最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子供の人格完成度(1)

2009-11-25 06:20:40 | Weblog
●子どもの人格の完成度

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子どものばあい、その年齢に比して、
幼児ぽい(幼稚ぽい)というのは、
好ましいことではない。

やってよいことと、やっていけないことの
区別ができない。
突然、突飛もない行動をしたりする。

子どもの人格の完成度は、子どもの
様子を、ほかの子どもと比較して判断する。

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●前頭連合野

 「理性の府」と呼ばれるのが、前頭連合野。
この前頭連合野が何らかの形で損傷を受けると、善悪の判断が適切に
できなくなる。
欲望の命ずるまま、勝手な行動を繰り返すこともある。

 晩年の兄が、そうだった。
玄関先で小便をしたり、自動車のナンバーに、マジックインクで、いたずら書きを
したりした。
ゴミを捨てに行くときも、そのゴミを、近所の家の間にはさんで帰ってきたことも
ある。
 兄は、若いころから母の過干渉により、自分で考えるということができなかった。
それが晩年、ひどくなった。
軽い認知症が加わり、さらにひどくなった。

 子どものばあいでも、異常な過関心が日常化すると、似たような症状を示す。
「自分で考える」という習慣そのものが、育たない。
「自分で行動する」ということはできるが、その「行動」に対して責任を取らない。
「責任を取る」という意味すら、理解できない。
 
 強く叱ると、そのときだけは、(さも、叱られています)という姿勢(ジェスチャ)
をして見せる。
しかしジェスチャだけ。
その実、何も反省していない。

●ある母親

 その母親(当時35歳くらい)は、たいへん口うるさい人だった。
いつも子どもたち(息子と娘)を相手に、ガミガミと怒鳴ってばかりいた。
そのため子どもたちは、一見、従順な子どもになった。
が、自分で考えて、責任を取るということが、できなかった。

 その母親自身も、子どものころ、今で言うAD・HD児ではなかったかと思う。
異常な多弁性が、特徴的だった。
電話で話しても、いつも一方的にまくしたてるだけ。
相手の話を聞かない。
聞かないというより、相手に話させるようなスキ(?)をつくらない。
話の内容も、ポンポンと飛ぶ。

 ある日のことだった。
何かの会合に、その母親が娘を連れてきた。
娘は当時、10歳くらいではなかったか。
その娘にこう言っていた。

 「お茶を出すときは、絵柄を相手に向けて出すのよ、わかった?」と。
そしてお茶の出し方を、みなの前で、こまごまと指導していた。

 一方、私は、そのときまで、そういったことに注意を払ったことは、一度も
なかった。
そういう作法があることさえ、知らなかった。
しかしその母親の頭の中には、そういった情報が、ぎっしりと詰まっていたらしい。
ことあるごとに、こまごまとしたことを、娘に指示していた。

 私はそれを聞きながら、「こういう母親では、子どもたちも息が詰まるだろうな」と
思った。

●常識ハズレ

 結果としてそうなったのだろうが、息子も娘も、中学生のころには、いろいろな
事件を引き起こすようになった。
とくに息子のほうは、その町内でも有名なほど、「グレた」(同じ町内に住む友人の話)。
娘のほうも、同じような経過をたどった。

 が、息子も娘も、見た感じでは、ごくふつうの子どもといった感じだった。
おとなたちの前では、おとなしく、無口だった。
親の言うことには、従順に従っていた。

 が、常識ハズレはつづいた。

 これは人伝えに聞いた話だが、結婚式の当日、息子は、暴走族仲間を連れてきた
という。
予定外のハプニングに、母親は、(もちろん父親も)、あわてた。
しかしそれも後の祭り。
盛大な結婚式を用意しただけに、親たちは、かえって恥をかかされるところとなった。

●子育て自由論

 「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
この3つを重ねて、「自由」という。

 そのためには、子どもには、まず自分で考えさせる。
行動させる。
そして自分で責任を取らせる。

 これは乳幼児期からの、子育ての基本ということになる。
そのためには、いくつかの前提がある。

(1) 子どもをひとりの人間と認める。
(2) 親意識(とくに悪玉親意識)を捨てる。
(3) 友として、子どもの横に立つ。

 ここでいう「悪玉親意識」というのは、親風を吹かすことをいう。
 頭ごなしに、ガミガミ言うのは、禁物。
それが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなってしまう。
親の言うことには従順に従っても、母親がいないところでは、何もできなく
なってしまう。

