最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●自分の中の通俗性

2011-11-19 09:17:27 | Weblog
【通俗性とどう闘うか】(金権教に毒されると……)

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コンディションは、よくない。
朝からイライラする。
イライラというより、「ピリピリ」。

Ca不足かもしれない。
天候のせいかもしれない。
忙しいこともある。
昨夜も、遅くまで、講演会用のレジュメづくりをした。

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●不快な男

 そういえば、少し前、ある男から電話がかかってきた。
通俗を「地」で這うような男である。
私より、5、6歳、年下。

私が、「毎晩仕事が終わるのは、9時半です」と話すと、こう言った。
「林さん、そんなに稼がなくてもいいんじゃない」と。
私はその言葉を聞いた瞬間、返答に困ってしまった。
「はあ~」と言っただけで、黙ってしまった。

 何もその男を責めているのではない。
その男は、一見、正当なことを言いながら、実は、自分の心の中を吐露した。
つまりその男は、(仕事)を、瞬間、(金)に結びつけた。
それだけ(金)に執着しているからに、ほかならない。

 それがわからなければ、逆の立場で考えてみればよい。
もしあなたなら、こういうケースのばあい、何と答えるだろうか。
久しぶりに、割と仲がよい知人に電話をした。
が、留守だった。
で、夜遅く、電話した。
9時ごろになって、やっと連絡が取れた。
その相手が、こう言った。
「やっと今、仕事が終わったところで……」と。

 いろいろな返事の仕方がある。

(1)「お疲れ様」と相手をねぎらう
(2)「体をこわすないでよ」と相手の健康を心配する。
(3)「がんばれよ」とエールを送る。

 返事の言い方はさまざまある。
そのつど、こちら側の心と反応する。
自分が睡眠不足であったりすると、「眠くないか?」などと言うかもしれない。
しかし「そんなに稼がなくてもいいんじゃない」は、ない?

 つまりその男はそう言いながら、自分の内部に潜む下劣性をさらけ出していた。

●他山の石

 こういう例は多い。
ひとつには、自分の心の中を、思わず吐露してしまうケース。
もうひとつは、醜い自分を、思わぬところで、さらけ出してしまうケース。
先に書いた「通俗」というのは、それをいう。

 では、どうするか。

 こういう不快感をどこかで味わったら、即、反面教師にする。
他山の石でもよい。
他山の石というのは、『他山の石以て玉を攻(おさ)むべし』という意味。
見本といっても、悪い見本。

 が、私にも、こんな失敗がある。
30代のころのことだったと思う。
ある日、オーストラリアの友人にこう聞いたことがある。
「君の給料はいくらだ」と。

 ご存知の人も多いかと思う。
オーストラリア人やアメリカ人に、給料を聞くのはタブー中のタブー。
当時の私は、金権教の信者(=亡者)。
反対に私の方が、叱られてしまった。

●金権教

 通俗と、どう闘っていくか。
自分の中の(通俗)である。
通俗であることが悪いというのではない。
しかし通俗とは、心のどこかで一線を引く。
そうでないと、その人の人間性は、一気に下劣化する。

 その一例というわけではないが、私が嫌いな番組に、『なんでも鑑定団』というのがある。
当初は「おもしろい」と思って見ていたが、やがて自分の心の中に、別の見方が育っているのを知った。
芸術の価値すら、金銭的価値で置き換えてみる見方である。
「この絵は、100万円の価値があるから、すばらしい絵」と。
それについては、以前にも書いたことがある。
原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●【金権教】(2009年6月に書いた原稿より)

●ぜいたくな悩み

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悩みといっても、本来、悩むような問題ではないかもしれない。
ぜいたくな悩みということは、よくわかっている。
この地球上では、約3分の1の人たちが、飢餓状態に
あると言われている。
食べるのもなくて、困っている。

が、そういう中、私は今、ときどきこんな選択に迫られる。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

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●レストランで……

 昨日、ワイフの誕生日祝いということで、郊外のホテルで昼食をとった。
フルコースの半分の、ハーフコースというのを注文した。
肉料理を省略したコースをいう。

 そのコースのあと、最後にデザートが出た。
最近はやりの、バイキング・デザートというのである。
10種類くらいのケーキから、好きなのを選んで、いくらでも食べられる。

