最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●雑感・あれこれ

2009-06-04 07:45:41 | Weblog
●家族自我群



 「家族自我群」という「束縛」に苦しんでいる人は、多い。もう6、7年前のことだが、ある会合
で、1人の母親が、こう言った。「盆や、正月が近づくと、憂鬱(ゆううつ)になります」と。



 30人くらいの母親がいた会場だった。私が「どうしてですか?」と聞くと、「盆や正月には、実
家へ帰らねばなりません。私は、それがいやでなりません」と。



 するとこの話を聞いていたほかの母親たちも、「私も」「私も」と、言い出した。5~7人はいた
のではなかったか。



 私はてっきり、夫の実家のことだと思ってしまった。が、話をよく聞くと、そうではなかった。母
親たちは、自分の実家へ帰るのが、「苦痛だ」と言った。



 理由は、さまざまだった。「父親のそばにいるだけで、息が詰まりそうになる」「自分の居場所
がない」「親孝行を請求してくる」などなど。中でも1人、とくに印象に残ったのは、こう言った母
親がいたことだ。



 「親は、自分の価値観を、問答無用式に押しつけてきます。時代も変わったし、ものの考え方
も変わったのだから、もう少し、今の時代に合わせてほしいです」と。その親は、ことあるごと
に、その母親に、「先祖(=自分という親のこと)を大切にしろ」と言っているそうだ。



 こうした家族であるがゆえに発生する束縛感、あるいは呪縛(じゅばく)感を、「家族自我群」
と呼ぶ。本能の部分にまで刷り込まれている束縛感であるために、ひとたび人間関係がこわ
れると、今度は、それが重圧感となって、その人を苦しめる。



 ふつうの重圧感ではない。ギシギシと音をたてて、その人の心を押しつぶす。しかも一瞬たり
とも、その重圧感は止むことがない。いつも心の外側にぺタリと張りついて、はがれることがな
い。



 憂うつといえば、これほど、憂うつなことはない。



 が、一方、親側のほうは、「伝統」という言葉を使って、自分を正当化する。だから強い。「慣
わし」「習慣」「因習」という言葉を使うこともある。「昔からそうしているから、子どもは、それに
従うのが当然」と。



 さらに……。



 最近だが、こんな話も聞いた。



 その女性(50歳くらい)の両親は、現在、奈良県に住んでいるのだが、このところ両親とも、
認知症の傾向が見え始めたという。そのため、デリケートな会話ができなくなってきたという。



 とくにその女性の母親は、人の話を聞かない。聞かないまま、一方的に自分のことだけをし
ゃべり、そのまま電話を切ってしまう、とか。



 「以前は、子どもたちのことを、まだ相談できましたが、今は、その相談すらできません」と。



 こうなると、家族自我群は、ますます重圧感をともなって、その人を苦しめるようになる。「こ
れから先のことを考えると、憂うつでたまりません。親類の中にも、うるさい人がいて、ああでも
ない、こうでもないと干渉してきます」「最近では、親のめんどうをみるのは娘の義務だから、そ
れなりの覚悟しておくようにと言われました」と。



 こうした問題も、良好な親子関係、親戚関係があれば、まだ救われる。苦労も、苦労でなくな
る。が、それがないと、ここに書いたように、呪縛感をともなった重圧感となって、その人を苦し
める。



 そこで私たちは、どうすればよいのか。



 ひとつは、親としてというより、1人の人間として、自分の子どもが、自分に対して、どのような
意識を作りつつあるか。あるいは今、もっているかを、冷静に判断するということ。



 決して大上段に構えて、「私は親だから当然」「お前は子どもだから当然」と、ものごとを決め
つけて考えてはいけない。つまるところ、親子関係も、一対一の人間関係で決まる。親であるこ
とに甘えてはいけない。親の威厳を押しつけてもいけない。あくまでも一対一の人間関係とし
て、親子を考える。



 でないと、あなたはそれでよくても、あなたの子どもは、それで苦しむ。そうした不要な苦し
み、(まさに不要な苦しみということになるが)、それを子どもに与えないようにするのも、親の
義務ということになる。



 あなたの子どももいつか、社会に巣立つときがやってくる。そのとき、あなたの住む家が、あ
なたの子どもたちの羽を休める古里になっていれば、よし。またそういう「実家」を、あなたは、
子どもたちのために、今からめざし、準備しておく。





●盗品の山?



 1年ほど前のこと。友人に誘われて食事にでかけたときのこと。ふと立ち寄った家の中を見
て、驚いた。



 何と、そこは盗品の山(?)。



 スーパーなどで使う押し車やカゴ、卸し市場で使う台車、それにプラスチック製の箱まであっ
た。その箱には、「xx製菓」というロゴまで入っていた。



 あとで友人にそのことを話すと、「そうでしたか……」「気がつきませんでした……」と。



 たぶんその人は、どこかへ買い物にいくたびに、そこで使う押し車や箱を、そのままもって帰
っていたらしい。万引きとは少し意味はちがうが、しかしそれに近い。



 で、それからというもの、私はそういうものを見つけるのが目ざとくなった。が、同時に、そうい
うものがある家の人は、信用しなくなった。一事が万事。そういうことが平気でできる人というの
は、それなりの人でしかない。



 ワイフは、これについて、今朝、こう言った。



 「名誉や肩書きは、その人を飾る勲章のようなものだけど、盗品というのは、その人をおとし
める刺青(いれずみ)のようなものね」と。



 数年前だが、こんなエッセーを書いたことがある。



 ある女性(70歳くらい)だが、近所の家から植木鉢を盗んできては、それを自分の家に飾っ
ていた女性である。



 しかし、だ。



 盗んできた植木鉢を見て、その人は、本当に、その花の美しさを愛(め)でることができるとい
うのだろうか。私なら、その植木鉢を見るたびに、自分の邪悪な心を見せつけられるように感
じ、とても花の美しさどころではなくなってしまう、と思う。



 つまり(盗んできたという邪悪な心)と、(花の美しさ)が、その時点で、頭の中でショートしてし
まう。



 古い原稿だが、こんな原稿を見つけた。この中で、Uさんというのは、ここでいうその「ある女
性」のことである。



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●しつけは普遍



 50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、その人の人
格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。



たとえばUさん(70歳女性)は近所でも、「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかし
くなってきた。



近所を散歩しながら、よその家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。
人はそれを、Uさんが老人になったせいだと話していたが、実のところUさんの盗みグセは、T
さんが2、30歳のときからあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけ
の気力があった。



しかし70歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例
するかのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。



 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで
決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころに
は、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途
中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。



たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴ
ミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果し
かない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりす
る。



 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識
的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか
る。



してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときに
は、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそ
れを教えるのが、「しつけ」ということになる。



そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは
普遍」という。




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