最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

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●有能と有用

2009-01-14 06:09:16 | Weblog
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 14日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「有能」vs「有用」?

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昨日朝早く、目覚まし時計についていた
ラジオにスイッチを入れた。
とたん、こんな声が聞こえてきた。
雰囲気からして、どこかの宗教団体提供の
番組だったかもしれない(?)。

こう言った。

「有能な人間より、有用な人間になれ」
「有用な人間こそが、出世できる……」と。

「有能」という言葉と、「有用」という言葉が
交互に、何度も出てきた。

私はこの説教(?)を聞いて、頭の中で脳神経が
バチバチとショートするのを感じた。

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●私は私

私は私、人は人。
私には私の考えがあり、人には人の考えがある。
大切なことは、それぞれの人の考えを尊重すること。
それぞれの人の考えを参考に、さらに自分の考えを
積み重ねること。
が、ときに人の話を聞いたとき、頭の中で脳神経が
バチバチとショートするのを感ずることもある。
昨日の朝もそうだった。

あるラジオ局が、こんな説法をしていた。
「有能な人間より、有用な人間であれ。
それが出世への道である……」と。
どこか無機質で、単調な言い方だった。
その言い方から、私はスポンサーは、どこかの
宗教団体でなかったか。
(確認はしていない。)

●有能と有用

有能と有用。
似たような言葉だが、どちらかを取れと言われれば、
私なら「有能」を取る。
「有用」という言葉を聞くと、そこにどうしても他人の目
を感じてしまう。
たしかに他人との協調性は大切だが、それは集団とか、
もしくは組織の中での話。
有用という言葉も、そういうところでは生きる。
しかし「有用」だけを考えていると、私が私でなくなってしまう。
私は、それを心配する。

具体的に考えてみよう。

●社会で役に立つ人間

少し前まで、「社会で役立つ人間づくり」が、教育の柱に
なっていた。
学校の卒業式などでも、この言葉がよく使われた。
しかしこの言葉は、戦前の「お国のために役立つ人間」に
ルーツを求めることができる。
「お国」が「社会」になった。
「お国のため」が、「社会のため」になった。
それに「役立つ」がくっついた。
こういう例は多い。
そしてこうした考え方の中から、日本独特のあの出世主義が生まれた。

●出世主義vs家族主義

この日本では、地位役職にある人を、「偉い人」という。
そうでない人は、「偉い人」とは言わない。
しかし英語には、「偉い人」にあたる単語すらない。
あえて言うなら、「respected man」という言葉がある。
日本語に訳すと「尊敬される人」ということになる。

しかし「尊敬される人」というときには、地位や役職は関係ない。
地位や役職がなくても、尊敬される人は尊敬される。
地位や役職があっても、尊敬されない人は尊敬されない。

とくに私たち団塊の世代は、子どものころからこの「出世」という
言葉に踊らされた。
「立派な人になってください」
「偉い人になってください」と。

しかしこうした出世主義は、1990年ごろから、急速に、しかも
音を出して崩れ始めた。
日本人の意識が急速に変化し始めた。
家族主義の台頭である。
このころから「仕事よりも家族が大切」と考える人が、急速にふえ始めた。
それを決定的にというか、強烈に印象づけたのが、あの山一證券の倒産劇で
ある。

山一證券が倒産したとき、社長ともあろう人物が、テレビカメラに向かって、
「みんな、私が悪いのです」と、泣きじゃくってみせた。
それは私たちに大きな衝撃を与えた。

●子どもの世界では

集団教育という場では、協調性は、必要不可欠。
それはわかる。
浜松市内にあるS小学校(ゆいいつ入試を実施している小学校)の入試説明会でも、
この言葉が、まず最初に、使われる。
「当校は、教育研修校であります。
いろいろな先生が研修にやってきます。
そのため協調性のある子どもを求めます」と。

しかしその一方で、集団が苦手という子どももいるのも事実。
原因はいろいろある。
理由もいろいろある。
子ども自身の心の問題がからんでいることもある。
それはそれとして、こうした傾向は幼稚園の年中児くらいになると、
はっきりとしてくる。

そういう子どもを無理に、集団に押し込めるのも、どうか。
その子どもにとっては、苦痛以外の何ものでもない。
多くの親たちは、「うちの子が集団になじめないのは、慣れていないから」と
考える。
しかしこれは(慣れ)の問題ではない。
無理をしても意味はない。
無理をすれば、かえって逆効果。
子どもはますます集団になじめなくなってしまう。
そういうこともあって、現にアメリカでは、学校へ行かないで、
自宅で教育を受けるホームスクーラーが、1990年の終わりに100万人を超えた。
その後もどんどんとふえて、現在、200万人を超えていると推定される。

●よき家庭人

一方、欧米では、『よき家庭人づくり』が、教育の柱になっている。
アメリカでもオーストラリアでも、「Good Family Man(よき家庭人)」という。
フランスでもドイツも、そう言う。

あるいはアメリカでもオーストラリアでは、どの学校へ行っても、
「Independent」という文字がよく目につく。
「独立した」という意味である。
恩師の田丸謙二先生も、論文の中で、よく「Independent Thinker」という
言葉をよく使う。
「独創的な思考力をもった人」と、私は解釈している。

むしろ集団に背を向けて生きることこそ、大切と。
あのマーク・トゥエインもこう書いている。

『他人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるべきとき』
(トム・ソーヤ)と。

もちろん弊害がないわけではない。
オーストラリアに住む友人は、こういった。
「オーストラリアでは、大企業が育たない。
その理由のひとつが、(Independent)という言葉にある」と。

「オーストラリアの若者たちは、高校を卒業したりすると、
車一台と電話一本で、仕事を始める。
それが今、問題になっている」と。

●協調性

だからといって、協調性がなくてもよいというわけではない。
他人とのかかわりの中では、協調性なくして、円滑な人間関係を結ぶことは
できない。
しかしそれより大切なのは、「共鳴性」(EQ論)である。
それについて書くのはここでの目的ではないので、省略する。

しかし「協調性」を問題にする国というのは、そうはない。
教育の世界でも、「子どもに合わせた教育」を考える国は多いが、
「集団(国)に合わせた教育」を考えるのは、独裁国家か、それに類する
国でしかない。

つまり「社会に役立つ人間」というところから、「有用」という言葉が生まれた。
(その逆でもよいが……。)

こういう背景を忘れて、一方的に「有用」という言葉を使うのは、
危険なことでもある。
戦前の日本を見れば、それがわかる。

●結論

生き方にもいろいろあり、職業にもいろいろある。
1人の個人を見たばあいでも、いろいろな場面がある。
「有用」という言葉が生きる場面もある。
「有能」という言葉が生きる場面もある。
一方、「有用」という言葉が、ほとんど無視される場面もある。
「有能」という言葉が、ほとんど無視される場面もある。

それに「有能」といっても、それが生かされない場面もある。
せっかく有能であっても、それを認める環境が整わないと、かえって
苦しむのは、その個人ということにもなる。

が、結論として、こういうことは言える。
「有能」は、一生かかっても、その人が追求すべきテーマとなりうる。
しかし「有用」ばかり気にしていると、かえってその人は自分を
見失ってしまう
少なくとも、一生かかって追求すべきテーマではない。
ほどほどに、ということになる。

が、あえて言うなら、私たちは、有能な人がもっと認められる社会を、
もっと目指さねばならない。
今の日本の社会は、「有用」ばかりが重んじられ、「有能」が、あまりにも
無視されすぎている。


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