最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子育てジャンプ(4)

2009-07-18 13:03:56 | Weblog
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(451)

●ワールドカップに思う

 ワールドカップは、いわば世界的な祭(まつり)。その祭には、「熱狂」はつきものだが、しかしその熱狂ぶりは、ふつうの祭とは、かなり違う。つまり「熱狂」そのものが、演出されたものであるということ。そのことは、選手をかいま見ただけで、涙を流して喜ぶサポーターたちの姿を見ればわかる。彼らはアイドルという虚像に涙を流しているにすぎない。

 たとえば今、窓の外に一本の栗の木がある。秋になると色があせ、一枚ずつ、葉を落とす。そのときその葉が落ちることには、だれも関心を払わない。が、この段階で、一枚一枚の葉にそれぞれの国名をつけ、最後まで残った「葉」が勝ちということにしたとする。つまりこの段階でゲーム性が生まれる。

が、これではまだ「熱狂」は生まれない。そこでこうする。最後まで勝ち残った葉(国)には、栄誉を与えるとする。そしてマスメディアを使って、世界中に報道する。この段階で、その道の解説者たちが、もっともらしいコメントを語れば、ゲームはさらにおもしろくなる。「A国の葉は、根元が太いですね。ただ色が少しあせているので、風に弱いでしょう。しかしB国の葉は、面積がやや小さい。風には有利に働くでしょう」とか。

 が、ここでひとつ、重要な要素を忘れてはいけない。ゲームである以上、人間が介在しなければならない。そこで「選手」の登場ということになる。このゲームでは、名前を「栗の葉落とし」とするが、この栗の葉ゲームでは、たとえば栗の木の下から、息を吹きかける選手を考えたらどうか。各国から肺活量の大きい選手にきてもらい、下から息を吹きかける。そして相手の国の葉を、その息で落とす……。

 一枚ずつ葉が落ちるごとに、世界中がまさに一喜一憂する。自分の応援する国の葉が先に落ちれば、ため息と落胆の嘆き。相手の応援する国の葉が先に落ちれば、笑いと歓喜の叫び。こうして「熱狂」は少しずつ、増幅され、やがて最終局面を迎える。最後の二枚だけ、葉が残ったとする。一枚は「X国」と書かれた葉。もう一枚は「Y国」と書かれた葉。下から息を吹きかける選手は、ますます真剣になる。一息吹きかけるごとに、そして葉がゆれるごとに、轟音のようなエールとブー音が入りまざる。

 が、問題は、なぜ実際には、ワールドカップというゲームには世界中が熱狂し、栗の葉ゲームには、世界中が熱狂しないかということ。この違いはどこからくるのか。つまりその「違い」をつくるのが、演出ということになる。ワールドカップは、そういう意味では、巧みな演出によってつくられたゲームということになる。が、問題はこのことではない。

 この時点で、「私」自身が、その演出によって、踊らされるということ。いつの間にか、自分自身もその熱狂の「輪」にハマってしまい、自分が自分でなくなってしまう。ゲームだからよいようなものの、それがもし別のものであったら……。

考えるだけでも、どこかソラ恐ろしい感じがする。感じがするが、ああああ、今日もそのワールドカップが気になってしかたない。六月一四日。今日で予選リーグが終了する。日本、よくやっている!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(452)

●教師は聖職者か?

 知性(大脳新新皮質)と、生命維持(間脳の視床下部ほか)とは、つねに対立する。いざとなったら、どちらが優位にたつのか。また優位なのか。わかりやすい例で言えば、性欲がある。

 この性欲をコントロールすることは、不可能? よく聖職者や出家者は、禁欲生活をするというが、禁欲などできるものではないし、またそれをしたところで、あまり意味はない。知性(大脳新新皮質)の活動が、すばらしくなるということはない。

もともと脳の中でも、機能する部分が違う。(性行動そのものは、ホルモン、つまり男性はアンドロゲンで、女性はエストロゲンとプロゲステロンによって、コントロールされている。)あるいはホルモンをコントロールすれば、性行動そのものもコントロールできることになるが、それは可能なのか。いや、可能かどうかを論ずるよりも、コントロールなどする必要はない。性欲があるから、聖職者や出家者として失格だとか、性欲がないから失格でないと考えるほうが、おかしい。

 私はよく生徒たちに、「先生はスケベか?」と聞かれる。そういうとき私は、「君たちのお父さんと同じだよ。お父さんに聞いてみな」と言うようにしている。同性愛者でないことは事実だが、性欲はたぶんふつうの人程度にはあると思う。

が、大切なことは、ここから先。その性欲を、日常生活の中でうまくコントロールできるかどうかということ。これについては、まさに「知性」がからんでくる。もっと言えば、「性的衝動」と、「行動」の間には、一定の距離がある。この距離こそが、知性ということになる。

