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知花ときわ会

知花地域の活動と各地の情報を広く紹介し、情報共有することで地域活性化に繋げようと、このブログを開設しました。

稲のまつり -知花の祭祀と神職- ①

2006年03月16日 | ★歴史・伝統・文化
はじめに
 知花は、コザ市(現沖縄市)から石川市に通じる道に嘉手納町から具志川市方面への道が交差し、地理的な要衝の地として、また知花焼の古窯跡として、さらにその昔は鬼大城(大城賢雄)の終焉の地として知られている。
 
この部落で、数年前ノロ継承をめぐって一悶着があったとはいえ、それとはうらはらに神事は衰微する一方である。それは各門中から出るクディングヮ(単にクデ・オクデとちいう)の後継者が出なくなっている事実を見てもうなずけることである。
1965年から4年間、この部落の旧5月、6月のウマチ-(稲穂祭と稲大祭)を見学したが、その開に神人をやめた者、死亡した者、登川のように二人のウムイシンカを出さないばかりか、一行を部落へ招待することさえ取りやめた例などがあった。
 ここでは考察ではなく、わずかばかりの見聞をもとにした記録にとどめる。

古い家系

 部落には数軒の古い家がある。門中の宗家でムートヤー(元家)と呼ばれるものである。たとえば、屋号オホンダカリ(大村渠。シマチクドンともいう)、シマブク(島袋)、チハナク(津波古)、仲大屋、東ナーカントー、メンナーカなどである。これらの家には、仏壇以外に神御楯があり、そこには二個ないし三個の香炉かおる。

この神御楯は大ムート、中ムートと呼ばれる特定の家にのみあるもので、一つの香炉には二人のクデがいて、これを通して祖神をまつるのである(一つの香炉に一人のクディングワの場合もある)。クデはすべて女性であるが、二人ののち一人は兄弟役のウミキイ神、一方ぱ姉妹役でウミナイ神といい、これを一組の夫婦に見立ててミートゥンダ神と呼ぶ。それは、「33年忌をすませた祖先が、男女のおのおのの二柱の神となり、それぞれを門柱のウナイオクデの二人がまつる」とする説明に合致している。

 クデはほとんど何らかの起縁でなった者である。若い頃頭痛持ちだったとか、産後病気がちだったとかで軽重の差はあれ「神ダーリ」があったようである。あるいは夢に知らせがあったりなどで元家の香炉を拝むようになった例は多い。
 
 クデが拝むべき対象は祖先神であろうが、比嘉政夫氏のいう「ほとんどの場合、それは〈アジシー〉と呼ばれる古い墓であり、各(クディングヮ)は自己の対象の墓の位置をわきまえ、通常本家の神棚にある香炉を通して拝むのである。いいかえれば、ある<ハラ>において、その祖先の墓の数に応じて、神棚に香炉がおかれ、その香炉の数は<ハラ>の<クディングヮ>の数を反映していると考えられる」(「村落の祭祀組織と<ハラ>の祭祀組織-沖縄南部における事例から-」)『日本民俗学会報』三十九号)。というのは中部以北は首里那覇、島尻一帯に比べ「門中」の組織が稀薄であるということ。それはまた幕制とも関連があって、知花部落には門中幕なるものがあるにはあるが、実際には[袖幕」的存在であること。したがって各元家の香炉の数は、必ずしもその祖先の幕の数に一致していないだろうし、図示できるものではない。

 元家を中心に各門中で行う行事としては、3年越し、7年越しと定期的な島尻の東御廻り、首里上り、今帰仁上りや遠くは辺土名へ拝みに行く家もあれば、石川伊波の旧家を拝みに行く家もある。それに5月、6月のウマチー、8、9月のカーメー(古井泉詣)もまた大きな行事に数えられる。
 
 知花は昔北方の山中、福地原という所に部落があったと言われている。それについて次のような言い伝えがある。大村渠、仲大屋、メンナーカの3家の先祖が知花へ来て炭を焼いていた。雨が降り、ワタンジャーを渡れなかったので、この地に家を建てたのが移動の始まりだと。
現在のノロ殿内の周辺に住んでいたが、松本が南の方へ移動し、その後へ移ったのが現在地であるとの説もある。また、鬼大城の最期を遂げた時の話に、知花城の前には7軒の家があって、その家の芽で鬼大城をいぶした話がある。その七軒というのが大村渠であったといい、屋号大村渠はその頃からの屋敷だとしている。
 
 しかし、「南島風土記」によると、美里間切りが知花等15村を越来間切りから割いてできたのが、寛文六(1966)年であるが、その中に大村渠の名は出てこない。後になって「大村渠、満喜世、渡口古謝、桃原の5村を新設し、その後、大村渠、満喜世、2村を廃して松本を置き」とあるからして、前記の7軒の大村渠云々は、時代に大きなずれがあり疑わしい。