 あとは、(ますますガミガミ言う)→(ますます常識はずれになる)の悪循環。
それを繰り返す。

●早期診断

 こうした悪循環は、早期発見、早期解決が何よりも、大切。
私の経験では、子どもが3~4歳児になるころには、たいてい手遅れ。
というのも、子育ては(リズム)。
そのリズムは、ひょっとしたら、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを直すのは、容易なことではない。

 基本的には、心配先行型の育児姿勢がその背景にあるとみる。
(異常な溺愛、あるいはその背景に、親自身の情緒的な欠陥が、子どもの精神的な
発育をはばむこともある。)
さらに言えば、親自身に、ちゃんとした(親像)がしみこんでいない。
親自身が、不幸にして不幸な家庭で、育っている。
根は深い。

 が、気がつけば、よい。
こうした問題は、気がつけばよい。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年とか、10年とかはかかるが、時間が解決してくれる。
まずいのは、そういう(過去)があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
過去に振り回されること。
 
 その診断の目安のひとつが、「人格の完成度」ということになる。
満5~6歳になると、子どもの核(コア・アイデンテティ)が、見えてくる。
「この子は、こういう子」という、つかみどころをいう。
そのとき、「うちの子は、どこかおとなっぽい」と言うのであれば、よし。
しかし反対に、「うちの子は、どこか幼稚ぽい」と感じたとしたら、人格の核形成
が遅れているとみてよい。
幼稚園や保育園の中での言動を、ほかの子どもと比較すれば、それがわかる。

●子どもらしさと幼稚性

 誤解がないように書いておく。

 子どもが子どもらしい心をもっているということと、幼児性(幼稚性)が残って
いるというのは、別問題である。
子どもらしい、素直さ、明るさ、無邪気さをもっているというのは、むしろ好ましい。
一方、ここでいう幼児性(幼稚性)は、退行的な症状をいう。

 騒いでいけないような場所で、騒いでみせたり、平気で人が困るようなことを
したりする。
言ってはいけないような冗談を口にしたり、悪いことでも平気でする、など。
その場の雰囲気を、適切に判断できない。
赤ちゃん返りのような、甘ったれた、ネチネチしたものの言い方をするときもある。

 が、何よりも目立つのは、常識はずれな行為。
色水をバケツの中で溶かし、それを幼稚園のベランダから、下の子どもにかけていた
子ども(年長・男児)がいた。
コンセントに粘土をつめて遊んでいた子ども(年長・男児)もいた。
小学3年生の子ども(男児)だが、虫の死骸をマッチ箱に詰めて、それを誕生日
プレゼントにした子どももいた。
そういうのを幼児性(幼稚性)という。

●では、どうするか?

 自分で考える子どもにするには、読書が効果的である。
反対に、読書が好きな子どもは、例外なく、様子がおとなっぽい。
人格の完成度が高い。

 親自身についても、そうだ。

 先にあげた母親のばあい、識字能力に問題があり、本や雑誌をまったくといってよい
ほど、読まなかった。
ある日何かの書類を手渡したことがあるが、その母親は、それを見せるやいなや、
片手で、それを払いのけてしまった。
「私には、こんなもの、読めません!」と。
文字に対する拒否反応すら示していた。

 つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、母親の問題。
家族の問題ということになる。
子どもは、その家族の「代表」に過ぎない。

 母親は今でもガミガミと子どもたちを叱りつづけている。
叱られるべきは、母親自身ということになる。
が、悲しいことに、自分を客観的に判断する能力すら、もっていない。

●ものを書く

 あとは、ものを書くという習慣を勧める。
ものを書くことによって、人は考える。
その(考える)という習慣が、長い時間をかけて、その人の人格を完成させる。

 日記でもエッセーでも、何でもよい。
ひとつのことがらが気になったら、それについて、自分の意見を書き添える。
それだけのことで、考えるという習慣を身につけることができる。

 それを5年とか、10年単位でつづける。
その結果として、人は、「自ら考える人」になることができる。
繰り返すが、子どもの人格の完成度は、あくまでも、その結果として決まる。

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過去に書いた原稿の中から、
いくつかを紹介します。
以下2作は、03年(6年前)に
書いた原稿です。
内容的に多少、荒っぽいところも
ありますが、基本的な考え方は、
今も変わっていません。

