2月17日(火曜日(2009)
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寒い朝だ。
おとといまでの陽気は、昨日の台風並みの風で、
南の彼方へ吹き飛んでしまった。
で、再三再四で恐縮だが、「この世・あの世論」。
今のところ、こんなばかげた(論)を展開しているのは、
どうやらこの私だけのよう。
つまり、この世が、あの世で、あの世が、この世。
わかるかな?
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●実は、この世があの世?
私たちが思っている(この世)、つまり此岸(しがん)こそが、実は、あの世の、
彼岸(ひがん)であるという説。
私たちは、あの世に、天国や地獄があると教えられている。
(極楽と地獄でもよいが……。)
しかし天国も地獄も、みなさんご存知のように、実はこの世にある。
天国に住んでいるような生活をしている人もいれば、地獄に住んでいるような
生活をしている人もいる。
……と考えると、実は、私たちが言っている、(あの世)こそが、実は、元の世界、
つまり(この世)ということではないのか。
私たちは、元の世界(=この世)から、こうしてあの世(=私たちが「現世」と
呼んでいる、この世)へ、やってきた。
そう考えるほうが、何かにつけ、合理的である。
話をわかりやすくするために、こうしよう。
私たちが今、こうして住んでいる世界を、(世界A)とする。
私たちが死んだら行くという、あの世を、(世界B)とする。
たとえばその世界の、(時間的長さ)にしても、世界Aのそれは、あまりにも短い。
長生きをしたとしても、100年前後が限度。
(たったの100年だぞ!)
しかし世界Bでは、時間は永遠。
世界Aとは、比較にならない。
それだけでも、世界Bのほうが、(元の世界)ということになる。
つまり私たちは、世界Bのほうから、ときどき世界Aのほうへやってくる。
ときどきやってきては、天国や地獄を経験する。
世界Aのほうには、天国も地獄もある。
わかりやすく言うと、天国Bの住人たちは、折につけ、世界Aのほうへやってくる。
世界Aのほうへやってきて、天国や地獄を経験する。
もちろん努力によって、世界Aのほうでも、地獄を天国に変えることはできる。
反対に、天国を地獄にしてしまうこともある。
(どういう状態を「天国」といい、どういう状態を「地獄」というかについては、
いろいろな意見があると思うが……。)
……とまあ、突飛もないことを考えているが、そう考えることによって、私たちが
住んでいるこの世界Aを、また別の角度から、眺めることができる。
と、同時に生きるということがどういうことなのか、別の角度から、考えることが
できる。
●かぎりない自己中心性
この世がこの世と思うのは、あまりにも自己中心的。
かぎりなく幼稚。
幼児は、「自分たちが今、ここに住んでいるから、この世界が(元)」と考える。
こうした幼稚性は、自分たちの住んでいる世界から、一歩、外へ出てみるとわかる。
こんな例で考えてみよう。
少し前、息子夫婦が、義理の妹(アメリカ人)を連れて日本へ来た。
そのときのこと。
その妹は、日本の海苔(のり)を食べることができなかった。
寿司屋でも、軍艦寿司は、そのつど海苔をはずして食べていた。
私は、その話をワイフから聞いたとき、心底、驚いた。
どういうわけか、驚いた。
いろいろな話は聞いていたが、海苔を食べられない外人の話は、聞いたことがない。
(あとで、そういう外人も多いということは知ったが……。)
「世界の人は、海苔が好きなはず」と思っていた私は、それだけ自己中心的な
ものの考え方をしていたということになる。
つまりこういうこまかいことが積み重なって、世界Aをつくる。
私たちには常識的な世界かもしれないが、常識そのものが、自分に都合のよいように、
作られていく。
言うなれば、むしろこちらの世界のほうが、虚構の世界ということになる。
もし、世界Bが本当に存在するとするなら、(私は存在しないと思っているが)、
私たちが「この世」と呼んでいる、世界Aのほうこそが、世界Bから見れば、
「あの世」ということになる。
つまり私たちは、この世で、あの世のあの世を生きていることになる。
もしも、本当に、あの世(世界B)があるとするなら……という前提での
話だが……。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司