最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

●07年5月19日ー3

2007-05-19 23:34:00 | Weblog
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●宗教論はタブー 

++++++++++++++

子どもの前では、宗教論は
タブー。

わかっていても、ときに、
失敗する。

++++++++++++++

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子
ども(小三男児)がやってきて、こう言った。

「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言っ
た。

「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降っ
て喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何て
ことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団
の熱心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。

「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。

私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかも
しれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。

その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。
そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、
それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とその
ひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫
んだ。叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家
も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

● 宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うこ
とは許されない。

よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいる
から、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。

それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、な
かんずく人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全
国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるというこ
とは、それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸
命に信仰している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私は
そういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あ
るいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」
と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。

ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方
には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、
さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていな
いというより、もとから考えの中に入っていない。

私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」
ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だ
ったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●息子の初恋について

++++++++++++++

I県に住む、ある母親から
息子の初恋についての相談が
あった。

++++++++++++++

 息子(中3)の初恋について、「今は、受験期なので、何とかやめさせたいが、方法を教
えてほしい」という相談をもらった。岐阜県に住む、HMさんという母親からのものだっ
た。

 この種の感情に、ブレーキをかけることはできない。親が反対すればするほど、恋心と
いうのは、燃えあがる。

 心理学の世界にも、「自己決定感」という言葉がある。「自分で決定することによる満足
感」をいう。この自己決定感がもつ問題は、それ自体が重要というより、それが阻害(じ
ゃま)されたとき、子どもの心理に、さまざまな弊害を起こすということ。

 ここでいう「恋」には、それをおぎなうための代わりのものが、ない。

 たとえば人間は、何かの欲求を、じゅうぶんに満たされないとき、その欲求を、別のも
ので満たそうとする。そしてその方法により、自分を満足させる。これを「代償的満足感」
という。

 よく知られた例としては、マスターベーションがある。性交への満たされない欲求を、
男性のばあい、ヌード写真を見ながら、マスターベーションをしたりする。

 しかしこの方法では、一時的に、性欲を吐き出すことはできても、最終的な満足感を得
られることはない。反対に欲求不満が、つのるということがある。ここに代償的満足感の
限界がある。

 そこで子どもは、自分の自己決定感を満足させようとするが、このとき、それを阻害(じ
ゃま)するものが現れると、それを「敵」とみなして、徹底的に攻撃しようとする。

 この攻撃性が、必要以上に、ここでいう恋心を燃えあがらせることがある。「必要以上」
というのは、本来、その子どもが思っている以上に、自分が、その相手の女の子を好きに
なったと思いこむことをいう。

 (よくある例は、親の猛反対を押しきって、かけおちまでしたようなカップルが、「いっ
しょに生活してよい」と周囲に認められたとたん、その恋心がさめてしまう、など。周囲
に反対が、本人たちどうしが思っている以上に、恋心があると錯覚させてしまうことによ
り、そうなる。)

 こうした子どもの攻撃性には、二面性がある。前向きに攻撃していくタイプと、内にこ
もってしまうタイプである。

 よくあるのは、親が、「受験期になったから、(好きだった)サッカーをやめなさい」と、
子どもの生きがいを奪ってしまうような例。

 親としては、「サッカーをしていたエネルギーを、勉強に向けさせたい」と思って、そう
するが、子どもは、当然のことながら、猛反発する。暴力的な反発も珍しくないが、それ
ができないと、今度は子どもは内にこもり、大きく心をゆがめる。

 その(ゆがめ方)が、常軌を逸することもある。異常な嫉妬心、ねたみ、いじめに走る
こともある。非行の原因になることもある。

 子どもの指導で重要なのは、この「自己決定感」を、うまく引き出し、それを利用しな
がら子どもを伸ばすということ。

 さて本題だが、子どもの初恋は、(1)暖かく無視する。(2)アドバイスを求められた
ときは、ていねいにそれに応じてあげる、という方法で対処する。

 反対しても意味がない。意味がないことは、ここに書いたとおりである。扱い方をまち
がえると、子どもの心をゆがめるだけではなく、親子の絆(ぱいぷ)を切ってしまうこと
にもなりかねない。

 恋心という、人間が、そしてあらゆる生物が、本能的にもっている感情というのは、そ
ういうものである。親の立場では、「熱病にでもかかった」と思い、あきらめるしかない。

【教訓】

● 子どもの一芸は、聖域と考えて、親が踏みこんで、それを荒らしてはいけない。
● 子どもの初恋は、(1)暖かい無視、(2)求めてきたときが与えどきと心得る。



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●老人の心理

++++++++++++++++

母だけを観察して、「老人はこうである」
という意見を書くのは、きわめて危険で
ある。

それはよくわかっている。

しかしその一方で、母が見せる様子を、
幼児に照らし合わせてみると、これまた
興味深い点がいくつか見つかる。

少し前、老人特有の自己中心性につい
て書いた。認知症になればなるほど、
老人は、自分のことしか考えなくなる。

乳幼児の自己中心性は、よく知られて
いる。その自己中心性は、成長とともに、
利己から利他へと、変質していく。

老人のばあい、反対に利他から利己へと
変質していく。

そのほかにも、いくつか気がついた。

++++++++++++++++

 たとえば母だが、最近、おもしろい言い方をするのに気がついた。たとえば、大便や小
便が近くなると、こう言う。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」と。

