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知花ときわ会

知花地域の活動と各地の情報を広く紹介し、情報共有することで地域活性化に繋げようと、このブログを開設しました。

美里尋常高等小学校跡

2024年01月22日 | ★文化財
全間切を学区域とする高等科を併置する美里校としては、美越校時代の校舎の位置が間切りの南に偏して適当でなく、かつ校舎も狭いので移転増築が必要となり、知花と登川との中間にある弁当馬場の隣に位置を決定し、明治36年(1903年)12月に校舎が落成し移転式典を開催。当時の生徒数は男子307人、女子246人、計553人、12学級であった。


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知花焼古窯跡(チバナヤキコヨウアト)

2024年01月22日 | ★文化財
知花橋のすぐ手前(東側)の道を左に折れ、ゆるい坂道を上り切るとその突き当たりは、東側へ折れた道になっている。この折れた道を含めた一帯が知花焼古窯跡である。明確な範囲は分かっていない。現在は住宅密集地に位置している。
住宅もまばらである。知花集落ではかつてこの一帯をさして「壷屋」又は「壷屋の先(チブヤヌサチ)」と呼んでいた。以前よりこの付近から陶器の破片が出土することが知られており、研究者の間ではこの一帯が知花焼古窯跡であることが認識されている。

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グスク御嶽

2024年01月22日 | ★文化財
知花グシクの中腹に位置する。この拝所は知花自治会がチナマチ御願の際や有志たちが1年間の締めを拝むときに訪れる。また、ウガンジュとも呼ばれている。


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ミーヤウタキ(新屋御嶽)

2024年01月22日 | ★文化財
知花グスクの北側に位置する。石灰岩製の祠と香炉があ。この拝所は新屋敷(ミーヤシチ)と呼ばれる人の土地に近いため「ミーヤ御嶽」又は「モウヤマウガン」とも呼ばれている。チナマチ御願でチナ(綱)が巻かれ拝まれている。祝女が集い周辺の御嶽に遥拝(お通し)したという。

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上ヌ殿毛(イーヌトゥヌモー)

2024年01月22日 | ★文化財
知花のカンサジヤーの南西側に位置する。この広場には石製の祠がある。知花と松本の有志たちは、旧暦5月15日(五月ウマチー)と6月15日(六月ウマチー)の行事で拝まれている。【市指定文化財】


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チブルシー(頭石)

2024年01月22日 | ★文化財
いつの頃か不明であるが、村落創建の時に首里王府から派遣された風水師が係わっており、村のフンシー(風水)の中心も知花グシク裾野東側にある石灰岩転石「チブルシー(頭石)」だと謂れもある。

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知花女龍殿内(チバナヌンドゥンチ) (*女龍=祝女)

2024年01月22日 | ★文化財
集落の北方の知花グスクと隣接し樹木がこんもりおい茂った荘厳な森を背景にした場所にある。祝女は神あがめごとにたずさわる神職で、王府から任命され各間切りに配置された。知花祝女は知花、松本、登川、池原の4カ字(戦後)の祭事を司った。祝女殿内には、王府から賜わったという「マガ玉」があったが沖縄戦で惜しくも持ち去られ、現在はレプリカ(複製)が保存されている。
 

▲レプリカの勾玉
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仲大屋(ナーカウフヤ)

2024年01月22日 | ★文化財
仲大屋には仏壇に香炉が二つあり、神棚に香炉が二つある。その他に香炉が一つあるが、これは旧暦6月25日に部落の根屋(ニーヤ)の一つとして拝む。池原、登川、美里あたりにも子孫がいて旧歴5月15日、6月15日(ウマチー)には拝みに来る。

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弁当ウマヰー(弁当馬場)

2024年01月22日 | ★文化財
国道329号「かりゆし通り」入口から約300m先の美さと児童園入口までの「馬場都市緑地」一帯がビントーンマヰー跡である。馬場は全長300m幅50mで毎年陰暦4月のアブシバレー、8月15日には恒例のンマハラシー(馬走り)が行われ、遠くは首里、那覇、中頭各地から200頭余りの名馬が集まった。
ビントーの由来については当時の見物人が弁当箱のような容器は無いので芭蕉の葉っぱ(カーサ)に食べ物を包んでいた。食べ終わったカーサをそこら中に捨てて帰ったためカーサの屑だらけになった。誰言うとなくビントーンマヰー(弁当馬場)と言うようになった。(昭和7年/美里小学校50周年史より)

▲2024.1.22沖縄タイムス記事抜粋
▲2024.1.22琉球新報記事抜粋
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大工廻八所集落跡発掘調査現地説明会開催される

2023年01月04日 | ★文化財

2022年12月15日、県埋蔵文化財センター主催で沖縄市字大工廻八所(だくじゃくはやとぅくる-)集落跡発掘調査現地説明会が行われた。同説明会は2日間延べ5回に渡って行われた。同地区は戦後米軍施設管理地区内となり戦前の建物跡が残っており2022年6月から発掘調査が進められ2023年2月の調査終了予定。