 私はイチゴ系のケーキ、ワイフはオレンジ系のケーキを選んだ。
1個というよりは、ひとかけらと言ったほうがよい。
小さなケーキだった。
で、それを食べ終わるころ、ボーイが、「ほかに、どれになさいますか?」と
聞いてきた。
そのときのこと。
またあの選択が頭の中を横切った。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

 私は現在、ダイエット中。
昨日の朝、体重計に乗ってみたら、目標にしていた63キロ台!
この1か月半で、約5キロの減量に成功した。
「何としても、今の体重を維持しよう」と、心に決めていた、その矢先のことである。

 私はググーッとわいてくる食欲を懸命に抑えながら、「もう結構です」と答えた。
「食べたら損」のほうを、選択した。

●ムダ肉

 脂肪細胞というのは、わかりやすく言えば、エネルギーの貯蔵庫のようなもの。
ノートパソコンにたとえるなら、バッテリーのようなもの。
たとえば数日おきくらいにしか食べ物にありつけないような環境なら、脂肪細胞も
必要。
脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しておく必要がある。

 しかし現在の日本のように、1日3食、もしくは2食、食べるのが当たり前になって
いるような国では、脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しても、意味はない。
その必要もない。
必要なエネルギーは、そのつど摂(と)ればよい。
それに体は軽ければ軽いほどよい。
運動量もふえるから、筋肉も鍛えられる。
それが良循環となって、肉体は健康になる。
ポテポテとした肉体を引きずっていて、よいことは、何もない。

 が、どうしてか、「食べなければ損」という意識が、いつも働く。
どうしてだろう?
つまりこんなところでも、マネーの論理が働く。
「同じ値段なのだから、たくさん食べなければ損」と。
言い換えると、その人の健康観まで、マネーに毒されている(?)。
これは忌々(ゆゆ)しき問題と考えてよい。

●金銭的感覚

が、「損とは何か?」「得とは何か?」、それを考えていくと、
その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?

いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。

●○○鑑定団

私の大嫌いなテレビ番組に、『○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという、あの番組である。
しばらくああいう番組を見つづけていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)

「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。

その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。

 モノならまだしも、自分の健康となると、そうはいかない。
またそうであってはいけない。

●社会のCPU(中央演算装置)

 話は少し脱線する。

世の中には、「カルト」と呼ばれる、宗教団体がある。
正確には、「狂信的宗教団体」と言うべきか。
で、そういう団体に属する信者の人たちと話していて、いつも不思議に思うことがある。
10年前に、世間を騒がせた、あの宗教団体の信者の人たちにしても、そうだ。
会って、個人的に話をしている間は、ごくふつうの、どこにでもいるような人。
そういう狂信的な団体に属しているから、どこかおかしいのでは(?)と思って観察して
みるのだが、そういうことはない。
どこもおかしくない。
冗談も通ずる。
ふつうの常識も、もっている。

 が、全体として、つまりその団体を全体としてみると、やはりおかしい(?)。
集団となったとき、反社会的な行為を繰り返す。
団体の教義を批判したり、否定したりすると、彼らは猛烈にそれに対して反発する。
あるいはそのまま私たちを、ワクの外にはじき飛ばしてしまう。

 ……これは「カルト」と呼ばれるカルト教団の話である。
が、実は、私たちも全体として、同じような宗教を信仰しているのではないか。
「マネー教」というカルト教である。
その信者でいながら、全体がそうであるから、それに気がつかない。
そういうことは、じゅうぶん考えられる。

つまり社会のCPU(中央演算装置)そのものが狂っているから、その(狂い)すら、
自分で気がつくことができない。

●私の子ども時代

 このことは、私の子ども時代と比較してみてもわかる。
当時の特徴を2つに分けるとこうなる。

(1) 戦時中の軍国主義的な色彩が、まだ残っていた。
(2) その時代につづく金権主義の色彩は、まだ薄かった。

 軍国主義的な色彩というのは、たとえば教育の世界にも強く残っていた。
(学校の先生)にしても、戦時中のままの教え方をする人もいた。
反対に民主主義的な(?)教え方をする人もいた。
それがおもしろいほど、両極端に分かれていた。

 一方当時は、まだ牧歌的な温もりが残っていた。
私の父にしても、将棋をさしながら、仕事をしていた。
将棋に熱中してくると、客を待たせて将棋をさしていたこともある。
客が、その将棋に加わることもあった。

