知花子ども会・知花ときわ会

知花子ども会・知花ときわ会の活動と地域の情報を広く紹介、情報共有することで地域活性化を目的に、このブログを開設しました。

沖縄の年中行事【1月・2月】

2023年01月04日 | ★歴史・伝統・文化

【2022.12月】
▼ムーチー(鬼餅) 
 (旧暦12戸8日) 12月30日(金)

 ムーチー・師走ムーチー・ウニムッチー・ムーチー折目(おり)などとも呼ぶ。石臼でひいた糯(もち)米(ごめ)の粉を練り、幅5~6cm、長さ12cmくらいに平たくのばし、ゲットゥクハ月(ゲッ)桃(トウ)(サンニン)や蒲(く)葵(バ)の葉に包んで蒸した餅(ムーチー)を、神棚や仏壇、かまどなどに供え、家族特に子どもの健康を祈願する。芋・麦(ンナムジ)・唐黍(トーヌチン)などを米粉にまぜた餅もある。また蒲葵(クバ)の葉で包んだ特大の餅を力餅とよび、神饌(しんせん)に供したり、男の子だけに与える。子どものいる家庭では、その子の年の数だけ餅を縄に結んでつるしたのを、サギムーテーといい、5歳以下の子の分は束ねて天井からつるしたのでジュークンジャーともいった。年内に子どもの生まれた家では初(ハチ)ムーチーを祝い、親類や近所に配る。この枡目が定日になったのは、尚敬23(1735)年から。

【御髪する対象】ヒヌカン・ト一卜-メー
【お供え物】ムーチー、線香12本3本

 

地域で異なるムーチーの日取り

現在、沖縄で発行されるカレンダーや手帳には、ムーチーは「旧暦12月8日」と記載されるが、西原町や中城村、北中城村の一部など沖縄本島中部の東海岸沿いを中心に、これより1日早い12月7日に行う地域が多くみられる。また、うるま市の与勝半島一帯では、12月1日がムーチーとなっている。

西原町一帯では、ムーチーを7日に行う由来について、かつては町内池田の山中に葬られた豪傑、御茶多理真五郎(ウチャタイマグラー)の霊が、ウユミシチビ(年中行事)のたびに村々に出没して各家庭の供物を盗み食いし、腐らせたことから、これを出し抜くために他の地域より1日早く済ませるようになったとの伝承が残されている。

琉球の正史『球陽』の巻13、尚敬王代の1735年の記事に「年浴・柴指・鬼餅等の日を改定す」と題するものがあり、これによると、ムーチーはもともと12月の庚子、庚午の日に行われていたが、1735年以降は「十二月初八日」、すなわち12月8日に定めたとある。つまりそれ以前は、庚子、庚午という干支により日取りされ、12月の何日に行うかは年ごとに異なっていたのである。今なおムーチーの日取りがいくつかに分かれているのも、こうした古い習俗のなごりとも考えられる。

そのほか近年では、金武町や宜野座村一帯など沖縄本島北部を中心に、行事の日付をそのまま新暦に移行し、新暦12月8日に行う地域もあり、ムーチーの日取りはさらにバリエーションを増している。

(文/沖縄国際大学・沖縄大学非常勤講師 稲福政斉)

<2021.1.14ほーむぷらざ記事抜粋>

【1月】

▼ウガンブトゥチ(御願解き)
 (旧暦12月24日) 1月15日(日)

1年間の加護に感謝し、年頭にかけた祈願を解く行事。

 

▼トゥシヌユール(大みそか)
 (旧暦12月29日) 月21日(土)

1年最後の日。豚肉料理と赤飯等の料理を仏前に供えてこの1年間の無事を感謝し、よい年が迎えられることを祈る。トウシヌユールの夕食は家族揃って食べる習わしがあり、各人の食膳にはニンニクの葉を添えて1年の邪気を払う。

【御願する対象】ヒヌカン、トートーメー
【お供え物】ソーキ汁等の豚肉料理、線香12本3本

 ▼旧正月
 
(旧暦1月1日) 1月22日(日)
太陽暦をもとにする新正月は大和正月といい、これに対して旧正月を沖縄正月ともいう。現在でも旧正月主体、もしくは新正月との併用が一部の地域にみられる。それらの地域では、旧正月に正月飾り・若水・年始贈答・お年玉等一連の正月慣行が実施されている。

【御願する対象】ヒヌカン・トートーメー
【お供え物】若木、黄赤白の色紙、ウチャヌク、みかん、炭と昆布

 ▼ハチウクシー(初起し)
 (旧暦1月3日) 1月24日(火)
 年頭に行う仕事始めの儀礼。正月2日か3日に仕事を手がけるまねをする。農家では〈ハチバル〉といい、畑を3度鍬(くわ)で掘り起こし朝のうちに切り上げる。漁民は〈舟起し〉としてサバニに供物をしたり、鰹(かつお)船などでは大漁旗を掲げ、船(ふな)霊(だまり)に年間の安全、豊漁祈願をして祝う。どの職業も本格的な仕事始めは初起しの翌日以降が多い。

