むしむし

ちっぽけな虫のような私。でもしぶとく生きてま~す♪

光り輝く島スリランカ 7 世界遺産ポロンナルワ①

2018-09-30 23:54:28 | 

世界遺産3カ所目、ポロンナルワ(පොළොන්නරුව)はシンハラ王朝2番目の都です。
南インドからの度重なる侵略でアヌラーダプラから11世紀に遷都したそうです。
先ず広大な池の畔のチケットオフィスへ。この池は12世紀に作られた灌漑用水池。

アヌラーダプラも同じですが、歴代の王が寺院を立てたので遺跡がとても多いです。
保護区入口からすぐの所にあるのがヒンドゥー教の遺跡。
仏教王国の都にヒンドゥー教寺院!この国の懐の大きさを感じました。




クワドラングルの城壁の中を見学。たくさんの遺跡がありました。
ラター・マンダパヤ。石柱が並び、先端にはハスの蕾が。



アタダーゲ。キャンディーに仏歯寺があるのですが、以前の仏歯寺跡です。
床がもやもやっとしていたので近づいてみたら植物でした。



ワタダーゲ。とても大きくて目立っていました。入口が4カ所。





入口にそれぞれムーンストーンとガイドストーンがありました。
アヌラーダプラのムーンストーンは4種類の動物でしたがここは3種類。
ガイドのJさんからゾウは誕生、ウマが老い、ライオンが病い、牛が死と
教えてもらいました。この時代には牛が描かれていないのです。
(ガイドストーンは撮り忘れていました・・・)




熟して落ちた大きなサヤがたくさん落ちていました。


                            < つづく >

光り輝く島スリランカ 6 世界遺産シーギリヤ③

2018-09-29 20:35:55 | 

シーギリヤロックの頂上は1.6ヘクタールもあって、プールまであるんです。



7年かけて頂上に王宮を作り自分の玉座を置き、11年後に弟が攻めてきて自害したとか。
弟はここを仏教の僧に寄進し、元のアヌラーダプラに都を移したそうです。

5世紀後半に作られた王宮や兵舎などは木製なので、今はレンガの土台のみ。
岩の形に合わせてレンガをうまく重ねています。すごい!
そして、兵舎跡で出会ったのが、何と!カメレオンです。



動くときはしっぽを真っ直ぐに、停まるとくるっと。



オジギソウや小さな花も咲いていました。



周りはとても深いジャングルです。ここに都を作るには水がカギとなったそうです。



ハスの水路からの一本道が見えました。



階段のたたきの所には一枚板のように大きなきれいな石が置かれています。



帰りはあっという間に下ってしまいちょっとあっけなかったです。



2009年にJICAがシーギリヤにおける地域主導型観光振興プロジェクトとして
建てたシーギリヤ博物館に寄りました。福田武夫元首相の名前が出ていました。
たくさんの観光客が押し寄せているのに地元への恩恵が全くなかったそうです。
JICAは地元経済への還元のため楽しめる体験型博物館の運営ノウハウを
伝える等の人材育成やトイレ、道路の整備など、様々な支援を行っているとか。

博物館の畔には水路や池がありました。





日本の京都・奈良のようにスリランカの子どもたちが見学に来るシーギリヤ、
日本の支援が活かされていることにちょっと嬉しくなりました。

                           < つづく >

光り輝く島スリランカ 5 世界遺産シーギリヤ②

2018-09-28 00:23:36 | 

いよいよ長い上りが始まりました。高さ195m(標高は350mくらい)。
あとどれくらいでしょうか?




石の階段の次はロックにへばりつくような金属の階段を上っていき、らせん階段へ。
らせん階段は「シーギリヤレディ」と呼ばれる壁画(フレスコ画)と
「ミラーウォール」と呼ばれる回廊への見学ルートで、らせん階段で下ります。

500以上も描かれていたと言われる「シーギリヤレディ」ですが今残るのは18体。
残念ながら撮影禁止です。磨かれて反対側のレディを映していた「ミラーウォール」は
7世紀~11世紀にシンハラ語で書かれた落書き(叙事詩など)が黒く残っています。



白いのは最近の落書き!なんて事だと思いましたがずっと先にはこれも見学対象でしょうか?!



らせん階段から戻って少し上ると広場(ライオンのテラス)に出ました。入口に看板が。
広場にはライオンの足、間に宮殿へと続く階段、犬が足の上にも広場にもいました。





見慣れたのら犬が、まさかここにも!一息する観光客が食べ物を与えるのでしょう。
つけている首輪は、避妊済みの目印だそうです。

ライオンの口の中に入って行くように作られていたそうですが今はありません。
シーギリヤの「シー」は“ライオン”、「ギリヤ」は“岩”という意味だそうです。
階段を上って行くと岩肌に何かあります。後で聞くとスズメバチの巣でした。
看板がありましたね!広場には襲われた時に逃げ込む場所もありましたよ。




頂上手前でJさんから教えてもらったアリ塚。この後どこに行っても目につきました。



そしていよいよ頂上です!!