 ひとつの例だが、夏場になると、あらわな服装で教室へやってくる女子高校生がいる。(最近は高校生をほとんど教えていないが、以前は教えていた。)そういう女生徒が、これまた無頓着に、胸元を広げて見せたり、あるいは目の前で大きくかがんだりする。そういうとき目のやり場に困る。で、ある日、そのとき私より三〇歳くらい年上の教師にそれを相談すると、その教師はこう言った。「いやあ、そういうのは見ておけばいいのですよ」と。

 一見、クソまじめに見える私ですらそうなのだから、いわんや……。この先は書けないが、ともかくも、私は過去において、性欲は自分なりにコントロールしてきた。だからといって知性があるということにはならないが、しかしこんなことはある。

 私は二〇代のころは、幼稚園という職場で母親恐怖症になってしまった。また職場はもちろんのこと、講演にしても九九%近くは女性ばかりである。そういう環境で三〇年以上も仕事をしてきたため、多分、今の私なら、平気で混浴風呂でも入れると思う。

つまり平常心で、風呂の中で世間話ができると思う。(実際にはしたことがないが……。)とくに相手を、「母親」と意識したとき、その人から「女」が消える。これは自分でも、おもしろい現象だと思う。長い前置きになったが、よく「教師は聖職者か」ということが話題になるが、私はこうした議論そのものが、ナンセンスだと思う。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(453)

●古い世代との対立
 講演をしていると、いろいろな人から抗議を受ける。(たいていは質問という形だが、「私はそうは思わない」「林の意見にはついていけない」というのが多い。そういうのも含めて、ここでは「抗議」と呼んでいる。)
 しかしそのほとんどは、五〇代、六〇代の男性からのもの。私の意見は、世の男性たちには、支持されないようだ。この数か月だけでも、こんな抗議があった。

● 「『母さんの歌』(窪田聡作詞、作曲)の歌はすばらしい歌だ」(私は何も、その歌を否定しているのではない。)

● 「父親は家で、威厳があることこそ重要だ」(威厳というのは、互いの間に尊敬の念があってはじめて生まれる。親の権威を一方的に子どもに押しつけるのはどうか。)

● 「子どもの人生は子どものものとはいうが、実際には、子どもに老後のめんどうをみてもらわねばならない」(親孝行を否定しているのではない。強要してはいけないと言っている。)

● 「妻たちに、ヘンな知恵をつけてほしくない。そうでなくても、妻と両親(祖父母)との関係がむずかしい」(言語道断!)

● 「林は親孝行を否定するが、親孝行は日本人の美徳である」(献身的、犠牲的な孝行を、子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。あくまでも「心」の問題。心を通いあわせることこそ、真の孝行ではないのか。)

● 「夫は仕事で疲れて帰ってくる。その上、家事を分担せよというのは、現実的ではない」(最初から何もしなくてよいという意識と、分担しなければならないが、それができないという意識では、おのずと違いがでてくる。夫は、家事、育児のたいへんさをもっと理解すべきと私は言っている。)

● 「産んでいただきましたと子どもが親に感謝するのは、当然だ」(恩着せがましい子育ては、親子の間にキレツを入れることになるから注意したいと私は言っている。それでもかまわないというのなら、私もかまわない。)

● 「親子のきずなは切れない。親子の縁など、切れない」(しかしそういう日本的な常識(?)の中で苦しんでいる子どもも多い。こうした常識を子どもに押しつけてはいけない。)

● 「母性は本能だ。どんな親でも、子どもを愛しているはず」(もしそうなら、虐待などないはずだが……。)

● 「子どもにもっときびしくし、子どもをきたえるべきだ」(きびしくすれば、それでよいという考えでは、これからの子どもを指導することはできない。)

●「子どもの世界が乱れているのは、甘やかしが原因。親が子どもの友になるなんて、とんでもない」(ひとりの人間として、認めようと、私は言っている。)ほか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(454)

●スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびしい兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりにも短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その欠陥のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。

こうした日本の特異性は、外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝うのが日課になっている。こういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつけて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どものできる仕事が減った。

私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘になった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたいへんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。

が、乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あなたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子どもにすべき教育ではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(455)

●人生の後悔

 ときどき自分の過去を振りかえり、「しまった!」と思うことがある。このところ、それがふえてきた。

 「後悔」という言葉がある。私にとっての後悔は、K社という放送会社で、犬のようにペコペコとシッポを振って仕事をしていたこと。たいした才能(タレント性)があったわけではないのに、「何かある」という見返りだけをいつも期待しながら、結局は、五年以上、あの会社で働いてしまった。