 そういう時代と比べてみると、たしかに(現代)はおかしい。
狂っている。
が、みな狂っているから、それが見えない。
わからない。

●飽食の時代の中で

 アメリカ(USA)では、肥満をテーマにしたエッセーを書くのは、タブーだそうだ。
それだけで、「差別」ととらえられるらしい。
しかしご存知のように、アメリカ人の肥満には、ものすごいものがある。
どうすごいかは、見たとおり。
あの国では、肥満でない人をさがすほうが、むずかしい。

 で、最近、私は日本もそうなりつつあるのを、感ずる。
アメリカ人型の肥満がふえているように思う。
飽食のせいというよりは、アメリカ型食生活の影響ではないか。
ともかくも、そういった人たちは、よく食べる。

このことは以前にも書いたが、浜松市の郊外に、バイキング料理の店がある。
ランチタイム時は、1人、1200円で、食べ放題。
そういうところで食事をしている人を見ると、まさに「食べなければ損」といった感じ。
デザートのケーキでも、一個を一口で食べている。
パク、パク、パク……の3回で、3個!

 食事を楽しんでいるというよりは、食欲の奴隷。
「食べる」というよりは、「食べさせられている」。
そんな印象すら、もつ。
もちろんそういう人たちは、例外なく、太っている。
歩くのも苦しそう。

 しかしそういう人ほど、「食べたら、損」なはず。
食べれば食べるほど、健康を害する。
が、そういう人たちほど、よく食べる。

●散歩の途中で

 私たちの日常生活は、マネーにあまりにも毒されすぎている。
それに気づかないまま、毒されすぎている。
芸術も文化も、マネー、マネー、マネー。
ついでに健康までも、マネー、マネー、マネー。
その一例として、「食べなければ損」について考えてみた。

 しかしどうして「食べなければ損」なのか。
たまたま今日、ワイフと散歩しながら、途中でラーメン屋に寄った。
今度から「ランチ・メニュー」が始まった。
ラーメン+ギョーザ+ミニ・チャーハンの3点セットで、580円。
安い!
私は、チャーシュー丼を注文した。
ワイフは、ランチセットを注文した。
が、とても2人で食べられるような量ではない。
ランチセットを2人で分けても、まだ量が多すぎる。
しかし1人分の料理を、2人で分けてたべるというのも、気が引ける。
で、2人分、頼んだ。

 が、そこでもあの選択。
「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか?

 私はチャーシュー丼には、ほとんど口をつけなかった。
そのかわり、ワイフが注文したランチセットを、2人で分けて食べた。
が、それでもラーメンの麺は、40%近く、食べないで、残した。

 大切なことは、「ラーメンの味を楽しんだ」という事実。
味を楽しめばじゅうぶん。
目的は達した。
「もったいないから、食べてしまおう」と思ったとたん、マネー教の虜(とりこ)
になってしまう。

●マネー教からの脱出

 お金がなければ不幸になる。
しかしお金では、幸福は買えない。
心の満足感も買えない。
お金の力には、限界がある。
が、その一方で、人間の欲望には、際限がない。
その(際限なさ)が、ときとして、心をゆがめる。
ゆがめるだけではない。
大切なものを、大切でないと思い込ませたり、大切でないものを、大切と
思い込ませたりする。

 子どもの世界でそれを考えると、よくわかる。

 10年ほど前のこと。
1人の女の子(小学生)が、(たまごっち)というゲームで遊んでいた。
私はそれを借りて、あちこちをいじった。
とたん、あの(たまごっち)が死んでしまった。
その女の子は、「たまごっちが死んでしまったア!」と、大声で泣き出した。

 私たちはそういう女の子を見ると笑う。
しかし本当のところ、私たちはその女の子と変わらないことを、日常的に
繰り返している。
繰り返しながら、それに気づかないでいる。

●ではどうするか?

