2022年12月15日、県埋蔵文化財センター主催で沖縄市字大工廻八所(だくじゃくはやとぅくる-)集落跡発掘調査現地説明会が行われた。同説明会は2日間延べ5回に渡って行われた。同地区は戦後米軍施設管理地区内となり戦前の建物跡が残っており2022年6月から発掘調査が進められ2023年2月の調査終了予定。
同集落は屋取(やーどぅい)集落で、廃藩置県後に首里近郊から同地域へやって来た士族の人々が、大工廻集落の一部を開墾してできた集落である。開墾した土地にまず、8つの世帯が住むようになったことから「八所」と呼ばれるようになった。屋敷地区以外は畑として利用され、集落の左右にはアマリターブックワア―と呼ばれる広い水田があり、サーターヤー(砂糖小屋)も1箇所あって当番制で製糖が行われていた模様。
屋取(やーどぅい)集落のはじまりは、18世紀のはじめ頃、士族階級の人達が農業を行った事から始まる。それより前は、士族階級の人達は首里王府に直接仕えることしか許されていなかった。士族階級が増え、王府に仕えることができなくなる人が多くなって、そのために農業をやっても良いことになった。彼らは農地を求めて首里や那覇を離れて地方へと向かい、地元の人から荒れた土地を借りたり、自ら開墾して農業を行った。そうして彼らは昔からある集落から離れた所に住居を構え、このような拠点が屋取集落となった。
建物は穴屋(アナヤー)と呼ばれる工法で四隅に石柱もしくは丸太柱を建て込みその上に屋根を乗せる工法となっている。母屋の後方には家畜小屋とフール(豚飼育施設)があり屋敷囲いとなる土手が廻りを囲み防風林となる木々の植林がされた作りとなっている。発掘現場からは石で作られたサーター車の一部、食器、ビンシー、指輪、豚の骨、馬蹄など出土されている。
▲母屋跡(写真中央)、その前が馬車道
▲母屋の後方にある家畜小屋跡
▲母屋跡拡大写真。中央の溝は当時の地質層を把握するために十字に掘られている
▲家畜小屋とフール(トイレ)の東側にシーリ(肥溜め)が併設
▲出土した指輪、薬入れビン、ビンシー、食器など
▲豚の骨
▲発掘作業風景(2022年6月~2023年2月予定)
<参考資料>
<2023.1.4 琉球新報記事抜粋>
沖縄農業基幹作物はサトウキビでありますが以前は知花でもほとんどの農地で栽培されていました。しかし、少子高齢化等により現在ではサトウキビを栽培している家庭は少なくなっています。ユイマールで刈り取り作業を行い昼食準備は炊き出しを行っていたものから弁当に変わっていきました。昭和50年代のキビ刈り取り風景を紹介します。
▲東南植物楽園で生き生きと育つアコーの木(2005/12現在)
▲2006年8月13日現在
名称は「アコー」(方言名 ウスク)。
実は現在の知花公民館は建て替えられて25年余になりますが、以前の建物は瓦屋根の建物で事務所、集会場、図書コーナー、湯茶室などがありました。建物の前には広場があり、隣接して大きな階段上になった場所がありました。広場ではエイサー、ウスデークー、字の行事などが行われたりしていました。
▲昭和51年以前の公民館敷地内風景
その階段の最上部には向かって、左側に慰霊塔、中央部分に『アコーの木』、右側に緊急時の際、区民に知らせるための鐘(ガスボンベを再利用して制作)が設置されていました。
前置きが長くなりましたが、この時にあった『アコー』の木を東南植物楽園に寄贈したとのことです。その木が現在同施設で生き生きと育っております。
記憶にある方も多いと思いますが、機会ありましたら、同施設を訪れた際は、探してみてはいかがででしょうか
▲県道側から見た知花公民館
▲昭和51年以前の知花公民館
▲現在の知花公民館(昭和52年6月完成)