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永井隆「初旅」

2018-08-23 18:33:55 | 格言・みことば
永井隆「初旅」(著者はカトリックの医師・医学者、長崎で被曝)

 まこと純心修道院の童貞さまから誠一とカヤノ宛に手紙が来て、入学祝いに服を作ってあげるから、学校の始まる前においでなさい、との招きである。この修道院の経営する女学校でこの子の母はながく教員を勤めていたので、童貞さまの中には、母の教え子もいた。この子たちは幼いころから母に連れられてよく修道院に遊びに行き、童貞さまからかわいがられていた。原子禍のとき、この修道院も女学校もつぶれて焼けた。修道院長のマグダレナさまも大きな柱の下敷きになり、迫りくる火にすでに危なく見えたが、通りがかりの人に助けられ、傷ついた多くの修道女をまとめて木場という山の中のカトリック集落に移った。私らもその集落へ行って救護所を開いたので、ずっと修道女たちの手当てにあたった。谷間に掘っ立て小屋を建て、まったくアシジの聖クララたちそっくりの清貧な修道院ができていた。傷ついた修道女たちが祈りながら、互いに看護し合っている情景は美しかった。冬になるころ、神のお恵みによってこの貧しい修道院は、長崎から汽車で二時間かかる大村市の軍事施設の払い下げを受けて女学校を再建することになった。まだ回復期で脚のよろめく修道女たちは、明るい希望を抱いて大村に移った。

 私たちが原子野に掘っ立て小屋を建てて、吹きさらしの中に夏衣を着て震えながら住んでいたら、童貞さまが思いもかけず訪れて、子供たちに毛布で作った服をくださった。カヤノはえまことりについている赤い花のししゅうがとても気に入った。誠一はジャンパーのボタンをはめたり、はずしたりして喜んだ。荒野のサンタクロースだった。

 いま純心修道院は幼稚園、中学部、高等学部のほかに、大学程度の神学部をおいて、純心学園として大きな組織をもつまでになった。けれども、やさしい童貞さまたちは、すでに世から忘れられようとしている私たちをいつまでも覚えていて、子供がそれぞれ中学校と小学校に入ったものの、母親がなくては新しい服も仕立ててもらえないだろうと、こうしてわざわざ招いてくださった。

 私は二人だけで旅をさせようと考えた。あの汽車は佐世保行きで、とても混雑する。大人でさえも命がけだという。よく新聞にけが人や死人の記事が出る。おまけに途中に長いトンネルぷんすいれいがある。そのトンネルは分水嶺にあるので、トンネルの中央に峠があり、両方へ向かって急な坂になっている。汽車はやっとこさで坂を上りつめ、ついに力尽きてトンネルの中で立往生してしまうことが度々ある。トンネルの長さは一キロ以上もあるだろう。その中に閉じこめられ、おまけに窓ガラスが割れているので、車内はもうもうと黒い煙に満たされる。息はつまる。ぎっしり詰めこまれて身動きはならぬ。死ぬか死ぬかと思うばかり。

 どうも、幼子二人だけ行かせるのは心もとない。もし万一のことがあったら・・・せっかく男手でここまで育ててきて、とも考える。ところが二人は、童貞さまの手紙を読んで大喜びだ。ぼろ服を着て入学式に行くのかと、くさっていたところへ、新しい服をくださると言う。行けばなつかしい童貞さまたちが、かわいがってくださる。きっとピアノも鳴らしてくださる。おいしい西洋菓子もつくってくださる・・・まるでおとぎの国へ行くかのような大はしゃぎ。

 こんなに楽しみにしているのだから行かせよう。どのみちこれからは、いつも二人手をつないで、世間の荒さをしのいで生き抜かねばならぬ兄妹なのだ。妹は兄を頼み、兄は妹を助け、妹は兄のほかに頼まず、兄は妹にまず手を貸し、一本ならば折れる麻も二本となれば折れ難いと信じ、一束になって勇気を出さねばならぬ二人なのだ。ちょうど入学という新しい出発にあたって、幼い二人が、二人だけの間に信頼と親愛とを固めてくれるのには、この上ないよい機会だ。

「行ってきます」

 二人は手をつないで出て行った。

「カヤノ、ちょこちょこ走るんじゃないよ」

 と私は床の中から叫んだ。しかし、二人はもう走り出してしまって、返事はなかった。

 私はロザリオを取り出し、爪繰りながら二人の初旅の平安を聖母に祈った。

永井隆『この子を残して』



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