 私たちはカルト教団の信者を見て、笑う。
「私たちは、あんなバカではない」と。
しかし同じようなバカなことをしながら、そういう自分に気づくことはない。
自分を知るというのは、それくらい難しい。

 つまり自分自身を、そうしたカルト教団の信者に置き換えてみればよい。
あなたならそういう信者を、どのようにして説得し、教団から抜けださせることが
できるだろうか。

 いきなり頭から「あなたは、まちがっている!」と言ってはいけない。
梯子(はしご)をはずすのは簡単なこと。
大切なことは、同時に、その人に別の救いの道を提示すること。
それをしないで、一方的に、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
同じように、自分に対して、「私はまちがっている」と思ってはいけない。
大切なことは、自分の中で、別の価値観を創りあげること。

 方法は、簡単。
常に、何が大切で、何が大切でないか、それを問い続ければよい。
何があっても、それを問い続ける。
あとは、時間が、あなたを導いてくれる。
やがてその向こうに、その(大切なもの)が、見えてくるようになる。

 (見えてくのもの)は、それぞれみなちがうだろう。
しかし見えてくる。
その価値観が優勢になったとき、マネー教はあなたの中から、姿を消す。

●食べたら損

 で、結論は、「食べたら損」ということになる。
いっときの欲望を満足させることはできるが、かえって健康を損(そこ)ねる。
同じように、いくらそのチャンスがあったとしても、人をだましたら、損。
ずるいことをしたら、損。
自分を偽ったら、損。
その分だけ、心の健康を損なう。

 「損(そん)」とは、もともと「損(そこ)なうこと」をいう。
失うことを、「損」というのではない。
が、今では、金銭的な損を、「損」という。
またそういうふうに考える人は多い。

 「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか。
そういうふうに迷うときがあったら、あなたも勇気を出して、「食べたら損」を
選択してみたらどうだろうか。
たったそれだけのことだが、あなたの心に、何らかの変化をもたらすはず。

 ついでに言うなら、マネーが日本で、一般社会に流通するようになったのは、
江戸時代の中期ごろから。
このことについては、以前、私がかなり詳しく調べたから、まちがいない。
つまりそれまでは、日本人は、マネーとは無縁の生活をしていた。
私が子どものころでさえ、「マネー」を、おおっぴらに口にすることは、
卑しいこととされていた。
それが今は、一変した。
何でも、マネー、マネー、マネーとなった。
マネー教の信者になりながら、信者であることにさえ気がつかなくなってしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(付記)

 「食べ物を残すことはもったいない」という意見に、一言。

レストランへ行くと、「お子様ランチ」というのがある。
同じように、「シルバー・ランチ」、もしくは「シルバー・メニュー」のようなものを、
もっと用意してほしい。

 最近の傾向として、レストランでの料理の量が、多くなってきたように感ずる。
全国規模で展開しているレストランほど、そうで、たいてい食べ残してしまう。
しかしこれは食料資源という面で、「もったいない」。
私も、そう思う。
だから高齢者向けに、高齢者用のメニューをふやしてほしい。

 「カロリー少なめ、塩分少なめ、糖分控え目、ハーフサイズ」とか。

 もちろん値段も、その分、安くしてほしい

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW BW教室 マネー教 金権教 金権教団 はやし浩司 なんでも鑑定団 お宝鑑定団 金権教 マネー教)

++++++++++++++++++はやし浩司

●欲望性

 こうして考えてみると、「通俗」というのは、「マネー」にいかに毒されているかで決まるということになる。
わかりやすく言えば、そのさらに向こうにある(欲望)と結びついている。
欲望性が強ければ強いほど、人は通俗になる。
わかりやすく言えば、欲望に溺れるまま生きている人は、通俗的になる。
異論もあるだろうが、それほど的をはずしていない(?)。

 が、マネーと権力。
この2つには恐ろしいほどの魔力がある。
それでもって、相手の価値を判断したり、自分の価値を判断したりする。
こちら側が積極的に闘う姿勢を見せないかぎり、あっという間に、その毒牙にかかってしまう。

 金権を手中に収め、おごり高ぶることも、毒牙。
反対に、金権といえるようなものもなく、自分を過小評価するのも、これまた毒牙。
冒頭で、私はある男の話を書いた。
「林さん、そんなに稼がなくてもいいんじゃない」と言った、あの男の話である。

 考えてみれば、なぜ私がああまで不愉快に思ったかといえば、私自身の中に潜む金権教を、その言葉がえぐり出したからとも考えられなくはない。
「痛いところを突かれた」……そうも考えられなくはない。

 しかしその人の文化性の高さは、いかに通俗的でないかによって、決まる。
最後に私がオーストラリアで経験した話を載せる。
これも古い原稿である。
もともとは「意識」について書いた原稿である。
ここでいう「通俗性」の理解に役立てば、うれしい。

++++++++++++++++++はやし浩司

【意識論】

++++++++++++++

自分がもっている(意識)ほど、
アテにならないものはない。

「私は私」と思っていても、
そのほとんどは、(作られたもの)。
本当の「私」など、どこにもない?