会社に問題があるというよりは、K社の人たちである。まさに受験競争を勝ち抜いてきただけという人ばかりで、しかも目が上ばかり向いていた。その上、中央意識が強く、権威主義で、どの人もいばっていた。多少の収入は得たが、総合すれば、働いた時間掛けるパートタイムの時間給より、少なかったのでは? 皮肉なことに、儲けたといえば、そのK社の株で儲けたお金のほうが多かったように思う。情報だけは、あれこれ入ったし、私は社員ではなかったから、株を買うことができた。

 時間をムダにした……。今でも、あの時代を思い出すと、そんな思いが、ぐっと胸をしめつける。私にはもっとほかにすべきことがあった。できることがあった。もっともそれはK社の責任ではない。私が愚かだった。無知だった。それに今、こうして後悔するのは、自分自身の残りの人生が、「少なくなった」と思えるほどまでに、押し迫ってきたからだ。いや、それだけではない。

私はときどき、「忙しいですか?」と人に聞かれる。そういうとき私は、「忙しくはないですが、時間がありません」と答える。そこに遠い道があるのを知れば知るほど、その時間がないのを知る。その時間を、あまりにもムダにしすぎた。

 が、本当に私を「しまった!」と思わせるのは、そのことではない。ここに書いたように、「シッポを振ってしまった」ということ。関係の社員には、盆暮れのつけ届けを欠かしたことがない。一方、彼らはまた、弱い立場の私を見越して、さんざん私を利用した。延べにすれば、一〇〇人以上もの社員が、飲み食いをするだけのために、この浜松へやってきた。

もちろんこちらが望んで接待したこともあるが、ほとんどは一方的なものだった。そういう人たちを接待しながら、「犬」のように振る舞った自分を、今、ただただ後悔する。

 考えてみれば、彼らとて、K社という看板を背負っただけの、ただの「人」。私はそれにもっと早く気づくべきだった。戦後の高度成長期に、私たち日本人は、「大企業」についてある種の幻想をいだいた。その社員にも、同じような幻想をいだいた。つまり考えてみれば何のことはない。私自身も、その幻想にとりつかれていた。いや、大企業はともかくも、そこで働く社員たちが、それだけ高次元な人たちかということになれば、そういうことはまったくない。あるはずもない。

 この文を最後に、私はK社のOBの人も含めて、K社の人たちすべてと、絶縁する。二度とあのK社の玄関をくぐることはない。さようなら!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(456)

●薬物の使用は個人の自由?

 文部科学省の調査によれば、覚せい剤などの薬物使用について、「他人に迷惑をかけていないので、個人の自由」とする割合は、つぎのようであったという(平成一二年、小学校の高学年、中高校生生、計七三〇〇〇人について、一一月調査)。

 高校一年生……一〇・七%
 高校二年生……一一・五%
 高校三年生……一三・〇%、と。

 学年があがるごとに、割合が高くなるが、同様の傾向は、高校生女子のほか、小中学生でもみられる。つまり、学年があがるにつれて、「心のタガ」がよりはずれるということ? 同じ調査によれば、「薬物を使ったり、もったりすることを『悪いことだ』と答えた高校生はつぎのようであった。

 高校一年生……五九・九%
 高校二年生……五七・二%
 高校三年生……五五・六%、と。

 反対に、学年があがるごとに、割合が低くなっている。

 よく「日本はアメリカとくらべて、薬物を使用する子どもが少ない。自由主義のアメリカのほうが、かえって善悪の判断のできない子どもにする」と言われる。しかしこの日本で、たまたま薬物の使用が少ないのは、子どもたちの善悪の判断によるものというよりは、取り締まりのきびしさによるところが大きい。もし仮に、アメリカ並に、薬物が一般社会に蔓延(まんえん)するようになったら、日本の若者たちは、はるかに急速に薬物に浸透していくと思われる。ひとつの例として、援助交際と呼ばれる「売春」がある。

 問題は、学年が高くなるにつれて、なぜこうした「善悪」の判断にうとくなり、また自分にブレーキをかけることができなくなるか、である。神戸大学のK教授は、「さまざまな悩みをかかえる高校生が、薬物使用に共感できる部分があるいからだろう」(日本教育新聞))とコメントを寄せているが、私はもっと問題の「根」は深いと思う。これについては、また別の機会に考えてみることにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(457)

●善玉依存心、悪玉依存心

 人間は、何かに依存しなければ生きていかれない、か弱き存在なのか。もちろんその程度は、人さまざま。何かにどっぷりと依存しながら生きている人もいれば、そうでない人もいる。しかし本当の問題は、何に依存するか、だ。

