最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子どもの巣立ち

2007-10-24 11:30:28 | Weblog
●スズメの放し飼い

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子育ての最終目標は、
子どもをよき家庭人として、
自立させること。

たとえばスズメを例に
あげて考えてみよう。

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 拾ってきたスズメの子を育てる。ここまではよくある話である。しかしそのあと、そのスズメを放し飼いにする人は少ない。

 しかしこんな人がいる。

 その人は、スズメを拾ってきて、育てた。ある程度、大きくなったところで、外に放した。そのほうが、スズメにとってはよいと考えた。が、そのあとそのスズメは、毎日、エサを食べるために、その人の家に戻ってくるという(Y新聞、投書)。

 ……この話を聞いて、私は、新鮮な驚きを感じた。

 私も、私の友人も、よく子どものころ、スズメの子を拾ってきて、育てた。しかしそのとき、外の世界へ放してしまう、というところまでは考えなかった。「放し飼い」といっても、人間によく慣れさせたあと、ぜいぜい部屋の中で放し飼いにする程度である。

 しかしこの違いは、基本的な子育て観の違いといってもよい。

 スズメの子を拾ってきて育てる。そのとき、スズメの子を育てながらも、その自由には制限をつける。無意識のうちに、そうする。「育ててやる。しかし逃げていくことは許さない」と。

 こうした子育て観は、日本人独特のものと考えてよい。そしてそれが、たとえば子どもの育て方にも現れてくる。

 今、親たちは、子どもを育てている。しかし外の世界にまで「放し飼い」を許す親は少ない。大半の親たちは、反対に、外の世界へ逃げてゆかないようにする。意識的な行為というよりは、無意識のうちに、そうする。長い間の伝統の中で、日本人は、そうしてきた。そういう子育てを、ほとんど考えることなしに、繰りかえしてきた。

 たとえば「子どもをかわいがる」という言い方がある。このとき親は、自分の子どもを、「かわいい子ども」に育てることを、目標にする。そして親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。

 反対に親を親とも思わない子どもを、生意気な子とする。そういう子どものことを、私が生まれ育った岐阜のほうでは、「きつい子」、あるいは「鬼の子」とも言う。こんな例がある。

 K君は、岐阜市から車で、一時間半ほどの距離の田舎町に住んでいた。が、中学を卒業すると、岐阜市内の高校に通うことを希望した。学力もあった。そういうK君に喜びながらも、それに猛反対したのが、実はK君の母親だった。K君の母親は、あの手、この手をつかって、K君が自分の手元を離れることを阻止しようとした。

 母親はまず、中学の先生のところに話しにいった。そして何とか、岐阜へ行くのを思いとどまるよう説得してほしいと頼んだ。つぎに、K君の通っていた塾の先生にも、それを頼んだ。岐阜市にいる叔父(母親の兄)にも、それを頼んだ。しかしK君の前では、何も言わなかった。母親は、K君に嫌われるのを避けたかったようだ。

 今でこそ、こういう例は少なくなった。が、ないとは言えない。子どもは育てる。しかし最終的には、自分のもとを離れることを許さない、と。

 この違いが、冒頭のスズメの話である。

 これはあくまでも仮定の話だが、あなたはどちらのタイプに近いだろうか。あなたがスズメの子を拾ってきて、育て始めたときのことを想定してみてほしい。(もちろんあなたが小鳥が好きという前提での話である。)

(依存型ママ)拾ってきたスズメを育ててやる。しかし育ててやるのは、私。自分が「かわいい」と思う間は、外に放してやらない。あくまでも部屋の中で、あるいはカゴの中で育てる。そのほうがスズメにとっても、安全と考える。勝手に逃げていくことを許さない。

(非依存型ママ)「かわいい」と思っても、やはり野生のスズメは、外の世界に放してやるのが一番。さみしいと思うが、外に放してやる。育ててやったというような、恩は着せない。スズメにとっては、きびしい世界かもしれないが、それが本来、あるべき姿だと思う。

 私も子どものころ、こんな経験がある。

 何かの映画だったと思うが、野生のライオンの子を育てた人の映画だった。その人はそのライオンがある程度大きくなったところで、そのライオンを野生に帰すための努力を始める。その映画を見ていたときのこと。私は、こう思った。

 「もったいない」と。「せっかく育ててやったのだから、自分でペットとして飼えばいい」とも。

 実のところ、そう思ったということは、私自身が依存型の子育てを、無意識のうちにも、容認していたことになる。しかしそれは、私自身がそう思ったというよりは、日本がもつ大きな流れの中で、そういう意識をつくられたといったほうが正しい。私の父も母も、親戚の人たちも、そして地域の人たちも、みな、そういう考え方をしていた。……今も、している?

 だから私はその投書を読んだとき、新鮮な驚きを感じた。

私「育てたスズメを、外の世界に放してやるという発想は、ぼくの子ども時代には、なかった」
ワイフ「私は、小鳥を飼わなかったから……」
私「手なづけて、ペットとして飼うということは、考えた」
ワ「あくまでもペットね」
私「そう。日本人は、子どもを育てながら、どこかでペットを育てるようなところがある。一人の人間として自立させるというよりは、自分のそばに置いて、かわいがるというようにね」
ワ「あくまでも自分のためね」
私「そう。子どものためではない。自分のため。ここに日本人が全体としてかかえる、精神的未熟性がある」と。
 
(030920)

【追記】

いつか子どもは、あなたから去っていく。そのとき、あなたはどこまで無我の境地になれるだろうか。ある父親は、息子にむかって、ことあるごとに、こう言うという。「お前には、三〇〇〇万円も、かけたからな」と。つまり「学費など、三〇〇〇万円もかかった」と。

 その父親は息子にそう言いながら、「だから何とかせよ」と迫っている。その息子氏は、私にこう言った。「あれくらい、いやな言葉はない。それを言われるたびに、かえって親への感謝の気持ちが、吹っ飛んでしまう」と。

 しかし父親がそう言うということは、そもそも父親の息子に対する愛情を疑ってみたほうがよい。何か、大きなわだかまりがあるのかもしれない。

親が子どもに対して犠牲的になるのはしかたないとしても、それを子どもに押しつけてはいけない。いわんや恩の押し売りをしてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子どもの巣立ち 依存型子育て)

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