                           < つづく >

光り輝く島スリランカ 4 世界遺産シーギリヤ①

2018-09-27 23:50:02 | 

ただ単に登ってみたいと思っていたシーギリヤロックですが、ガイドのJさんから
この遺跡の説明を聞いた後は、見るもの全てに物語が透けて見えるようで興味深かったです。



アヌラーダプラは、紀元前からシンハラ王朝の都。文明も発達し貯水池や運河は
現在も使われているそうです。そんな時代(5世紀)の偉大な王の長男の物語です。
母は平民の出で、腹違いの弟の母親は王族の血筋。王位が弟に継承されると考えて
王を監禁、王に恨みを持った家来に殺させ王位を略奪、弟はインドに亡命。
王となりシーギリヤに都を移し7年かけてシーギリヤロックの上に宮殿を築き玉座を置いたとか。

入口を入ると「ハスの水路」がお堀のように周りを取り囲むように作られています。
ワニがいたそうですよ。今はいないらしいです。ピンク色のトンボがいました。




「ハスの水路」を渡って小さな階段を上ると庭園。ロックまで1本道がまっすぐ伸びています。
イギリス人が発見するまで1400年もジャングルに埋まっていたそうです。
最初にあるのが王の沐浴場、そして乾季用の宮殿跡。通路を中心に線対象に配置されています。




通路や階段は整備されたものですが、レンガを摘んだ部分は5世紀のものです。
踏まないように見て回ります。何と! オオトカゲがいてビックリでした





黒檀。とても固い木で日本で仏壇に使われているとガイドのJさんが教えてくれました。



この石の穴は高低差を利用。流れる水の勢いで吹き出す噴水の穴なんです。なるほど~



1本道は600mほど。登り口の洞窟、石窟寺院は後に僧院として使われたそうです。



雨水が伝って中が濡れないように一定の場所から下を削ってあります。
流れてきた水は、そこから水滴となって下に落ちるため中が濡れないと言う訳です。
この技術は、ダンブッダの石窟寺院でも使われていました。



猿はここにもたくさんいました。



さあ、いよいよロックに登ります。1200段。あと何段くらい残っているのでしょう。

                             < つづく >

光り輝く島スリランカ 3 世界遺産アヌラーダプラ②

2018-09-25 23:28:13 | 

聖地アヌラーダプラ(අබ්රදාපුර)で次に訪れたのはスリー・マハー菩提樹です。
車は参道に入って行きます。たくさんの旗は仏陀の後光の色です。
色はそれぞれ青(仏陀の頭髪、定根…心を静め乱れないこと)、黄(仏陀の身体、金剛)、
赤(仏陀の血、精進)、白(仏陀の歯、清浄)、橙(仏陀の袈裟、忍辱)を表します。



仏陀はインド・ブッタガヤの菩提樹の下で悟りを開いたとされ、菩提樹は信仰の対象ですが、
この菩提樹はその木の分け木が紀元前3世紀にインドの王女によってもたらされたものなんです。
インドの菩提樹は仏教弾圧の際に切られ、ここの木の分け木がブッタガヤで育っているそうです。
靴を預けての入口は男女別で持ち物検査もあり、とても大切な菩提樹だと感じました。
ガードストーンはイスルムニヤ精舎のと比べるとかなり精巧で、時代の差を感じました。



たくさんの方々が熱心にお祈りをしていますが、青々と葉を茂らせているのは別の菩提樹です。
樹齢2000年の菩提樹は左に伸びた枝で、金色の道具に支えられ上からも吊っていました。



次は紀元前2世紀に作られたというルワンウェリ・サーヤ大塔。10分ほど歩いて行きました。
仏塔は日本では五重塔で、仏舎利(仏陀の遺骨)が祀られています。
参道の周りにはたくさんの猿たちがいて、電線にはコウモリが引っかかっていました。
黄色の花が美しいゴールデンシャワーや合歓の木、ガジュマルなどが木陰を作っています。



猿、鳥以外にも、たくさんの牛たちが草を食んでいたり犬が寝そべっていました。
ルワンウェリ・サーヤ大塔は白く輝き、周りを300頭以上の象が守ってトップには水晶が!