 その依存心には、善玉依存心と悪玉依存心がある。悪玉のほうが話しやすいので、悪玉依存心について先に書く。

モノ、金、地位、名誉、財産など、自分を離れたものに依存するのを、悪玉依存心という。家柄、宗教に依存するもの、これに含めてよい。このタイプの依存は、その対象物がゆらいだとき、自分自身もゆらぐという心配がある。これは極端な例だが、熱心な信仰者が、その信仰に疑問をもったとき、精神的な混乱(狂乱)状態になることはよく知られている。

 しかし自分自身に依存するのには、そういう心配はない。そういう意味で、自分自身に依存することを、善玉依存心という。こんなことがある。

 私はときどき講演している最中に、多くの聴衆を前にして、ふとこんなことを思う。「どうして私がこんなところに立っているのだろう」と。私には私を背後から支える、名誉も地位も肩書きもない。何もない。そういう私が、なぜ立っているか、と。

そういうときかろうじて私を支えているのは、「私ほど、子育ての現場を踏んだ人間はいない」という思いと、「私は今朝も朝、五時から原稿を書いたではないか。そんなことをしている人間がほかにいない」というなぐさめである。そのつど、心のどこかで自分を励ましながら、自分を立てなおす。

自分に依存するというのは、だれにも「私の中から私を奪えない」ということ。そういう意味では、強い。悪玉依存心と違って、なくすことを心配する必要はない。裏切られることもない。だから……と書くと、手前味噌のようになってしまうが、同じ依存心をもつなら、善玉依存心のほうがよいに決まっている。

 で、問題は、夫(あるいは妻)や、子どもに依存するのはどうかという問題。私たちは依存したくなくても、いつの間にか依存することになるかもしれないが、原則としては依存しないほうがよいのでは……? 家族については、どうなのかという問題については、まだ私にもよくわからないので、また別の機会に考えることにする。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(458)

●短絡的な子育て法

大阪にある、とあるリトルリーグでの光景。子どもたちが広いグランドで、野球をしている。掛け声だけは一人前? 独特のホーホーという声を空になびかせて、練習に励んでいる。しかし……。

 監督やコーチへの接待、食事の用意はもちろんのこと、準備もあと始末も、すべて同行している母親たちの役目。子どもたちがグランドへ入るころには、ベースも並べられ、ボールも用意されている。試合が終われば終わったで、それを片づけるのも、母親たちの役目。そういう姿を見て、大阪市で幼稚園を経営しているS氏は、こう言った。「何かがおかしいですね」「高校の野球部で監督をしている友人がね、『リトルリーグで育った部員は、扱いにくい』と言ってましたよ」と話してくれた。

S氏によれば、そういう「甘い環境」で育った子どもは、野球はうまいかもしれないが、「何もできない」のだそうだ。

 「もっと子どもにきびしくせよ」という意見が、今、あちこちからわきあがっている。武士道や、スパルタ方式の教育法を説く人もいる。わがままで自分勝手な子どもがふえてきたことが、その理由である。しかし頭からこういうことを、子どもに押しつけても、意味はない。もっとはっきり言えば、あまりにも短絡的。

 子どもがわがままで、自分勝手になったのには、もっと別の理由や原因がある。そういう理由や原因を考えないで、現象面だけをみて、いきなり「きびしくせよ」というのは、どうか? たとえばこの日本では、「あと片づけ」にはうるさいが、「あと始末」には、甘い。

たとえば子どもが食事をしたあと、その食器を洗わせる、フキンでふかせる、食器棚にしまわせる親は少ない。風呂から出るときも、タオルを洗わせる、アワを流させる、タブにフタをさせる親は少ない。起きたときも、ベッドをなおさせる、パジャマをたたませる親は少ない。こうした家庭教育は、日本以外の世界では常識なのだが、この日本ではしない。とくに男性や子どもが、ひどい。

今でも「男は仕事だけしていればいい」とか、「子どもは勉強だけをしていればいい」と考えている人は、母親も含めて多い。これだけが理由ではないが、こうしたスキをついて、子どもは、ドラ息子化、ドラ娘化する。

 短絡的なものの考え方は、一見、威勢がよく、わかりやすい。が、えてしてものの本質を見誤らせる。中には、大声で怒鳴り散らし、親や子どもを罵倒しながら、子どもの不登校をなおす人もいるそうだ。しかしその陰で、どれほど子どもは心をゆがめることか。一五年ほど前にも、Tヨットスクールというのがあった。海に中へ子どもを突き落として、子どもの心を「なおす」(?)というスクールだった。そのため何人かの死者も出たのだが、ときどきこういう「とんでもない教育法」(?)が、世に現れては消える。

 みなさんも、どうか、こうした教育法には、くれぐれも注意してほしい。

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