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●日本の商社マンは、軽蔑されている?

 今から、40年も前のこと。日本には、まだ綿棒もなかった。バンドエイドもなかった。乾燥機もなかった。ほとんどの家では、まだボットン便所を使っていた。

 そんなとき、私は、オーストラリアのメルボルン市へと渡った。人口300万人(当時)のメルボルン市ですら、日本人の留学生は、私1人だけだった。そんなある日のこと。ある友人(顔は覚えているが、名前をどうしても思い出せない)が、私にこう言った。

 「ヒロシ、日本の商社マン(ビジネスマン)は、オーストラリアでは、軽蔑されている」と。「軽蔑(despise)」という言葉を、はっきりと使った。

 その少し前にも、仲のよかったD君もそう言った。それで気になって、その友人に、私はこう聞いた。

 「いったい、君は、日本の商社マンのどこを見て、そう思うのか?」と。すると、その友人は、こう話してくれた。

 その友人の父親も何かのビジネスをしていたらしい。そしてあるとき、日本の商社マンと知りあいになった。その商社マンを、食事に招待した。向こうの人たちは、少し親しくなると、自宅へ食事に招待する習慣がある。

 で、いっしょに食事をしているときのこと。日本の商社マンは、家の中をあちこち見まわしながら、目ざとく日本製を見つけ、「これは日本製」「あれも日本製」と言いだした。日本の商社マンにしてみれば、親近感をもってもらいために、そう言ったのかもしれない。が、オーストラリア人であるその父親にしてみれば、不愉快だった。

 しかしそれで終わったわけではない。食事がすむと日本の商社マンは、大きなバッグから、何かの繊維見本を見せて、「これを買わないか?」ともちかけたという。その父親は、取り扱い分野がちがうからという理由で、それを断った。するとすかさず、今度は、何か別の商品を取り出し、「これはどうだ?」と迫ったという。

 ……つまり、そういう経験から、その友人の父親は、日本の商社マンを軽蔑するようになったという。それでその友人は、そう言った。

●しかし……

 しかし当時の私は、その話を聞いて、日本の商社マンのそうした行為が、どうして「軽蔑」につながるのか、それが理解できなかった。私自身も、日本の商社への入社が内定していたこともある。その上、当時の日本の経済は、高度成長期へと突入しつつあった。日本中が、「マネー」「マネー」の大合唱に揺れていた。

 それに羽田―シドニー間の航空運賃(往復)だけでも、42、3万円の時代である。大卒の初任給が、やっと5万円を超えた時代である。しかもオーストラリアドルは、1ドルが、400円に固定されていた。

 オーストラリアでの生活費は、日本での生活費の、10倍、もしくはそれ以上だった。オーストラリアへやってきた商社マンたちも、それゆえ、必死だった。

 今でこそ、日本は豊かになった。しかし当時の日本人のだれが、日本がここまで豊かになると予想しただろうか。私はあるとき日記に、こう書いたのを覚えている。「日本が、オーストラリアに追いつくためには、50年かかる。あるいは、100年でも不可能かもしれない」と。

 ほとんどの学生は、車をもっていた。学生の親たちは、別荘をもっていた。農場を経営していたT君(南オーストラリア州)の父親の年収は、1400~1500万円(当時)もあった。ごくふつうの、平均的な農場主である。

 「1400~1500万円」と聞くと驚く人もいるかもしれないが、1ドルを400円で計算すると、そうなった。とくにリッチな生活をしていたわけではないのだが……。

●作られる意識

 一方、私たちはどうかというと、みな、就職といえば、迷わず、銀行、証券会社、商社の道を選んだ。またそれが学生が進むべき道として、正しい方向と信じていた。

 私も三井物産という会社と、伊藤忠商事という会社の2社の入社試験に合格した。しかし「大きいほうがいい」ということで、三井物産という会社にした。

 日本でいえば「商社マン」だが、オーストラリアでは、「ビジネスマン」。その商社マンが、軽蔑されていると知って、心底、驚いた。私は、商社マンは尊敬されることはあっても、軽蔑される存在などとは、考えたこともなかった。

 が、こうした意識も、同じように外国からやってきた留学生たちの意識とくらべてみると、作られたものだということがわかった。たとえばフィリッピンからやってきた留学生は、こう言った。

