最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●極楽浄土論

2009-01-17 07:29:00 | Weblog
【極楽論】

● 私は極楽行き? 

ときどきこんなことを考える。
私は死んだら、極楽へ行くのだろうか。
それとも地獄へ行くのだろうか、と。

仏教の教えによれば、それを最終的に判断(ジャッジ)するのは、
あの閻魔(えんま)大王だそうだ。
中国でできたニセ経の上に、さらに日本でニセ経を塗り重ね、そういう話ができた。
今では、子どもですら、そんな話は信じない。
幼稚というか、稚拙(ちせつ)。
しかし私は、最近、閻魔大王というのは、ワイフであり、3人の息子たちではないかと
思うようになった。
それには、こんな話がある。

昨年(08年)、実兄と実母が、つづいて他界した。
そのときのこと。
私はこんなことを考えた。
「兄や母は、極楽へ行くのだろうか。それとも地獄へ行くのだろうか」と。
地獄と極楽しかないとなれば、二者択一、ということになる。
地獄と極楽の間には、中間の世界はない。
そこで兄や母のことを、あれこれと思い起こしてみる。

●善人vs悪人

1人の人間を、どう判断するか。
これはたいへん難しい問題である。
というのも、1人の人間には、いろいろな面がある。
相手によっても、印象がちがう。
年代によっても、変化する。

たとえばAさんは、若いころの母をよく知っていて、「勝気な人でした」という。
Bさんは、晩年の母をよく知っていて、「やさしくて、穏やかな人でした」という。
また他人から見た母と、私という子どもから見た母は、まったく違う。
それは善人vs悪人論とも似ている。

善人と悪人とは紙一重。
しかしまったくの善人がいないのと同じように、まったくの悪人もいない。
よく聞く話だが、死刑囚といわれる人の中には、仏様のようになる人もいるという。
さらに私という人間にしても、あるカルト教団の人たちからは、「魔王」と
呼ばれている。
その教団を攻撃する本を、何冊か書いたからである。
さらにあのK国が、日本を支配したら、この私はまっさきに処刑されるだろう。
いつもあの「将軍様」のことを、「金xx」と書いている。
拉致事件に抗議の念をこめて、そうしている。

どこをどのように見て、善人と判断し、悪人と判断するのか。
何しろ、中間がない。
「閻魔大王の仕事も、たいへんだなあ」と思う。

●私であって(私)でない部分

私は自分では、善人とは思っていない。
どちらかというと、悪人かもしれない。
少なくとも、3人の息子たちは、そう思っている。
「パパは仕事ばかりしていた」
「ママを奴隷のように使っていた」
「パパはワンマンで、ぼくたちの話を聞いてくれなかった」と。

ときどきそういう不満を、今になって私にぶつけることがある。
が、私はいつもそういうとき、こう思う。

「私は私で、懸命だったのだ」と。

息子たちに、私が生きた時代の説明をしても意味がない。
「日本は貧しかった」と言っても、その(貧しい時代)そのものを、知らない。
ボットン便所の話をしても、無駄。
息子たちにしてみれば、生まれながらにして、トイレは水洗トイレ。
それしか知らない。
ボットン便所から、水洗トイレになったときのうれしさを知らない。
だからこう言う。
「そんなのは、パパの時代の話で、ぼくたちには関係ない」と。

つまり私という人間にしても、(過去)の無数のしがらみを引きずっている。
私であって、(私)でない部分も多い。
たとえば道路にお金が落ちているのをみると、今でもさっと拾ってしまう……と思う。
(この20~30年、そういう経験がないので、わからない。)
交番へ届けようなどいう気持ちは、まず起きないだろう。
起きないから、そのジレンマの中で、迷う。
「もらってしまうべきか、それとも交番へ届けるべきか」と。
が、これとてあの戦後の、ひもじい時代を生きたからこそ身についた錆(さび)の
ようなもの。

私が悪いと思う前に、私はあの時代に、責任を求める。
あの時代が悪い。
あの戦争が悪い。

さらに私には、私の生い立ちもからんでくる。
いろいろあった。
その(あった)部分の中で、心もゆがんだ。

重罪といわれる罪を犯した犯罪者にしても、そうだ。
そういう人を、本当に悪人と言い切ってよいのか。
あるいはそう言い切れる人は、どれだけいるのか。

●息子たちが判断する

そこで私のこと。
自分で自分のことを判断するのは、難しい。
ワイフにしても、利害関係が一致しているから、難しい。
そこで、どうしても息子たち、ということになる。
私を判断するのは、息子たち。

息子たちは、(私)を、内側から見ている。
私が外の世界で隠している部分すらも、見ている。
それに人格の完成度も、今となっては、私より高い。
私が見た世界とは、比較にならないほど、広くて大きな世界も見ている。
私を、1人の親というよりは、1人の人間として見ている。

私にしても、閻魔大王などよりも、息子たちに判断(ジャッジ)されるほうが、
よほどよい。
安心できる。
仮に「地獄へ行け」と判断されても、それにすなおに従うことができる。
息子たちがそう言うなら、しかたない。
が、そこでもまた問題が起きる。

私が兄や母に地獄へ行けと言えないように、息子たちもまた、私に地獄へ行けとは
言えないだろう。
たとえ悪人であっても、だ。
それにこんなケースもある。

ある女性の話だが、若いころは、たいへん優雅で気品のある人だったという。
その女性が今は、老人施設に入居して、毎日、毎晩、怒鳴り声をあげているという。
「バカヤロー」「コノヤロー」と。
年齢は、現在、80歳を少し過ぎたところという。

こういうケースでは、どう判断したらよいのか。
その女性は、善人なのか、それとも悪人なのか。
悪人ではないとしても、そんな状態で、極楽へ入ったら、ほかの善人たちが迷惑する
だろう。

●地獄も極楽もない

地獄も極楽もない。
あるはずもない。
だいたい釈迦自身、一言もそんなことを言っていない。
ウソと思うなら、自分で『法句経』を読んでみることだ。
「来世」「前世」にしても、そうだ。

だからそれをもとに、善人論、悪人論を、論じても意味はない。
ただ法体系が未完成だったころなら、地獄論で悪人を脅すこともできたかもしれない。
「悪いことをすると、地獄へ落ちるぞ」と。
それでたいていの人は、黙った。
私が子どものころでさえ、そういう会話を、よく耳にした。

兄は兄として、他界した。
母は母として、他界した。
無数のドラマを残して、他界した。
よいドラマもあれば、悪いドラマもある。
今さら、そんなドラマを問題にしても意味はない。

同じように、今を生きる私たちも、できることと言えば、ただ懸命に生きるだけ。
よいことをしていると思っていても、悪いことをしていることもある。
悪いことをしていると思っていても、よいことをしていることもある。
常に結果は、あとからついてくる。
放っておいても、あとからついてくる。
だからこう思う。

地獄でも極楽でも、どちらでもよい、と。
こんな無意味なことを考えるのは、今日で最後にしたい、と。

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Hiroshi Hayashi++++++++JAN 09++++++++++はやし浩司

【浄土論】

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……?

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●子どもの宗教を考える法(宗教の話は慎重にせよ!)

教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

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Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

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