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●欲望vsコントロール

 こんな男性(45歳)がいた。子どものころから親の異常なまでの過干渉で、性格が萎
縮していた。そのため、どこかふつうではなかった。

 その男性の特徴は、自分の欲望をコントロールできなかったこと。正月用に買い置きし
ておいた料理でも、食べてしまったり、生活費でも、パチンコ代に使ってしまったりした。
そこで70歳近い母親が、それを叱ると、「ちょっと食べてみたかっただけ」「ちょっと遊
んでみたかっただけ」と、弁解したという。

 この話を聞いたとき、私は、子どもにも、似たような子どもがいることを知った。その
年齢であるにもかかわらず、とんでもないことをする子どもは、多い。先生のコップに殺
虫剤を入れた子ども(中学男子)や、無免許で、母親の車を乗りまわした子ども(高校男
子)などがいた。そしてつぎのような結論を得た。

 「おとなになるということは、自分の欲望をコントロールすること」と。

 してよいことと、悪いことを冷静に判断して、その判断にしたがって行動することがで
きる人を、おとなという。またそれができない人を、子どもという、と。そしてこの部分
に焦点をあてて子どもを観察すると、人格の完成度がわかる、と。

 たとえば先日も、やや太った女の子に向かって、「お前、デブだな」と言っていた男の子
(小2)がいた。すかさず私はその男の子をたしなめたが、その子どものばあい、言って
よいことと悪いことの判断が、つかない。

 小学2年生ともなれば、もうそのあたりの判断力があっても、おかしくない。が、それ
がないということは、人格の完成度が遅れているということになる。

 こうした完成度は、年齢とは関係ないようだ。60歳とか70歳とかになっても、遅れ
ている人は、遅れている。つい先日も、こんな事件があった。

 ある知人(64歳)から電話がかかってきて、こう言った。

 「うちの家内が言うには、林君から、おかしな電話がかかってきたというが、何の用だ
った?」と。

 いろいろな事情があって、私はその電話のとき、彼の奥さんに、遠まわしな言い方をし
た。それは事実だが、その電話を、「おかしな電話」と。たとえそうであっても、そういう
ことは、スケズケとは言わない。「おかしな電話とは何だ!」と、思わず言いそうになった
が、やめた。そういう人は、相手にしないほうがよい。

 もっとも、人間は、45歳前後を境にして、脳の活動も、そしてそれを支える気力も、
急速に衰えてくる。それまでは、何かと人格者ぶっていた人も、それがメッキであったり
すると、はげ始める。そこに、老人特有のボケが加わると、さらに、はげ始める。

 ここでこわいのは、このとき、その人の人格の「核(コア)」が、モロに外に出てきてし
まうこと。つまり、「地(じ)が出る」。

 考えてみれば、人格者ぶることは、簡単なこと。多少の演技力があれば、だれにだって
できる。さももの知りのような顔をして、だまっていればよい。しかし演技は演技。長つ
づきしない。人格の「核」というのは、そういうもの。一朝一夕にはできない。と、同時
に、実は、かなり早い時期にできる。

 青年期か? ノー。もっと早い。少年、少女期か? ノー。もっと早い。私の印象では、
その方向性は、年長児のころに決まるのではないかと思っている。この時期の子どもを、
少していねいに見れば、そののち、どんな人格者になるかどうか、だいたい、わかる。

 欲望の誘惑に強い子どもがいる。欲望の誘惑に弱い子どももいる。たとえば幼児でも、
ある一定のお金をもたせると、それをすぐ使ってしまう子どももいれば、そうでない子ど
ももいる。中には、「貯金して、お料理の道具を買う」と言う子どももいる。「その道具で、
お母さんに料理を作ってあげる」などと言う。

 こうした方向性は、すでに幼児期に、決まる。そしてそれが、ここでいう人格の「核」
となっていく。

 そこであなた自身の問題。あなたは、自分の欲望を、しっかりとコントロールできるだ
ろうか。もしそうなら、それでよし。しかしそうでないなら、あなたは、真剣に自分の老
後を心配したらよい。私も実は、中身はボロボロ。欲望には、弱い。誘惑にも、弱い。今
は、懸命にそういう自分と戦い、それを隠しているが、やがて外に出てくる。

 冒頭にあげた男性の話を聞いたとき、「私のことではないか」と、思った。さあ、どうし
よう?
(03年12月26日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「親である」という幻想

●親を美化する人

 だれしも、「親だから……」という幻想をもっている。あなたという「親」のことではな
い。あなたの「親」についてで、ある。

 あなたは自分の親について、どんなふうに考えているだろうか。「親は、すばらしい」「親
だから、すべてをわかっていてくれるはず」と。

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