最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●死ねば皆、同じ

2008-12-18 01:54:03 | Weblog
●今日の格言

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Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)

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「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。

で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。

ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。

たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。

そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。

こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。

しかし元気なときというのは、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。

しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか
ということになる。

少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろしたらしい。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。

「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。

それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性はお金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。

それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。

お金がないのも困るが、しかしお金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。

私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろんお金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。

(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいる。

だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。

「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。

そしてこうも言える。

「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops the man’s clock」。

ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●耳鳴り

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私は子どものころ、慢性中耳炎に悩んだ。
ときに苦しんだ。
ジ~ンジ~ン鳴りつづける耳鳴り。
それが風邪などと重なると、耳が熱くなり、
ひどいときには、顔中がほてったりした。

が、今は、皮肉なことにそちらの耳は聴力を失い、
耳鳴りは収まったかのようにみえる。
しかし風邪ぽくなったりすると、耳鳴りが始まる。

ジ~ンジ~ン、と。
夏などは、セミの鳴き声と区別ができないときがある。

今が、そうだ。
この数日間、どうも風邪が抜けない。
治ったかと思うと、また風邪をひいたりしている。

しかし慣れというのは、怖しい。
それほどまでの耳鳴りでありながら、仲よく同居している。
それほど気にならない。
実際には、まったく気にならない。

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これほどの耳鳴りがしながらも、私には(静寂)というものがどういうものか、
わかる。
考えてみれば、これは不思議なことではないか。
たとえば今、今の窓の外の木々は、小雨に打たれてやさしく葉を揺らしている。
深い緑の木々をおおうように、まだ残った黄色い葉が、そこかしこで、ゆらゆらと
はためいている。

その手前では、水たまりの表面が、ポツン、ポツンと、無数の円を描いている。

もちろん音は聞こえない。
音を出していたとしても、耳鳴りの音で、かき消されてしまっているだろう。
しかし私は、そこに(静寂)を感ずることができる。
風の音や雨のしたたる音を、感ずることができる。
なぜだろう?

ひとつには、音波でできる音と、心の中でできる音を、自分自身が区別している
ためではないか。
さらに言えば、音というのは、耳で聞くものではなく、心で聞くもの。
どんなすばらしい音楽でも、自分の心が同調しなければ、ただの騒音にすぎない。
音楽か騒音か、それを区別するのが、(心)ということになる。
そしてそれがちょうど反対の状態になったのが、今の私ということになる。

音波の音は聞こえていないが、あるいは耳鳴りの中から都合のよい音を選び出して、
それを耳の中で聞いている。
聞こえてはいないはずなのだが、聞こえるような感じがする。

サーサー……。
ハラハラ……。
ポツン、ポツン……と。

私はそういう景色を見ながら、心地よい睡魔を感じている。
先ほどのんだ風邪薬のせいかもしれない。
コタツのほどよい暖かさが、眠気を誘っているのかもしれない。

そのときふと時計が気になった。
見ると、x時x分。

仕事に出かける時刻。
フ~~~ッと長いため息をついたあと、腹に力を入れて立ちあがる。
とたん、またあの耳鳴り。
思い出したように耳の中で鳴り始めた。

今日もがんばろう。
仕事、開始!
風邪なんかに、負けてはおれない!


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

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