 大便や小便が、まるで勝手に出てくるというような言い方をする。「自分の意思とは関係
なく、大便や小便のほうが、勝手に出てくる」と。他人ごとのようでもある。つまり、「だ
から、何とかせよ!」と。あるいは、「困るのは、お前たちのほうだ」とでも、言いたげで
ある。

 同じような現象は、幼児の世界でも観察される。大便や小便をしたくなったようなとき、
ほとんどの幼児は、こう言う。「オシッコ! (……だから何とかしてくれ)」「ウンチ! (…
…だから何とかしてくれ)」と。

 こういう言い方を総称して、『何とかしてくれ』言葉という。依存性の強い子ども特有の
言い方と覚えておくとよい。

 一方、老人も、そうである。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」と言いな
がら、その裏で、「だから何とかしてくれ」と言っている。健康な人なら、そういう言葉を
聞くと、こう思うにちがいない。「オシッコでもウンチでも、自分のことだろう」「自分で
始末しろ」と。しかし老人になると、自己中心化が進む。進むと、精神そのものが、肉体
から遊離し始める。

 ケア・ゼンターには、こんな老人もいるという。

 思うように動かなくなった自分の体について、「どうして治らない!」と、ドクターの顔
を見るたびに怒鳴りつけている老人である。「どうして治せない!」ではなく、「どうして
治らない!」と言っているところに注目してほしい。その老人は、ドクターに対して怒り
をぶちまけているのではない。自分の体に対して、そうしている。

 そこで私は学んだ。

 肉体あっての精神である。精神活動も、もとはといえば、肉体活動の一部である。肉体
を離れて、精神はありえない。

 そこで重要なことは、精神は、いつも、自分の肉体を受け入れなければならないという
こと。わかりやすく言えば、老いゆく自分の体にしても、それは私自身であるということ。
自分の肉体を嫌うということは、そのまま、自分の精神を嫌うということになる。

 が、若い人の中でも、自分の肉体を嫌う人は少なくない。必要もない整形手術を繰りか
えすような人たちである。つまりそれだけ自己中心性の強い人とみてよい。もっとはっき
り言えば、それだけ幼児性が残っているということになる。……こう言い切るのは危険な
ことかもしれないが、老人の心理を観察していると、それがよくわかる。

 私たちはいつも、あるがままの(私)を受け入れながら生きる。ここでいう(あるがま
ま)の中には、当然(肉体)も含まれる。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」
ではなく、言うべき言葉は、「私はオシッコをしたい」「私はウンチをしたい」である。

 願わくは、私は死ぬまで、そういう生き方をしたい。

+++++++++++++++

乳幼児の自己中心性について、
以前書いた原稿を紹介します。

+++++++++++++++

●乳幼児の自己中心性

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られ
た心理的特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きてい
ると考える。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考
える心理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを
念ずることで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別が
できない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつ
くられたと考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月
を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工
論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されて
いく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには
青年期を迎えることがある。

 今朝のY新聞(6月28日)の朝刊を読むと、まだあのA教祖に帰依している信者がい
るという。あの忌まわしい地下鉄サリン事件をひき起こした、あのA教祖である。

 私はその記事を読みながら、ふと、こう考えた。

 「この人たちの心理は、乳幼児期のままだな」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 人口論 実念論 物活論 幼児の自己中心性)

+++++++++++

もう1作、補足します。

+++++++++++


●実念論

 乳幼児の心理の特徴の一つに、「実念論」がある。聞きなれない言葉だが、要するに、乳
幼児は、「念力」を信じているということ。

 実念論……どこか「?」な言葉だが、最初に、外国の論文を翻訳した学者が、そういう
訳語をつけたのだろう。「念じて、ものごとを実現させる」という意味である。

 私も幼児のとき、クリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザがほしくて、心の中で何
度も念じたことがある。ほかにもいろいろ念じたことがあるが、それについては、あまり
よく覚えていない。

 つまり、乳幼児は、現実と幻想の世界の区別が、あまりつかないということ。

 しかし問題は、このあとに起こる。

 こうした実念論は、やがて修正され、成長とともに、思考パターン(回路)の中でも、
マイナーな領域へと追いやられる。子どもは、より現実的なものの見方を身につけていく。