【御願する対象】ヒヌカン・トートーメー
【お供え物】花米、酒など、先行12本3本


▼ナンカヌスク(七日節句)
 (旧暦1月7日) 1月28日(土)
各家夕食時に火の神、仏壇に雑炊、汁を供える。地域により祈願目的に相違があり、折目であることを報告するだけ(与那原町板良敷八豊作を乞う(うるま市石川)、正月豚の初七日でその厄を払う(本部町備瀬)など。七日の祝いの料理は豚肉雑炊を供えるところが多いが、那覇市久米のように七草雑炊というところもある。竹富島ではこの日を後生の正月だとして墓地へいくのを込む。読谷村宇座、那覇市泊、うるま市与郵城伊計のようにこの日に正月飾りを取り払うところもある。

【御願する対象】ヒヌカン・トートーメー
【お供え物】雑炊等・線香12本3本

【2月】

▼ジュールクニチー(十六日)
 (旧暦1月16日) 2月16日(水)
元旦を中心とするイチミ(現世)の正月に対し、グソー(後世)の正月とされる祖先供養の行事で、清明祭と並び沖縄の二大墓前祭のひとつとされる。清明祭が盛んな沖縄本島中南部では墓の草刈や清掃を行う程度で済ませる例が多いが、本島北部や宮古・八重山・久米島地域では一族が揃って墓前に集い、重箱料理等を供えて盛大に祖霊を供養する。なお、ミーサ(過去1年以内の死者)のある家庭ではといって年忌等に準ずる儀礼を行う地域も多い。
御願する対象墓・トートーメー
お供え物線香・ウチカビ・重箱料理等


<2019.2.23琉球新報記事抜粋>

▼ハチカソーグワチ(二十日正月)
 (旧暦1月20日) 2月20日(日)
一連の正月行事の締めくくりとされ、正月用として年末に仕込んだスーチカー(豚肉の塩漬)を食べ尽くして容器の甕を洗うという意味で、沖縄本島では<カーミアレー正月>、奄美では<カメサレ><カメバレ>ともいった。
主として沖縄本島中南部、奄美大島の笠利・瀬戸内一帯で行われる行事で、那覇市首里や久米などでは正月飾りを取り払い、火の神や仏壇に田芋煮や大根イリチーを供えた。
又、那覇市辻ではこの日に一連の御願行事とともにジュリ馬行列が行われる。
【御願する対象】ヒヌカン・トートーメー

〈文/沖縄国際大学・沖縄大学非常勤講師・稲福政斉〉
 

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大工廻八所集落跡発掘調査現地説明会開催される

2023年01月04日 | ★文化財

2022年12月15日、県埋蔵文化財センター主催で沖縄市字大工廻八所(だくじゃくはやとぅくる-)集落跡発掘調査現地説明会が行われた。同説明会は2日間延べ5回に渡って行われた。同地区は戦後米軍施設管理地区内となり戦前の建物跡が残っており2022年6月から発掘調査が進められ2023年2月の調査終了予定。

同集落は屋取(やーどぅい)集落で、廃藩置県後に首里近郊から同地域へやって来た士族の人々が、大工廻集落の一部を開墾してできた集落である。開墾した土地にまず、8つの世帯が住むようになったことから「八所」と呼ばれるようになった。屋敷地区以外は畑として利用され、集落の左右にはアマリターブックワア―と呼ばれる広い水田があり、サーターヤー(砂糖小屋)も1箇所あって当番制で製糖が行われていた模様。

屋取(やーどぅい)集落のはじまりは、18世紀のはじめ頃、士族階級の人達が農業を行った事から始まる。それより前は、士族階級の人達は首里王府に直接仕えることしか許されていなかった。士族階級が増え、王府に仕えることができなくなる人が多くなって、そのために農業をやっても良いことになった。彼らは農地を求めて首里や那覇を離れて地方へと向かい、地元の人から荒れた土地を借りたり、自ら開墾して農業を行った。そうして彼らは昔からある集落から離れた所に住居を構え、このような拠点が屋取集落となった。

建物は穴屋(アナヤー)と呼ばれる工法で四隅に石柱もしくは丸太柱を建て込みその上に屋根を乗せる工法となっている。母屋の後方には家畜小屋とフール(豚飼育施設)があり屋敷囲いとなる土手が廻りを囲み防風林となる木々の植林がされた作りとなっている。発掘現場からは石で作られたサーター車の一部、食器、ビンシー、指輪、豚の骨、馬蹄など出土されている。

 
▲母屋跡(写真中央)、その前が馬車道


▲母屋の後方にある家畜小屋跡


▲母屋跡拡大写真。中央の溝は当時の地質層を把握するために十字に掘られている


▲家畜小屋とフール(トイレ)の東側にシーリ(肥溜め)が併設


▲出土した指輪、薬入れビン、ビンシー、食器など


▲豚の骨


▲発掘作業風景(2022年6月~2023年2月予定)

<参考資料>

<2023.1.4 琉球新報記事抜粋>

 

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