『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
7 権謀と術数
3 孫武の伝説
兵法の書といえば、だれでも『孫子』の兵法をまず思いうかべるであろう。
ところで『孫子』の著者、あるいは孫子その人といわれてきたのは、戦国の世の孫臏ではない。
それより百年ほど前、呉の国に孫武という兵法家があった。
この孫武こそ、名高い孫子その人と伝えられてきたのであった。
司馬遷の『史記』によれば、孫武もまた斉の人であり、孫臏はその子孫であった、という。
そして孫武は十三編の兵法書(孫子)をあらわし、呉王の闔廬(こうりょ=夫差の父)に仕えた。
「孫子勒姫兵」安田靫彦
さて孫武が、はじめて闔廬に見(まみ)えたときのこと、王はいった。
「そなたの書かれた十三編は、ことごとく読んだ。ひとつ、実際に兵を動かして見せてくれまいか」。
「よろしゅうございます」。
「婦人をつかって見せてくれるか」。
「よろしゅうございます」。
そこで宮中の美女百八十人が召しだされた。
孫武は、これを二隊にわけ、王の寵姫(ちょうき)二人をおのおの隊長とした。
さて一同に戟(げき=左右に枝のあるホコ)を持たせ、命令していった、
「お前たちは、自分の胸と、左右の手と、背中とを知っておるか」。
「知っております」と、女たちは答えた。
そこで孫武はいった。
「前、と言ったら胸を見よ。左、と言ったら左手を見よ。右、と言ったら右手を見よ。後、と言ったら背中を見よ」。
女人たちが「はい」と答えたので、軍令を布(し)き、鉄鉞(まさかり)を用意したうえ、三たび軍令を示して、五たびこれを説明した。
そうして鼓(つづみ)をうち、「右ッ」と号令した。女たちは大いに笑うばかりであった。
孫武は「軍令があきらかならず、号令が徹底せぬのは、将たる者の罪である」といって、また三たび命令を示し、五たび説明した。
そうして鼓をうち、「左ッ」と号令した。女たちは、またも大いに笑うばかりであった。
孫武はいった「軍令があきらかならず、号令が徹底せぬのは、将たる者の罪である。
しかし、すでに軍令があきらかなるに、なお兵が号令にしたがわぬのは、隊長の罪である」。
たちまち左右の隊長を斬ろうとした。
呉王は台上からみていたが、愛姫が斬られようとするので、大いに驚き、あわてて伝令を発していわせた。
「もはや将軍が用兵の達人たることはわかった。わしは、この二人の女がいないと、何を食べても、うまくない。
どうか斬らないでくれ」。
孫武はいった、「私はすでに命を受けて、将となっております。
将たる者は軍中にあれば、君命をもきかぬことがあります」。
ついに隊長二人を斬って、みせしめとした。そして、その次の者を隊長とし、鼓をうって号令を発した。
女たちは、左に右に、前に後に、ひざまずくも起(た)ちあがるも、すべて規則どおりに動き、声をだす者さえなかった。
かくて孫武は伝令をもって王に報告した。
「すでに兵は整いました。こころみに王みずから台よりおりて、動かしてごらんください。
もはや王の意のままに、水火のなかといえども進んでまいりましょう」。
しかし呉王は、あえて台からおりようとはしなかった。
孫武はいった、「王は、いたずらに議論をこのまれるばかりなのだ。それを実地に用いることはできない」。
孫武にかんする話は、これが唯一のものであって、そのほかの事跡はあきらかでない。
後世の書物には、孫武という名も、孫武が兵法の書をあらわしたということも、記されていない。
そこで、孫武とは架空(かくう)の人物ではなかったか、また『孫子』は孫武の著作ではなく、むしろ孫臏(そんひん)の兵法をつたえたものではないか、と疑う学者が多くなった。
さらに『孫子』を、後世の偽作(ぎさく)である、と主張する学者もあらわれた。
そこまで否定しなくとも、学界では『孫子』が一人の著作ではなく、孫武から孫臏にいたって完成したものであり、春秋時代の末期から戦国時代に至る兵法を示したもの、という見解が大勢を占めてきたのである。
しかし一九七二年四月、山東省の一角(臨沂=りんき)において、前二世紀末ごろ、すなわち前漢時代の二つの墓が発掘されたところ、なかからたくさんの兵法書が出土した。
それには「孫子の兵法」と「孫臏の兵法」との両者がふくまれていた。
孫子といわれる人と、孫臏とは、はっきり別人であることが、これによつて証明された。
やはり「孫子の兵法」は孫武の著作であり、それとは別に「孫臏の兵法」があったのである。
また孫臏は、孫武の孫にあたるらしいこともわかった。
このように、二千年以上も前の古い書物が発見されたというのは、まことに驚くべきことである。
この内容の大略については、一九七四年三月に発表されたが、研究がすすめば『孫子』にまつわる従来の疑問も、はっきり解明されるであろう。