 「ヒロシ、君は、どうして日本の軍隊に入らないのか?」と。

 当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になること、イコール、出世コースということになっていた。(今も、基本的にはそうだが……。)彼らがもっていた、軍事としてのエリート意識には、相当なものがあった。

 一方、私は私で、ほかに自慢できるものがなかったこともあり、ことあるごとに、私は、「日本へ帰ったら、ミツイ&カンパニーの商社マンになる」と、言っていた。が、先の友人は、こう言った。

 「ヒロシ、そんなことを言うのは、もうよせ。君は知らないかもしれないが、日本の商社マンは、ここオーストラリアでは、軽蔑されている」と。

●それから40年

 それから40年。私ももうすぐ60歳になる。三井物産という会社は、どうにもこうにも肌に合わなくて、入社後半年を待たずして、やめた。

 理由はいろいろある。が、その前に、私の意識そのものが変わってしまった。その話はともかくも、今度は、反対の立場で、似たような経験をすることになった。

 いきさつはともかくも、ある女性から、ある日、電話がかかってきた。「どうしても会いたいので、会ってほしい」「お伝えしたいことがある」と。

 二男が高校生のとき世話になった友人の母親からのものである。私はその申し出をていねいに受けた。そして食事に招待することにした。

 私はその母親と会うことについて、かなり緊張した。そのとき二男はすでにアメリカに渡っていた。内心では、二男が何かトラブルでも起こしたのではないかと心配していた。

 が、食事は始終、よい雰囲気のままだった。私はほっとした。が、そのあとのこと。私がおもむろに、「で、大切な話というのは何ですか?」と切り出した。

 とたんその母親の表情が、さらに緩(ゆる)んだ。その母親は、こう言った。

 「林さん、こういう健康食品がありますが、興味ありません?」と。

 その母親は、ズラズラと、テーブルの上に健康食品を並べた。とたん、私はむっとするような不快感を覚えた。「私に会いたいというから会ったが、こんな話で会いたかったのか!」と。

 利用されたという不快感。金儲けに利用されたという不快感。そういう商品を売りつけられるという不快感。そうした不快感は、その女性が、「漢方」という名前を出したときに、頂点に達した。

 漢方(東洋医学)の「カ」の字も知らない女性が、私に漢方の説明をし始めた。そしてこうも言った。

 「林さんは、お顔も広いようですから、ほかに買ってくださる方を紹介してくださったら、1個につき、xx%のマージンをさしあげます」と。

 私は、そのときは、はっきりとこう言った。その少し前にも同じような経験をしたこともあった。「お帰りください。あなたが話があると言ったから、こういう場を用意しました。しかしモノを売りつけるために、こんな場を利用するなんて、失敬でしょ!」と。

 私は、その瞬間、40年前の、あのオーストラリアの友人の言った言葉を思い出した。

●意識

 私たちがもっている(意識)ほど、アテにならないものはない。40年前のその少しあと、私は、三井物産という会社をやめ、そのあとしばらくして、幼稚園の講師になった。それについても、当時の私を知る人たちは、みな、こう言った。

 「あの林は、頭がおかしくなった」と。

 たしかに私の頭はおかしい。今も、おかしい。それはわかる。しかしそうした私を支えてくれたのは、実は、オーストラリアの友人たちだった。私が幼稚園で働いていると手紙に書くと、みな、こう言った。

 「ヒロシ、すばらしい選択だ」と。

 今でこそ、私のような生き方をする人がふえてきた。だから商社マンをやめて、幼稚園の講師になった人がいたとしても、それほど目立たない。しかし当時は、ちがった。私の母ですら、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と。

 けっして母を責めているのではない。母は、母で、当時の常識をもとにして、そう言った。「常識」というよりは、「意識」と言ったほうがよいかもしれない。

 で、この話の結論。

 私たちは、無数の意識をもっている。しかしその意識にも、2種類ある。意識的に意識する意識と、無意識のまま意識しない意識である。

 脳みその活動をもとにすると、私たちが意識できる(意識)というのは、脳みそ全体の数10万分の1にもならないという。あるいは、もっと少ないかもしれない。

 つまり人間の脳みその中には、無意識のまま意識しない意識のほうが、絶対的に多いということ。ほとんどがそうであるとみてよい。

 この無意識のまま意識しない意識が、実は、私たちの意識を、ウラから操る。が、その操られる私たちは、それに気づかない。操られていると知ることもなく、操られている。実は、ここに、(意識)のおもしろさというか、恐ろしさがある。