同集落は屋取(やーどぅい)集落で、廃藩置県後に首里近郊から同地域へやって来た士族の人々が、大工廻集落の一部を開墾してできた集落である。開墾した土地にまず、8つの世帯が住むようになったことから「八所」と呼ばれるようになった。屋敷地区以外は畑として利用され、集落の左右にはアマリターブックワア―と呼ばれる広い水田があり、サーターヤー(砂糖小屋)も1箇所あって当番制で製糖が行われていた模様。

屋取(やーどぅい)集落のはじまりは、18世紀のはじめ頃、士族階級の人達が農業を行った事から始まる。それより前は、士族階級の人達は首里王府に直接仕えることしか許されていなかった。士族階級が増え、王府に仕えることができなくなる人が多くなって、そのために農業をやっても良いことになった。彼らは農地を求めて首里や那覇を離れて地方へと向かい、地元の人から荒れた土地を借りたり、自ら開墾して農業を行った。そうして彼らは昔からある集落から離れた所に住居を構え、このような拠点が屋取集落となった。

建物は穴屋(アナヤー)と呼ばれる工法で四隅に石柱もしくは丸太柱を建て込みその上に屋根を乗せる工法となっている。母屋の後方には家畜小屋とフール(豚飼育施設)があり屋敷囲いとなる土手が廻りを囲み防風林となる木々の植林がされた作りとなっている。発掘現場からは石で作られたサーター車の一部、食器、ビンシー、指輪、豚の骨、馬蹄など出土されている。

 
▲母屋跡(写真中央)、その前が馬車道


▲母屋の後方にある家畜小屋跡


▲母屋跡拡大写真。中央の溝は当時の地質層を把握するために十字に掘られている


▲家畜小屋とフール(トイレ)の東側にシーリ(肥溜め)が併設


▲出土した指輪、薬入れビン、ビンシー、食器など


▲豚の骨


▲発掘作業風景(2022年6月~2023年2月予定)

<参考資料>

<2023.1.4 琉球新報記事抜粋>

 

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知花城から見た風景

2015年10月27日 | ★文化財

昭和54年頃の知花城から眺めた知花の風景

パイプラインの道路(知花城前から池武当向け)




白道(シルミチャー/旧パイプライン道路)での記念撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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さとうきび刈取り風景

2015年10月27日 | ★文化財

沖縄農業基幹作物はサトウキビでありますが以前は知花でもほとんどの農地で栽培されていました。しかし、少子高齢化等により現在ではサトウキビを栽培している家庭は少なくなっています。ユイマールで刈り取り作業を行い昼食準備は炊き出しを行っていたものから弁当に変わっていきました。昭和50年代のキビ刈り取り風景を紹介します。














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この木に見覚えありませんか?

2006年08月13日 | ★文化財
この木に見覚えありませんか


 ▲東南植物楽園で生き生きと育つアコーの木(2005/12現在)


 ▲2006年8月13日現在




名称は「アコー」(方言名 ウスク)。
実は現在の知花公民館は建て替えられて25年余になりますが、以前の建物は瓦屋根の建物で事務所、集会場、図書コーナー、湯茶室などがありました。建物の前には広場があり、隣接して大きな階段上になった場所がありました。広場ではエイサー、ウスデークー、字の行事などが行われたりしていました。


▲昭和51年以前の公民館敷地内風景

その階段の最上部には向かって、左側に慰霊塔、中央部分に『アコーの木』、右側に緊急時の際、区民に知らせるための鐘(ガスボンベを再利用して制作)が設置されていました。

前置きが長くなりましたが、この時にあった『アコー』の木を東南植物楽園に寄贈したとのことです。その木が現在同施設で生き生きと育っております。

記憶にある方も多いと思いますが、機会ありましたら、同施設を訪れた際は、探してみてはいかがででしょうか 

 ▲県道側から見た知花公民館


 ▲昭和51年以前の知花公民館


 ▲現在の知花公民館(昭和52年6月完成)
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アガリガー (井泉1)

2006年03月24日 | ★文化財

字知花知花原、美里中学校の西側約100メートル、個人住宅地内にある。アガリガーは知花の村建て以来、水質は余り良くなかったが村人の生活用水の重要な供給源であった。そればかりでなく、子供が産まれて名前をつける、いわゆる「ナージキー」の時にはそこから水を汲んできて名前をつけるという大事なウブガーであり、また祭りの時に出す「シーシガナシー」の顔もここから汲んだ水で拭いて清めるという神聖なカーであった。旧暦の8月14日の行事で拝んでいた。


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ユナガー (井泉2)

2006年03月24日 | ★文化財

字知花後原、国道329号線を知花城址向けに7~80メートルほど行った所の右手、知花に隣接している。
ユナガーは「ヌールガー」とも呼ばれているように、その昔、ノロが使っていたことからその名がついている。また、ユナガーから溢れて下方に流れ出た水溜りは、ノロ(一説に按司人)が手や足を洗うところであったという。知花では「アガリガー」と共に最も神聖な拝所となっている。拝所には「火の神」と形だけの手足洗い場を示すコンクリートの小池も設けられている。知花ノロ殿内の下方に位置する

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