお父さんがお前にやるからな」と言ったりします。

ああ、こんな父の美点を、私は長い間分からずに来たのかも知れないな、と思いました。

こんなふうに病院で父に付き添って、父の意外な面を発見することは、父から私への最後のプレゼントなのかもしれない、とも思います。


伊豆へ!!

2007年07月26日 02時17分48秒 | 心についてのあれこれ
先週の金曜から日曜日にかけて、パートナー殿と一緒に伊豆に旅行に行って来ました。
2泊3日の旅でしたが、これ以上ない、というくらい、内容の濃い旅でした。

役(えん)の行者の修行場だったという葛城山や地元の人の地道な活動により守り抜かれた柿田川公園など、伊豆の自然もたいそうステキだったのでありますが、精神的にもまた、たいそう勉強になる旅でした。

今回勉強したことは、何事もバランスが大切、ということ。
必要なものを入れないで出すことにのみ専念してしまう人。
吐き出す必要のあるものを出さないで溜め込んでしまう人。

でも、必要なものはとり入れて、必要ないものは捨て去ることにより、エネルギーは流れて行くんですよね。

日本には完璧主義者が多そうだから、アーティストタイプにはちょっと辛いかもな~(と思うのは私だけかしらん)。

あら、なんか支離滅裂なブログで失礼します。

有意義な旅をどうもありがとうございました。
心から感謝いたします


追記 今また浮かんできました。今回勉強したこと2つ目。
人のことは、その人の真実を聞くまでは、はた目からは本当のことは分からないんだな~、ということ。

怒り期間中

2007年07月19日 23時42分15秒 | 心についてのあれこれ
ここのところ、自宅で友人を招待してパーティをしたり、楽しいことが続いていたはずなのですが....

月一回の心を癒すはずのワークショップに参加した後に、調子が悪くなることが多いことに気がつきました。ワークショップの前には精神的に非常に調子が良かったのに、ワークショップが終わる頃にはなんだか調子が崩れて。

例のエニアグラムにおいて、私はタイプ4、無意識のうちに誇りにしていることは
「私は多くの人とは違う」ということだそうです。
ま、そうかも知れない。それはいいでしょう。
悪い状態になると、「理解されない」という思いで、衝動的な行動をとって周囲を驚愕させたり、鬱におちこんだり、薬物中毒になったり、引きこもりや心中を企てるのだそうで。そして、タイプ4の激情としては、'羨望'がついて回るのだそうです。

でも、待てよ、と。私はそこまで極端じゃない。そんな傾向はあるのは認めるけれど、長い間そんな自分とつきあって、バランスを取りながらなんとか生きのびてきました。そんな自負はあります。
そして、タイプ4らしく、「なんだ、このワークショップでもやっぱり理解されないんだわ」という思いがモヤモヤと心の中につのってしまいました。
主催の人の対応の中で、私のインナーチャイルドを刺激する部分もあって。
子供の頃に、周りの大人から理解されなくて辛い思いをした思い出ともダブって。

ワークショップ後、なんだかムッとした気分になってしまいました。

このところずっと調子が良かったというのに、私はどうしてわざわざこんなことしてるんだったっけ。


アーティストのごとく

2007年07月06日 02時09分10秒 | 心についてのあれこれ
去年の6月に、透視者の人にリーディングをしてもらったとき、「あなたは、いわゆる変りダネなのよ。」と言われ、驚いた。
私は今まで自分を変りダネと思ったことはなかったので。

今年、透視者の人のワークショップで、エニアグラムを習い始めて分かったことは、私は「タイプ4」というカテゴリーに入るらしいということ。
それによれば、世界にただ一人のユニークな自分でありたい、と願い、美意識を大事にする芸術家タイプ、であるらしい。
それにも驚いた。私は今まで自分を常識的な人間であると思っていて、芸術家タイプだと思ったことはなかったので。

でもまあ、歌も始めたことだし、芸術家タイプだというなら、それもまんざら悪くないんじゃないかと思って、受け入れることにした。
そして、芸術家タイプになったつもりで生きてみることにした。

すると、今まで他人と違う価値観を持っていると分かったときに感じた違和感、罪悪感、疎外感が、気にならなくなってきた。
アーティストだったら、他人と違う価値観を持っていて当然、その方がいいに決まってる、と考えるようになってきた。そしてすごく楽になってきた。周りに無理に合わせなくていいんだわ。
みんながやってるから、義理だから、という理由で気がすすまないことをやるのはヤメにした。
思ったことは素直に口に出すことにした。(もちろん人を傷つけたりしないように気をつけてはいるけれど)

そして最近は、どんどん力が戻ってきているのを感じている。
今まで自分らしさを抑えていたために奪われていたエネルギーが戻ってきたようだ。

この「アーティストだから」という口実はとても便利で、どんな私にもなれそうな気がする。アーティストなんだから、と思えば、歌にせよ、日常生活にせよ、人間関係にせよ、新たな創造にチャレンジできそうな気がする。

まだ他の人に「私はアーティストです」と言うのはためらわれるけれど、自分の中でこの「アーティストごっこ」を楽しんでいます。