最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子供の人格完成度(2)

2009-11-25 06:20:17 | Weblog


 しかしそれが幻想であることは、やがてわかる。わかる人には、わかる。親といっても、
ただの「人」。ただの人であることが悪いというのではない。そういう前提で見ないと、結
局は、あなたも、またあなたの親も、苦しむことになる。

 反対に、親を必要以上に美化する人は、今でも、多い。マザーコンプレックス、ファー
ザーコンプレックスをもっている人ほど、そうだ。それこそ、森進一の『♪おふくろさん』
を聞きながら、毎晩のように涙を流したりする。

 つまりこのタイプの人は、自分のコンプレックスを隠すために、親を美化する。「私が親
を慕うのは、それだけ、私の親がすばらしいからだ」と。

●権威主義

 もともと日本人は、親意識が強い民族である。「親は絶対」という考え方をする。封建時
代からの家(先祖)意識や、それにまつわる権威主義が、それを支えてきた。たとえば江
戸時代には、親から縁を切られたら、そのまま無宿者となり、まともに生きていくことす
ら、できなかった。

 D氏(54歳)は、近所では、親思いの、孝行息子として知られている。結婚して、も
う30年近くになるが、今でも、給料は、全額、母親に渡している。妻もいて、長女もす
でに結婚したが、今でも、そうしている。はたから見れば、おかしな家族だが、D氏自身
は、そうは思っていない。「親を粗末にするヤツは、地獄へ落ちる」を口グセにしている。

 D氏の妻は、静かで、従順な人だった。しかしそれは、D氏を受け入れたからではない。
あきらめたからでもない。最近になって、妻は、こう言ってD氏に反発を強めている。「私
は結婚したときから、家政婦以下だった。私の人生は何だったの。私の人生を返して!」
と。

 自分自身が、マザーコンプレックスにせよ、ファーザーコンプレックスにせよ、コンプ
レックスをもつのは、その人の勝手。しかしそれを妻や子どもに、押しつけてはいけない。

 D氏について言えば、「親は絶対!」と思うのは、D氏の勝手。しかしだからといって、
自分の妻や子どもに向って、「自分を絶対と思え」「敬(うやま)え」と言うのは、まちが
っている。が、D氏には、それがわからない。

●親を見抜く

 まず、親を見抜く。一人の人間として、見る。しかしほとんどの人は、この段階で、「親
だから……」という幻想に、振りまわされる。とくにマザーコンプレックス、ファーザー
コンプレックスの強い人ほど、そうである。

 かりに疑問をもつことはあっても、それを自ら、否定してしまう。中には、他人が、自
分の親を批判することすら、許さない人がいる。

 U氏(57歳)がそうである。

 U氏の父親は、数年前に死んだが、その父親は、金の亡者のような人だった。人をだま
して、小銭を稼ぐようなことは朝飯前。その父親について、別の男性が、「あんたの親父(お
やじ)さんには、ずいぶんとひどい目にあいましたよ」と、こぼしたときのこと。U氏は、
猛然とその男性にかみついた。それだけではない。「あれは、全部、私がしたことだ。私の
責任だ。親父の悪口を言うヤツは、たとえ友人でも、許さん」と。そのとき、そう言いな
がら、その男性の胸を手でつかんだという。

 U氏のような人にしてみれば、そういうふうに、父親をかばうことが、生きる哲学のよ
うにもなっている。私にも、ある日、こう言ったことがある。

 「子どもというのは、親から言葉を習うものです。あなただって、親から言葉を習った
でしょう。その親を粗末にするということは、人間として、許されないことです」と。

 「親を見抜く」ということは、何も「粗末にする」ことではない。親を大切にしなくて
もよいということでもない。見抜くということは、一人の人間として、親を、客観的に見
ることをいう。つまりそうすることで、結局は、今度は、親である自分を知ることができ
る。あなたの子どもに対して、自分がどういう親であるかを、知ることができる。
 
● きびしい親の世界

親であることに、決して甘えてはいけない。つまり、親であることは、それ自体、きび
しいことである。

マザーコンプレックスや、ファーザーコンプレックスが悪いというのではない。えてし
て、そういうコンプレックスをもっている人は、その反作用として、自分の子どもに対
して、同じように考えることを求める。

 そのとき、あなたの子どもが、あなたと同じように、マザーコンプレックスや、ファー
ザーコンプレックスをもてば、よい。たがいにベタベタな関係になりながら、それなりに
うまくいく。

 しかしいつも、そう、うまくいくとは、かぎらない。親を絶対化するということは、同
時に親を権威化することを意味する。そして自分自身をまた、親として、権威づけする。「私
は、親だ。お前は、子どもだ」と。