7 権謀と術数
3 孫武の伝説
兵法の書といえば、だれでも『孫子』の兵法をまず思いうかべるであろう。
ところで『孫子』の著者、あるいは孫子その人といわれてきたのは、戦国の世の孫臏ではない。
それより百年ほど前、呉の国に孫武という兵法家があった。
この孫武こそ、名高い孫子その人と伝えられてきたのであった。
司馬遷の『史記』によれば、孫武もまた斉の人であり、孫臏はその子孫であった、という。
そして孫武は十三編の兵法書(孫子)をあらわし、呉王の闔廬(こうりょ=夫差の父)に仕えた。
「孫子勒姫兵」安田靫彦
さて孫武が、はじめて闔廬に見(まみ)えたときのこと、王はいった。
「そなたの書かれた十三編は、ことごとく読んだ。ひとつ、実際に兵を動かして見せてくれまいか」。
「よろしゅうございます」。
「婦人をつかって見せてくれるか」。
「よろしゅうございます」。
そこで宮中の美女百八十人が召しだされた。
孫武は、これを二隊にわけ、王の寵姫(ちょうき)二人をおのおの隊長とした。
さて一同に戟(げき=左右に枝のあるホコ)を持たせ、命令していった、
「お前たちは、自分の胸と、左右の手と、背中とを知っておるか」。
「知っております」と、女たちは答えた。
そこで孫武はいった。
「前、と言ったら胸を見よ。左、と言ったら左手を見よ。右、と言ったら右手を見よ。後、と言ったら背中を見よ」。
女人たちが「はい」と答えたので、軍令を布(し)き、鉄鉞(まさかり)を用意したうえ、三たび軍令を示して、五たびこれを説明した。
そうして鼓(つづみ)をうち、「右ッ」と号令した。女たちは大いに笑うばかりであった。
孫武は「軍令があきらかならず、号令が徹底せぬのは、将たる者の罪である」といって、また三たび命令を示し、五たび説明した。
そうして鼓をうち、「左ッ」と号令した。女たちは、またも大いに笑うばかりであった。
孫武はいった「軍令があきらかならず、号令が徹底せぬのは、将たる者の罪である。
しかし、すでに軍令があきらかなるに、なお兵が号令にしたがわぬのは、隊長の罪である」。
たちまち左右の隊長を斬ろうとした。
呉王は台上からみていたが、愛姫が斬られようとするので、大いに驚き、あわてて伝令を発していわせた。
「もはや将軍が用兵の達人たることはわかった。わしは、この二人の女がいないと、何を食べても、うまくない。
どうか斬らないでくれ」。
孫武はいった、「私はすでに命を受けて、将となっております。
将たる者は軍中にあれば、君命をもきかぬことがあります」。
ついに隊長二人を斬って、みせしめとした。そして、その次の者を隊長とし、鼓をうって号令を発した。
女たちは、左に右に、前に後に、ひざまずくも起(た)ちあがるも、すべて規則どおりに動き、声をだす者さえなかった。
かくて孫武は伝令をもって王に報告した。
「すでに兵は整いました。こころみに王みずから台よりおりて、動かしてごらんください。
もはや王の意のままに、水火のなかといえども進んでまいりましょう」。
しかし呉王は、あえて台からおりようとはしなかった。
孫武はいった、「王は、いたずらに議論をこのまれるばかりなのだ。それを実地に用いることはできない」。
孫武にかんする話は、これが唯一のものであって、そのほかの事跡はあきらかでない。
後世の書物には、孫武という名も、孫武が兵法の書をあらわしたということも、記されていない。
そこで、孫武とは架空(かくう)の人物ではなかったか、また『孫子』は孫武の著作ではなく、むしろ孫臏(そんひん)の兵法をつたえたものではないか、と疑う学者が多くなった。
さらに『孫子』を、後世の偽作(ぎさく)である、と主張する学者もあらわれた。
そこまで否定しなくとも、学界では『孫子』が一人の著作ではなく、孫武から孫臏にいたって完成したものであり、春秋時代の末期から戦国時代に至る兵法を示したもの、という見解が大勢を占めてきたのである。
しかし一九七二年四月、山東省の一角(臨沂=りんき)において、前二世紀末ごろ、すなわち前漢時代の二つの墓が発掘されたところ、なかからたくさんの兵法書が出土した。
それには「孫子の兵法」と「孫臏の兵法」との両者がふくまれていた。
孫子といわれる人と、孫臏とは、はっきり別人であることが、これによつて証明された。
やはり「孫子の兵法」は孫武の著作であり、それとは別に「孫臏の兵法」があったのである。
また孫臏は、孫武の孫にあたるらしいこともわかった。
このように、二千年以上も前の古い書物が発見されたというのは、まことに驚くべきことである。
この内容の大略については、一九七四年三月に発表されたが、研究がすすめば『孫子』にまつわる従来の疑問も、はっきり解明されるであろう。