 ……ということで、この話は、おしまい。今までに「意識」について書いた原稿を、ここに添付する。

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●指で鼻をさす(教育のダークサイド)

 子どもたち(小学生)は、「自分」を表すとき、指で鼻先を押さえる。欧米では、親指で自分の胸を押さえる。そこで私はいつごろから、子どもたちが自分の鼻を押さえるようになるかを調べてみた。「調べた」というのもおおげさだが、授業の途中で、子どもたちにどうするかを聞いてみた。

結果、年長児ではほぼ全員。年中児でも、ほぼ全員。年少児になると、何割かは鼻先を押さえるが、ウロウロと迷う子どもが多いということがわかった。そんなことで、こういう習慣は、四歳から五歳ぐらいにかけてできるということがわかった。つまりこの時期、子どもたちは誰に教えてもらうわけでもなく、いつの間にか、そういう習慣に染まっていく。

 私は何も、ここでジェスチャについて書くつもりはない。私が言いたいのは、教育には、常に「教えずして教える」という、ダークサイドの部分があるということだ。これはジェスチャという、どうでもいいようなことだが、ものの考え方や道筋、思考回路などといったものも、実はこのダークサイドの部分でできる。

しかもその影響は、当然のことながら、幼児期ほど、大きい。この時期に論理的なものの考え方を見つけた子どもは、ずっと論理的なものの考え方ができるいようになるし、そうでない子どもは、そうでない。そればかりではない。

この時期に、人生観や価値観の基本までできる。異性観や夫婦像といったものまで、この時期に完成される。少なくとも、それ以後、大きく変化するということはない。そのことはあなた自身を静かに観察してみれば、わかる。

 たとえば私は、今、いろいろなことを考え、こうして文を書いているが、基本的なものの考え方が、幼児期以後、変わったという記憶がない。途中で大きく変化したということは、ないのだ。今の私は、幼児期の私であり、その幼児期の私が、今の私になっている。それはちょうど金太郎飴のようなもので、私の人生は、どこで切っても、「私」にほかならない。幼児期に桃太郎だった私が、途中で金太郎になるなどということは、ありえない。

 もうわかっていただけると思うが、幼児教育の重要性は、実はここにある。この時期に作られる「私」は、一生、「私」の基本になる。あるはその時期にできた方向性に従うだけである。中には幼児教育イコール、幼稚教育と考えている人がいるが、それはとんでもない誤解である。

 ……と書いたところで、今、ふと、別のことが頭の中を横切った。実は今、ある男の子(小二)のことが気になっている。彼は男の子なのだが、言い方、ものごしが、女の子っぽいというより、その女の子を通り越して、同性愛者ぽい。まちがいを指摘したりすると、「イヤーン」と甘ったるい声を出したりする。いくら注意してもなおらない。

で、私が悩んでいることは、このことではなく、それを親に言うべきかどうかということだ。もうこの傾向は、ここ1年以上続いている。
なおそうとしてもなおるものではないし、さりとて放置しておくわけにもいかない。放置しておけば、彼はひょっとしたら、一生、そのままになるだろう。近く、結論を出すつもりでいる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 教えずして教えてしまうこと。実は、これがこわい。ユングも、「シャドウ」という言葉を使って、それを説明した。

 たとえばあなたが、本当は邪悪な人間であったとする。その邪悪さをおおいかくして、善人ぶっていたとする。そのときその邪悪さが、その人のシャドウとなる。子どもは、あなたの近くにいるため、そのシャドウをそのまま引き継いでしまう。

 要するに、ウソやインチキ、ごまかしや仮面で、いくら善人ぶっても、子どもはだませないということ。子どもは、あなたのすべてを見ている。

 そういう意味で、子育ては怖いぞ~オ!

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内容が少しダブりますが、
こんな原稿を書いたこともあり
ます。
(中日新聞、掲載済み)

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●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学していたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、正規の日本人留学生は私1人だけ。(もう1人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、1通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんやの非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コースということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、ある日、1番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言える。

こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。

私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア~」と。母は母の時代の常識にそってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。

しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 通俗性 はやし浩司 金権教 はやし浩司 ディスパイズ despise  軽蔑という言葉を使った)2011/11/19記

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