 しかしその実念論が、子どもの中に必要以上に残ることがある。あるいは、その実念論
が、かえって、増幅されることがある。

 少しくだらないことだが、こんなことがあった。

 まだ私が幼稚園で働いていたときのこと。ある日、あるところへ行ったら、そこでばっ
たりと、幼稚園の同僚の先生(若い女性)に出会った。「こんなところで何をしているの?」
と聞くと、その先生は、恥ずかしげもなく、こう言った。

 「ここで私の運勢を、占ってもらっていたんです」と。

 見ると、その一角が、ボックスで仕切られたブースになっていた。そして小さいが、そ
こには、看板がかけられていた。「○○占星術研究会」と。

 私はそのとき、ほんの瞬間だが、「こんな先生に指導される子どもたちは、かわいそうだ」
と思った。体はおとなだが、心は、乳幼児のまま(?)。

 もちろんそのころには、私は、実念論という言葉は知らなかった。(まだそういう言葉は、
なかったように思う。)が、乳幼児が、ときどき空想と現実を混濁するという現象は、経験
していた。 

イギリスの格言にも、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわ
せてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしそ
の空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。この格言を、私はす
でに25年前に知っていた。

 が、今は、念力ブーム。現象としては、あの『ポケモンブーム』のときから、加速され
たように思う。自分の願いごとを、スーパー・パワー(超能力)のようなもので実現させ
ようとする。こんなことがあった。

 ある中学生が、何やら真剣な表情で、ビルの一角をじっとにらんでいた。「何をしている
の?」と声をかけると、その中学生は、こう言った。

 「先生、ぼくね、念力で、あのビルを吹っ飛ばしてみたい」と。

 そのポケモンブーム全盛期のころのことである(99年)。私は、こう言った。「吹っ飛
ばしたいと思うのは、君の勝手だが、吹っ飛ばされる人たちの立場で、少しはものを考え
なよ」と。

 乳幼児の実念論。こうした現象が、どうして乳幼児にあるかは別にして、できるだけ、
そうした実念論からは、子どもを遠ざけていく。あるいはそれにかわる思考パターンを、
植えこんでいく。

 これは幼児教育においては、とても重要なことだと思う。

 つまり、先生が、占いや、まじないを信じていたのでは、話にならない!、ということ。


●物活論

 この実念論と並んで、よく知られている乳幼児の心理に、「物活論」がある。乳幼児が、
ありとあらゆるもの、無生物も含めて、すべてのものは、生きている」と考える現象をい
う。

 人形やおもちゃは言うにおよばず、風にそよぐカーテン、点滅する電気、自動車、石こ
ろ、本など。

 ある子どもは、姉が本を何かで叩いたとき、「本が痛がっているから、やめて」と言った。
反対に、飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池をかえれば、また動く」と主張した
子どももいた。

 物活論の特徴は、(1)すべてのものは、生きている。(2)すべてのものには、感情が
ある、と考えるところにある。

 これも広い意味では、現実と空想の混濁。乳幼児の視点に立ってみると、それがよくわ
かる。つまり乳幼児には、まだ生物と無生物を区別するだけの知力や経験が、ない。

 が、こうした物活論を修正していくのも、幼児教育の重要なポイントということになる。
わかりやすく言えば、「生物」と、「無生物」の区別を指導する。

 私には、こんな経験がある。

 10年ほど前、たまごっちというゲームが流行したことがある。そのときこと、私は不
注意で、その中の生き物(?)を殺してしまったことがある。スイッチの押し方をまちが
えてしまった。

 とたん、その女の子(年長児)は、「先生が、殺してしまったア!」と、おお泣きした。
で、「私が、死んではいないよ。これはゲームだから」と何度も言って聞かせたが、結局は、
ダメだった。私を責めつづけた。

 (反対に、生物を無生物と思いこんでしまうこともある。これはたいへん危険な現象と
考えてよい。これについては、また別のところで、考えてみる。当時、ちょうど同じころ、
死んでミイラ化した死体を、『まだ生きている』と主張した、おかしなカルト教団が現れた
のを覚えている。

無生物を生物と思いこむ子ども。死んだ人を生きていると思いこむ信者。現象としては、
正反対だが、これら両者は、一本の糸でつながっている。)

 風でそよぐカーテンを、「生きている」と思うのは、どこかロマンチックな感じがしない
でもない。しかし子どもは、さまざまな経験をとおして、やがて生物と無生物を区別する
知力を身につける。

 それを指導していく、つまり論理的(ロジカル)なものの考え方を教えていくのも、幼
児教育の一つということになる。

【付記】

 そういう意味では、乳幼児期の教師(先生)の選択には、きわめて慎重でなければなら
ない。

 思想性はもちろんのこと、とくに宗教性には、慎重でなければならない。この時期の教
師としては、論理的で知的な教師であればあるほど、よい。社会的に認知されていない、「?」
的なカルト教団に染まっているような教師は、好ましくない。(当然だが!)
(はやし浩司 実念論 物活論 乳幼児の心理)



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。