最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●道徳の完成論(3)

2009-06-22 07:26:06 | Weblog


●あのK国が……

あのK国が言うにこと欠いて、今度はこんなことを言い出した。

「(開城工業団地の)道路を傷つけたら、罰金1万ドル」と。

まあ、よくもこういうアホなことを、つぎからつぎへと言うものだ。
道路どころか、建物、インフラ(電気、ガス、下水道)すべてを韓国に作らせて
おきながら、それを傷つけたら、「罰金、1万ドル」とは!

(1万ドルという罰金も、法外! 日本円に価値換算すると、1億円!)

中央N報によれば、「賃上げなどに応じない企業をねらいうちにするための措置」とか。
記事の一部を紹介する。

『……中央日N報が入手した計44条項にのぼる細則の草案は、「民族経済、道路運輸に向
けたもの」としている。しかし「道路の建設・管理・利用における制度・秩序を厳しく決
める」と明記し、目的が統制・制裁にあることを暗示している。また、大半の条項が、韓
国側が守るべき義務とそれを違反した場合に科する罰金に関する内容だ。

したがってK国が各種の規制で韓国側に圧力を加えると同時に同団地への統制権を強化
し、韓国側がこれを拒んだ場合、団地の存廃に触れる狙いだと懸念する声があがっている。
細則の草案は「乱れている車、環境を汚染する車、道路に損傷を与えうる車」の運行を禁
止し、「車両の運行に支障をもたらす行動」を禁止するとした。

K国にとって都合のいい解釈が可能な部分だ。最高1万ドル(約96万円)にのぼる罰金
条項も新設した。入居企業にも、道路建設への投資を拡大し、管理委員会に道路使用料を
納めるよう求め、企業の負担が増えるものとみられる。自転車道と芝・街路樹などを備え
た「最上級」の道路の建設も求めた……』
『…… ある入居企業の関係者は「草案通りならK国側が突然一斉取締りを行い、統制に乗
り出すことができるということだが、賃上げなどを受け入れない企業をターゲットにした
取締りで圧力を加えることができる」と懸念した』
(09年5月21日)と。

つぎからつぎへと、無理難題をふっかけてくるK国。
でたらめばかり言ってくるK国。
韓国側が見るに見かねて、助けているのにもかかわらず、この調子。
『……自転車道と芝・街路樹などを備えた「最上級」の道路の建設も求めた』という
部分も、笑えてくる。
そんなに「最上級の道路」とやらがほしければ、自分たちで建設したらよい。

が、これは何も韓国とK国の間の問題ではない。
やがて日本も、巨額の戦後補償費をK国に支払わねばならないときがやってくる。
そのとき同じような問題が、起きてくる。

約束など、あってないようなもの。
条約や取り決めですら、平気で反故(ほご)にする。
そしてやさしくしてやると、どこまでもつけあがる。
それがK国の本質と考えてよい。

まあ、いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
何からなにまで、あの国は、常識をはずれている。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●雑感

●消えた手続き記憶

FLASHというのが、ある。
HPなどの上で、勝手に画像をパッパッと切り替え、まるでビデオの
ように見える、あれである。
私のHPの最上段でもそれを利用している。

で、そのFLASH使うようになって、もう3年近くになる。
買った当時、あれこれと悪戦苦闘したものの、なんとか、使いこなせるまでになった。
いろいろなFLASHを、自分で制作した。
HPのFLASHも、自分で制作した。
(「制作した」と言えるような大げさなものではないが……。)

で、昨日の夜、再度挑戦してみた。
3年ぶりである。
ところが、である。
「こんなのはビデオの編集と同じ」と思って始めてみたが、それが???の連続。
どうもうまくいかない。
「どうしてだろ?」と思いつつ、30分ほどが過ぎたところで、ギブアップ。

ちょうど床に就く時刻だったので、ガイドブックを片手に、ふとんの中へ。
それを読みながら、軽い敗北感のようなものを味わった。
「記憶というのは、そういうものか?」と。

幸いなことにガイドブックをながめていたら、おぼろげながら使い方を思い出した。
もともと不親切なガイドブックである。
できの悪いガイドブックである。
そのことも思い出した。

「今度の日曜日に、再挑戦してみよう」ということで、そのまま眠った。
これから先、こういうことが多くなる……?
新しいことを覚えても、一方で、どんどんと忘れていく。
そんなわけで、脳みそというのは、常に鍛える。
それを怠ったとたん、あとは後退の一途。
私の年齢では、とくにそうである。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●さわやかな風

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5月のさわやかな雨上がりの朝、ガーデン・パークに
来てみた。
(ガーデン・パーク……浜名湖の北にある、無料公園。)
ライトブルーの空を背景に、若葉の輝く景色が美しい。
それをぼんやりと眺めていると、やさしい風が
汗ばんだ頬や顔を、静かに冷やしてくれる。

もし「天国」と呼ばれる世界があるなら、きっと、
こんな世界をいうにちがいない。
「極楽」でもよい。

そう、ここはまさに天国だ。

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●休息

デジタルカメラで、花の写真を撮る。
そういうときの私は、無我夢中。
「きれい!」と思ったつぎの瞬間には、シャッターを切る。
パシャ、パシャ、パシャ……と。

こう書くと、花を楽しむ時間がないのではと心配する人もいるかもしれない。
が、心配ご無用!