この白さは毎年塗り替えられているからで、どこの仏塔(ダーガバ)も白くきれいでした。
スリランカでは満月の日が祝日(ポヤ・デー)で仏教徒は体を休め寺院に参拝するそうです。
そして6月の満月は仏教が伝わったお祝いもあり、最大のポヤ・デーです。
その日にはきれいになるようにと毎年4~5月から白く石灰を塗るという事です。
この大きさを塗るのはとてもとても大変だと思いました。

後ろからにぎやかな太鼓の音や音楽が!振り返ると太鼓を先頭に大勢が歩いてきます。
長い布を運んでいるのですが、村や会社などのグループでお金を出し合って布を奉納するとか。
みんなでダーガバの下の方にぐるっと巻きつけます。
このダーガバに巻かれた布は、一定期間の後に袈裟等として使われるそうです。



たくさんの遺跡の説明を聞いたのですが、あやふやな事が多く調べながら書いています。
これは黄金宮殿といわれるローハ・プラサーダの遺構で、手前はチケットブースです。
1600本の柱に支えられた9階建ての巨大な建造物だったそうです。



                         < つづく >

光り輝く島スリランカ 2 世界遺産アヌラーダプラ①

2018-09-24 08:07:28 | 

北海道の8割ぐらいの広さのスリランカには現在8つの世界遺産があります。
今回はこのうち6つの文化遺産を訪ねました。残りの2つは自然遺産です。

最初に訪れたのはスリランカ最古の都アヌラーダプラ(අනුරාධපුර)です。
今から2500年以上も前,
紀元前からシンハラ王朝として栄えていたそうです。

紀元前3世紀にインドの王子によってスリランカに初めて仏教が伝えられ、
王は仏教を保護し、イスルムニヤ精舎を建てたという事でスリランカ最古のお寺です。
靴を脱いで預け、帽子を取って入口を入るとイスルムニヤ精舎が見えてきました。



日射しが強く、靴下を履いていても足の裏が熱く感じられました。
右側の岩を彫るようにして建てられているのが御堂。元々は僧院でした。
階段の上り口のところにムーンストーン、左右にガードストーンが。




御堂を出るとリスがささっと本堂の瓦のすき間に入って行きました。



御堂の隣に後に建てられた本堂があり中には極彩色の涅槃像。信者の方がお祈りしていました。
本堂を出ると、右側の岩の割れ目にコウモリの巣がありました。さすがロック・テンプル。



アップにするとたくさんのコウモリがいるのが分かります。



そして本堂(信者の方に遠慮して写真は撮れず)の隣の宝物殿へ。

右上は「恋人の像」、友人が撮っているのが「王族の像」です。
ともに5世紀の作品ですが、モデルとなったのは紀元前2世紀の王子と恋人マーラ。
マーラのカーストが低いため二人の仲は認められず、王子は身分を捨てようとしたそうです。
結婚後とされる「王族の像」でも、マーラはとても小さく隅に彫られています。
他の二つは「餓鬼」です。日本のものととても似ていると思いました。



裏側に回り、岩山に登りました。御堂の脇の沐浴場や入口が見えました。



遮るものがなくダーガバ(仏塔)の他は、緑がどこまでも広がっていました。

                           < つづく >

光り輝く島スリランカ 1 野生の王国

2018-09-22 23:04:18 | 

友人に誘ってもらってスリランカ(ශ්රී ලංකාව)に行って来ました。
インドの東側に浮かぶ、地理でセイロンと習った島国です。
1948年にイギリスからセイロン自治国として独立し、
1972年にスリランカ共和国と改称、現在の国名はスリランカ民主社会主義共和国です。
“スリ”は「光り輝く」、“ランカ”は「島」という意味です。

申し込んだツアー参加者が私たち3人だけ!という事で、
ガイドのJさんと運転手さんとの贅沢な5人旅となったのでした

たくさんの野生の生き物たちに出会うことができました。
先ずは一番感動した象の群れです。



ジープで走って走って、昼間はブッシュの中にいる象たちが夕方水辺に来るのを見にいきました。
すごくたくさん、いくつかの群れのようです。70頭までは数えたけれど数えきれなかったのでした。





水を飲んだり、水をかけたり、かけ合ったり。なんだか楽しそうでした!



草を鼻でむしり取り、鼻を振りながらまとめたら口へ。ひたすら食べ続けていて小象は食べたり休んだり。
ジープは本当にすぐそばまで近づくけれど、邪魔をしないように象が近づいて来ると道をあけるのです。



大きな声をあげて走り回っている小象もいましたよ。可愛らしくて!
親がやって来て落ち着きました。探していたのかしら?見入ってしまって写真は無しです。
水たまりの泥水をかけていました。小さな小象も一生懸命かけていましたよ。



調べてみると日本とスリランカは、愛によってつながっていました
1951年第二次世界大戦後、日本が国際社会へ復帰したサンフランシスコ講和会議で、
スリランカのジャヤワルダナさん(後に大統領)が日本を擁護する演説を行い、
日本の独立回復の議論に大きく流れを変えたのです。
仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去るものでなく、ただ愛によって消え去るのみ」を引用したそうです。

彼はその後もたびたび訪日し、90歳で亡くなる際に献眼、角膜提供したのですが、
「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、
片目は日本に贈られ、長野県の女性に移植されたとありました。

                    < つづく>