 この権威が、親子関係を破壊する。見た目の関係はともかくも、たがいの心は、離れる。

●親は親で、前向きに

 親は親で、前向きに生きていく。親が子どものために犠牲になるのも、また子どもが親
のために犠牲になるのも、美徳でも何でもない。親は、子どもを育てる。そしていつか、
親は、子どもの世話になる。それは避けられない事実だが、そのときどきにおいて、それ
ぞれは、前向きに生きる。

 前向きに生きるというのは、たがいに、たがいを相手にせず、自分のすべきことをする
ことをいう。かつてあのバートランド・ラッセルは、こう言った。「親は、必要なことはす
る。しかしその限度をわきまえろ」と。

 つまり親は、子どもを育てながら、必要なことはする。しかしその限度を超えてはなら
ない、と。このことを、反対に言うと、「子どもは、子どもで、その限度の中で、懸命に生
きろ」ということになる。また、そうすることが、結局は、親の負担を軽減することにも
なる。

 今、親の呪縛に苦しんでいる子どもは、多い。あまりにも、多い。近くに住むBさん(4
3歳、女性)は、嫁の立場でありながら、夫の両親のめんどうから、義理の弟の子どもの
めんどうまで、押しつけられている。義理の弟夫婦は、今、離婚訴訟の最中にある。

 Bさんの話を聞いていると、夫も、そして夫の家族も、「嫁なら、そういうことをするの
は、当然」と考えているようなフシがある。Bさんは、こう言う。

 「(義理の)父は、長い間、肝臓をわずらい、週に2回は、病院通いをしています。その
送り迎えは、すべて、私の仕事です。(義理の)母も、このところ、さらにボケがひどくな
り、毎日、怒鳴ったり、怒ったりばかりしています。

 そこへ、(義理の)兄の子どもです。今、小学3年生ですが、多動性のある子どもで、1
時間もつきあっていると、こちらの頭がヘンになるほどです」と。

 こうしたベタベタの関係をつくりあげる背景に、つまりは、冒頭にあげた、「幻想」があ
る。家族は、その幻想で、Bさんを縛り、Bさんもまた、その幻想にしばられて苦しむ。
しかしこういう形が、本当に「家族」と言えるのだろうか。またあるべき「家族」の姿と
言えるのだろうか。

●日本の問題

 日本は、今、大きな過渡期を迎えつつある。旧来型の「家」意識から、個人型の「家族」
意識への変革期にあるとみてよい。家があっての家族ではなく、家族あっての家という考
え方に、変りつつある。

 しかし社会制度は、不備のまま。意識改革も遅れている。そのため、今、無数の家々で、
無数の問題も、起きている。悲鳴にも近い叫び声が聞こえている。

 では、私たちは、どうしたらよいのか。またどうあったらよいのか。

 私たちの親については、しかたないとしても、私たち自身が変ることによって、つぎの
子どもたちの世代から、この日本を変えていかねばならない。その第一歩として、私たち
がもっている幻想を捨てる。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係。1対1の人間関係。1人の人間と、1人の
人間の関係で、成りたつ。「親だから……」と、親意識をふりかざすことも、「子どもだか
ら……」と、子どもをしばることも、これからは、やめにする。

 一方、「親だから……」「子どもだから……」と、子どもに甘えることも、心して、最小
限にする。ある母親は、息子から、土地の権利書をだましとり、それを転売してしまった。
息子がそのことで、母親を責めると、母親は、平然とこう言ったという。「親が、先祖を守
るため、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういうケースは、極端な例かもしれないが、「甘え」も、行き着くところまで行くと、
親でも、こういうものの考え方をするようになる。

 もちろん子どもは子どもで、その重圧感で悩む。その息子氏とは、この数年会っていな
いので、事情がわからないが、最後にその息子氏は、私にこう言った。「それでも親ですか
ら……」と。息子氏の苦悩は、想像以上に大きい。

 さてあなたは、その幻想をもっていないか。その幻想で苦しんでいないか。あるいは、
その幻想で、あなたの子どもを苦しめていないか。一度、あなたの心の中を、のぞいてみ
るとよい。
(03年12月27日記)

【追記】

 正月が近づくと、幼児でも、「お正月には、実家へ帰る」とか言う子どもがいる。しかし
「実家」とは何か? もし祖父母がいるところが、実家なら、両親のいるところは、「仮の
家」ということになる。

 家族に、実家も、仮の家もない。こうした、封建時代の遺物のような言い方は、もうや
めよう。

 農村地域へ行くと、「本家(屋)」「新家(屋)」という言い方も残っている。20年近く
も前のことだが、こんなことを言った母親がいた。「うちは、あのあたりでも、本家だから、
息子には、それなりの大学に入ってもらわねば、世間体が悪いのです」と。

 日本人の意識を「車」にたとえるなら、こうした部品の一つずつを変えていけないと、
車の質は変わらない。

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