たった今も軽い食事を終えて、屋根のある小さなベンチに座って、この
文章を書いている。
木々の小枝が、音もなく、たがいにせわしく、こすりあっている。
遠くで子どもの声もする。
鳥のさえずり。
もう30分以上も、こんなことをしている。
言い忘れたが、たった今、お茶を飲んだところ。

●雑念

こういうときというのは、無数の雑念が、つぎからつぎへとわいては消える。
思いつくまま、書き留めてみる。

……たった今、目の前を通り過ぎた、4人組の女性たち。
いつものように、ペチャペチャと、おしゃべり。
女性がグループをつくると、どうしてこうまでおしゃべりになるのだろう。

……チチ、ピピピッと小鳥の声。
コジュウカラか、コガラか?

……大手を振って歩く男。
太りすぎもよくないが、足が、鳥のガラのようでも困る。
先ほど通り過ぎた男の足は、鳥のガラみたいだった。
今、通り過ぎた男は、太りすぎ。
ダイナミックな歩き方からみると、体力にはかなり自信があるらしい。
年齢は、40歳くらいか。

……ワイフが鏡をのぞいて、なにやら気にしている。
あの年齢になっても、女な女かな?

……我が家の庭も、庭園風にしようか。
それとも一面、すべて畑にしようか。
頭の中で、設計図をいろいろと考える。

そんなことを考えていたら、背中の力が抜け始めた。
脳みそは、うたた寝モード。
目を開いているだけでも、つらい。

それに気づいたのか、今、ワイフがこう言った。
「そこで横になったら?」と。

(このあとワイフのひざ枕で、30分ほど、昼寝。)


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司

「生きること」を考える

●観念論vs実存論

おおざっぱに言えば、世の中には、2つの大きな考え方がある。
ひとつは、(1)「私は親に産んでもらった」「先祖があるから、私がいる」
という考え方。
もうひとつは、(2)「私が生まれたら、親がいた」「生まれてみたら先祖がいた」と
いう考え方。
前者は、観念論ということになるし、後者は、実存論ということになる。

おもしろいことに、私の母は、根っからの観念論者だったが、父は、どちらかというと、
実存論者だった。
母は熱心な信者だったが、私は父が仏壇に手を合わせたり、墓参りをしたのを
見たことがない。
天皇を、「天皇」と呼び捨てにしただけで、殴られたことはあるが、それ以外に
信仰らしい信仰はしていなかった。……ようだ。

で、この両者のばあい、とくに大きくちがってくるのが、神や仏の捕らえ方。
神や仏に対する考え方で、2つのうちどちらをとるかで、生き様は決定的に分かれる。
前者は、「神によって、私たちは作られた」と考える。
後者は、「人間が神を作った」と考える。
(実際には、仏教でいう仏というのは、心の中に存在する善なる概念をいう。
キリスト教でいう神のような存在を、仏教では認めない。)

こうしたちがいは、「死」についての考え方に、大きな影響を与える。

前者は、「死んでも魂(霊)は残り、現世と何らかの関係を保つ」と考える。
後者は、「死んだら、自分の肉体、精神とともに、この宇宙すべてが消えてなくなる」と
考える。
「この宇宙すべてが消えてなくなる」というのは、それを認識する「私」という母体が
消滅するのだから、少なくとも私は認識でない。
たとえて言うなら、熟睡しているときの自分を思い出せばよい。
熟睡しているときに、宇宙を認識することなど、できるだろうか。
夢で宇宙らしいものを見ることはあるが、死ねば、その夢も見ない。
だから「消えてなくなる」ということになる。
では、どちらが正しいのか。

●生まれる前

そのヒントとなるのが、生まれる前。
「私」が生まれる前は、どうであったかということ。
死んだあとは、生まれる前と同じ状態と考えるのは、それほどまちがっていない。
もし死んだあと、あの世に行って、この世のことがわかるとするなら、
生まれる前にだって、この世のことがわかるはず。

たとえば私は戦後の生まれだから、あの戦争を知らない。
母の話によれば、岐阜市が大空襲にあったとき、空は真っ赤に燃えあがり、みな
家財道具を乳母車に積み、あちこちを逃げ回ったという。
母は、そのとき死を覚悟したという。
しかしもちろん、私にはその記憶はない。
どこかにその記憶あれば、私は生まれる前から、どこかに存在したということになる。
何しろ、強烈な印象である。
私が生まれる前から、私は存在していたとするなら、そうした記憶の片鱗くらい、
記憶の中に残っていても、おかしくない。

が、何も残っていないということは、やはり生前の私は、この世界に存在しなかった
ことになるのでは……?

さらに言えば、地球の歴史は60億年ともいうが、その60億年の記憶すらない。
その実感となると、これまた、まったく、ない。

私が生まれる前には、この宇宙は存在したのか?