二、三の元家は読谷村長浜あたりに子孫を持ち、ウマチーにはクデがやって来た。池原、登川、松本からもクデが出、共通の祖先を拝むのである。大村渠は元家の中でも一番古いとむいわれ、知花、池原、登川、松本に300人ばかり、読谷にまたそれくらいの氏子を有しているといわれる。クデは直接大モトから出ることもあれば、中モトを介してやって来ることもある。読谷や池原に知花屋と呼ばれる中モトがあるなど、この部落との関係を物語るものであろう。クデの中には、遠く伊計島に嫁いだ者がやって来ることもあった。ふつう朔日、十五日も香炉を拝むべきだとしているが、遠い関係で家の者が代行した。クデが元家の各自の香炉を拝む前に火の神をまず先に拝むべきだとしている点も興味深いことである。

 先程、知花の古島、福す原のことを述べたが、カーメーの時いにしえの二つのンブガー(産井)を拝みに行く。もっとも現在は米軍施設内にあるため、ある門中はトゥヌで、ある門中は池原の井戸からそれぞれお通している。仲松弥秀氏の調査によれば、祭のたびにトゥヌで遥拝があった。これによって大昔の村位置を知ることができるという(『神と村』139頁)。
 
 クデについてすま少し述べることにする。後継ぎのクデの出ることを「生れる」といい、その年を基準に誕生祝、三年七年と三三年までの祝いがある。その祝いは元家の神郷棚の前で門中の人々がやる。クデ死亡の時は、葬式を出す前に使いが来てこの家の火の神を拝み、クデの拝んでいた香炉を拝んで魂がのこらないようにまつる。これを「ヌジファ」という。拝む人は酒と花米を持参し、来る時は門から入るが、帰りはこっそり裏口から出ることになっている。そしてよい年を選んでこのクデの年忌祭を門中で行ない、後継者の出るのを待つのである。
 
 クデはまつりの時の神衣裳を各自の元家にあずける。そしてウミナイ神はまつりに参加するという家が大方である。ところが、大村渠では違う。三個の香炉のうち、右側を拝むウミキイ、ウミナイニ人は家に残り、あとの四人はまつりに出ることになっている。四人のうち二人はウミキイなのである。
家に残る二人のことをウヤガニーと呼び、これは「神拝み」に来る氏子と祖神との仲介をする役目である。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年
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稲のまつり -知花の祭祀と神職- ②

2006年03月15日 | ★歴史・伝統・文化
祭場と神職
「琉球国由来記」を見ると、知花にはカナ森、森山嶽、カナヒヤンノ嶽の3つの御嶽があるが、仲松氏によれば、「森山」は単なる森ではなく、久高島のムーヤマと同様「喪山」、つまり古墳地帯を意味するらしく、知花グシクの西北方にある。ヌンドンチの後方の森の御嶽は、ふつう「ニシムイ」または、「ノロウタキ」といわれるが、由来記でいう「カナ森」にあたるか「カナヒヤンノ嶽」のいずれに当たるか詳かでない。

「おもろそうし巻二」中城越来のおもろに次のような「おもろ」がある。
 ちばな、かなくすく (知花金城)
 ちばな、いしくすく (知花石城)
 ももしま、まじうんいしくすく (百々島共に石城)
又けおのゆかるひに (今日のよき日に)
 けおのきやかるひに (今日の輝く日に)
 ちばな、こしたけに (知花こし岳に)
 あんは、かみ、てずら (我は、神をまつらん)
 かみや、あんまぶれ (神は我を守りたまえ)
又ちばな、にしたけに (知花北岳に)
 
これからすると、「かなくすく、いしくすく」は知花城であり、「こしたけ、にしたけ」はヌンドンチ後方のニシムイてあろうとは想像がつく。由来記で神名を池原の「イ、森」も含めて4ケ所とも「イシの御イベ」で片づけているのがあいまいにした原因である。
 
 この御嶽のほかに知花之殿、石城之殿、登川之殿、池原之殿が由来記に出ている。
 「殿」はこのでは「トゥヌ」と発音し、知花グシクの北方ふもと下の方に知花のトゥヌ、上に松本のトゥヌがおる。これは俗に下のトゥヌ、上のトゥヌと呼ばれることもある。由来記の「知花之殿」が「知花地頭云々」が見えるのに対し、「石城之殿」が「大村渠地頭」「大村渠百姓中」とあるのからして、前者は知花トゥヌ、後者は松本ドゥヌであることが容易にうなずける。5、6月のウマチーの時に、この両トゥヌと登川・池原のトゥヌを拝むのである。松本ドゥヌは石の小祠かおるのに対し、知花ドゥヌは何もない。まつりの度にここに「神サギ屋」をにわかにしつらえる。これは「神アシアゲ」を意味する語であろう。