が、もちろんこの宇宙は存在した。
ビッグバンの時代から、この宇宙は存在した。
となると、「私」という個体は死んでも、この宇宙は存在することになる。
「私」は消えても、この宇宙は存在することになる。
そのことは、周囲で死んでいく人たちをみればわかる。
その人は死んで、跡形もなく消えるが、この宇宙はそのまま。
現に今、そのまま残っている。
ということは、「私が死んだら、私もろとも、この宇宙は消えてなくなる」という
考え方は、合理性を失う。
しかし、だ。
が、ここで、また新しい考え方が登場した。

●大宇宙は、無数にある

S・ホーキング博士という、天才的頭脳をもった科学者が現れた。
その科学者が、こんなことを言った。

実は、私が今住んでいるような宇宙というのは、これまた無数にあって、しかも
ここにも、そこにも、あそこにもあるという。
ぎっしりと、この宇宙の中に詰まっているという。
この世に宇宙は、けっしてひとつではないという。

今、私たちがこの宇宙に住んでいるのは、偶然にそのまま偶然にすぎない。
生まれてみたら、たまたまこの宇宙に生まれていた。
「たまたま」だ。
簡単に言えば、そういうことになる。

そこであたりを見回してみる。
ホーキング博士は、私たちが住んでいるような宇宙は、無数にあるという。
が、ホーキング博士が説くような宇宙を、私は見ることができない。
ここにも、そこにも、あそこにも、広大な宇宙があるというが、それを見ること
ができない。
感ずることさえできない。
たまたま今、夜空を見あげれば、そこにあるのは、この大宇宙。
私たちが今、住んでいる、この大宇宙。
大宇宙だけ。
そこに無数の星が見えるのは、たまたま私が、この大宇宙に生まれたからにほかならない。
たしかにその大宇宙だけは、見ることができる。

しかしその「私」が、もし、どこか別の大宇宙に生まれていたとしたら、どうなのか?

私は今、ここに住んでいる大宇宙を、見ることはできるのか。
こちらから向こうの大宇宙は見ることができない。
だから向こうの大宇宙に生物がいたとしても、こちらを見ることはできない。
そちらの大宇宙に生まれていたら、今のこの大宇宙を、存在しないものとして考えるに
ちがいない。

話が混乱してきたが、私たちが今、「ここに存在する」と断言してはばからない、この
大宇宙にしても、存在していないということになってしまう。
存在しているか、存在していないかということになれば、そういうことになる。

たまたまこの宇宙の中で、生を受けた。
だからたまたまこの宇宙を、認識できる。
仮に、100歩譲って、死んだあとあの世で生まれ変わるとしても、その「あの世」
という宇宙は、「この世」という宇宙とは、似ても似つかない世界と考えるのが
正しい。
しかもどの宇宙で生まれ変わるか、それすらもわからない。

何しろ、そうした宇宙が、ここにも、そこにも、あそこにも、無数にある。
数をあげろと言われたら、「無限大」ということになる。
生まれ変わって、再びこの世にやってくる確率となると、かぎりなくゼロに近い。
1等1億円の宝くじを、数億回つづけて当てる確率より、さらに低い(?)。
しかしこれも(生まれ変わり)があるとするならの話。
もしそれすらもないとしたら、……?

●生まれていない孫から見ると……

反対に、こんなふうに考えてみたら、どうだろうか。
最近、私の三男が結婚した。
まだ新婚ホヤホヤというのに、もう子どもができるのを楽しみにしている。
私にとっては、孫ということになる。

もちろん孫は、まだ存在していない。
三男の嫁の胎内にも、存在していない。
その孫は、今、どこにいるのか。
やがて生まれてくるであろう、その孫は、どこにいるのか。

もし死後の世界があるとするなら、当然、生まれる前の世界もあるはず。
どこかに孫がいて、この世に生まれるのを、その世界で待っていることになる。
この大宇宙の中で、か?
それとも別の大宇宙の中で、か?

で、その孫にしてみれば、こちらから見えないのと同じように、向こうからも、
こちらの世界が見えないはず。
今、この世界に存在していないとするなら、孫から見れば、この世界は存在して
いないことになる。

仮に生まれ変わりがあるとしても、死んだら、この世は存在しなくなる。
ちょうど孫から見たら、今のこの宇宙が存在しないように、この世は存在しなくなる。
まだ生まれていない孫と同じ状態になるとしたら、そういうことになる。

(自分でも何を書いているか、よくわからない……ゴメン!
要するに、今、私たちが、「ある」と主張する、この宇宙にしても、ホーキング博士
が説く宇宙のひとつにすぎない。
つまりほかの無数の宇宙と同じように、この宇宙も、たいへん不可思議な世界だという
こと。
私たちは、光と分子の織りなす世界で、「これが宇宙」と思い込まされているだけ。

さらにたとえて言うなら、パソコンのゲームの世界に入り込んでいるだけ。
そんなふうにも考えられる。)

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