 ▲知花城下方にある「神アサギ」
 
 美里間切には伊波、東恩納、知花、美里の4ノロがいた。そのうち知花ノロの管轄は知花、登川、池原、松本の4である。その下には各家元から出るクデがいるが、から出るウッチヌアンシー、サンナーアンシー(この方は登川)がおり、男神人としてはチハナクの当主が世襲するニッチュがおり、他に8人のウムイシンカがいる。これは男性だけのウムイを謡う人である。
『美里村史』には任期2年とあるが、現在は必ずしも一定していない。ウッチヌアンシー、サンナーアーシーの任期は4年である。そのほか、まつりの時だけから臨時に村アンシーというのが2人出る。これは接待係で、理由は知らぬが、結婚して間もない女性をえらぶことになっている。
 
 ノロやミッチュ、ウッチヌアンシーが部落行事-たとえば虫あそびや12月24日の煤払い、タキメー(嶽詣で)等に関与するのに対し、クデはもっぱら門中の行事にのみ関与する。5、6のウマチーは的な規模で行なわれる行事であるが、同時に門中行事としての性格も濃厚である。クデの下で働くウメーイーやニーブ取りなども同様のことが云える。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年

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稲のまつり -知花の祭祀と神職- ③

2006年03月14日 | ★歴史・伝統・文化
まつりの経過

 まつりは13日の午後ウンサク(神酒)の米を浸す時から始まる。その時から堆廏肥のあつかい、針仕事などは忌まれている。
 5月、6月のウマチーは互いにまつりの方法は似ている。ただ異なるのは、5月には神に供えるシロマシが出る点である。これはノロ地から採集した稲穂(未熟米)をつついた汁である。この田のことをシロマシ田とも呼んだそうである。5月のウマチーには、各家庭とも稲穂2本、粟穂1本の計3本トゥヌへ出し、後で持ち帰って台所の火の神に供えた。5月ウマチーは稲穂の豊饒祈願であり、物忌みの要素がより濃い。まつりの時、チヂン(小太鼓)もこの時は飾るだけて叩かない。6月はにぎやかに叩き、そのへんが大きな相違点になっている。

 ウンサクをつくるため浸した米は、翌14日石臼でひき、一晩おいて15日に手を加えて仕上げた。現在は13日にご飯を炊き、容器に入れて密閉し、15日に製粉機にかけてつくる。       
 14日の晩は各家庭でウユミ(祖先をまつる)がある。クデは各自の元家へ豆腐もしくはソーメン等を持参し、その家族と夕飯を共にする。
 これより先、午後まだ明るいうちにクデたちは各自の元家で火の神、神御棚の香炉を拝み、ヌンドンチの後のニシムイヘ行き、まつりに頭に披るカーブヤー(三昧線づるでつくる)を取る。さらにススキとアザカ(琉球青木)の葉など三種の草木を取る。その時お嶽の入口でうたうウムイ。
  
  たきがくまむとに (お嶽のふもとに)
  くばの木や植えとて (ビロウの木を植えて)
  しみじみの御めえに (隅々の神様に)
  みおうじ取てええしら (御扇を作ってさし上げましよう)
  たきがくまむとに (御嶽のふもとに)
  松の木や植えとて (松の木を植えて)
  しみじみの御前に (隅々の神様に)
  あかし取てええしら (灯をつくってあげましよう)
 
儀式がすんで帰ると2度と入れない。
 15日の午後、神人は元家へ行き、各自の衣裳を受け取り、ヌンドンチで待機する。ヌンドンチの屋敷外にユナガーという古泉があり、ここで神人は手足をそそぎ、林の中をヌンドンチヘ行った。ウッチヌアンシー、サンナーアーシーは白衣裳は着ず、紺地の着物でカーブヤーも被らない。ニッチュも紺地である。ヌンドンチは一番座の正面にノロ仏壇かあり、その東側に神御棚がある。神人たちはこの座敷で神衣裳に着がえる。

 下のトゥヌ(知花トゥヌ)には神サギ屋が出来ている。三方の壁と屋根をマーニ(黒つぐ)で葺かれている。この小屋の前で神人たちがアザカ等三種の草木の葉を2枚表合わせに7組ずつまとめ、葉のもとをそろえて結ぶ(名称不詳)。神サギ屋の前やや斜めにニッチュを頭にウムイシンカが坐る。知花、登川、池原、松本の順序である。末席の二人(松本と池原からの2人)はチヂン打ちである。
 
 儀式のはじめは、知花の区長が酒と花米を神人にささげることから始まる。本来ノロがいて取納すべきものだが、ノロ不参加のためウ。チヌアンシーが代行する。ノロのカーブヤーを置き、先程の3種の草木の葉を束ねたものをその前に置いている。知花区長に続き、松本の区長が同様のことをする。その後さらに知花、松本の順でウンサク(神酒)を神人にあげる。ノロ代行のウッチヌアンシーはノロのカーブヤーに竹の葉で2、3滴したたらせ、おはつをあげる。ウムイシンカにもウンサクが配られる。2人のチヂン打ちがウッチヌアンシー(本来はノロ)の前へ進み、チヂンをささげる。ウッチヌアンシーはそれを受け取り、3回廻し、3回叩いて渡す。
 
 神サギ屋の中で正面向きに坐っていた神人はここで円く坐り、合掌してウムイをうたう。

 ヘーヘーイー、ヘーヘーイー
 とのうちんちゅらさ (殿の内も美しい)
 ましうちんちゅらさ (屋敷内も美しい)
 神が道あきり (神の道を開けたまえ)
 ヌルが道あきり (ノロの道を開けたまえ)

曲は前日の曲と同じである。5月も6月もこの2回だけである。これがすんでウムイシンカのウムイがはじまる。その開神女は正面へ向いて合掌する。

 ①イーン イーン イーむーウーキーかー アーンしーヰーン イーン ヰーン。
 ②イーン イーン イーン はーン アーン アーン アーン。
 ③アーン アーン アーンじー フィーン イーン イーン イーン イン
  ヰーン イーン イーン。
 ④まーン アーン アーインりーン ヰーン ヒーン イーン
 ⑤イーン イーン てンイン らイこ ヲーン オーン ヲーン オン オン
    (以下略)
 
 これを済ませて、女神職は神衣裳をふだん着に着替える。松本トゥヌヘ上り右にウムイシンカが坐り、左は女神職の座席である。女神職はふだん着のままである。松本からウンサクが出され、ウムイシンカのウムイだけがうたわれる。ここでオクデは各自の元家へ帰り、香炉を拝む。(ノロ)ウッチヌアンシー、ニッチュ、ウムイシンカ全員は登川、池原へ行く。昔は馬に乗ったが、その後は駕籠に乗ったとも言われ、その際の馬や駕籠かきはこれらのから出した。

 登川や池原のトゥヌでの儀礼は、酒、ウンサクを三種の草木の葉とノロのカーブヤーに捧げることにはじまるなど、先の知花、松本の行事とほぼ同じなのでここでは省略する。知花以外のにも古い家(門中の大兄)かおり、したがってクデもおり、それぞれのトゥヌヘ出るならわしである。

 終りに

 まつりの経過は、大方現在行なわれている通りであるが、音は朝神、夕神があり、知花トゥヌを朝行ない、登用、池原を済ませ、夕神に松本トゥヌであったが、いつの頃か改正されたらようてある。神道もヌンドンチの後方から登川へ通じた道があったが、自動車で神行列する現在では誰も通る者はいない。雨天の時は、ヌンドンチで行なう。登川、池原はウンサク等をここへ持参する。

 知花のウムイシンカ(男声)による「ウムイ」は特異なものらしく、山内盛彬氏はこれを「南洋楽ではないか」と次のように述べておられる(「知花ウムイに南洋楽」1967年9月沖縄タイムス所載)。

 ①音階は現にニューギニヤ、高砂族に見られる三声和音音階。
 ②拍子は東洋民俗にはあまり見られない3拍子。
 ③ウムイは女性に定まっているが、これは男声である。
 ④詞は南洋語らしい。(目下解釈研究中)。
これについてさらにある人は中国系の歌だろうといい、ある人は「イーン」は稲、「アーン」は粟、「マーン」は黍だろうと想像をたくましくする。謡う者も傍で聞く者も意味のわからぬままである。

 ところが、世礼国男氏によると、これは<おもろさうし巻二に-二二>「知念久高行幸之御時おもろ-首里御城打立之御時」のおもろであるという(「久米島おもろに就いて」、『南島』第二輯昭和17年)。
 前記歌詞カタカナ中ひら仮名の部分だけを読むと「むかしはじまり(や)てら(だ)こ……」となる。つまり、
 むかし、はちまりや、てたこ、大ぬしや きよらや、てり、よわれ せのみ、
 はちまりや(巻二十二-22)
ということになる。したがってこれは南洋語でも中国語でもなかったわけである。以上のことを付記して稿を閉じる。                   (1969年)

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年


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