最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子育て失敗危険度X

2009-02-08 19:36:52 | Weblog
うちの子はやればできるはず!
身のほど知らず(失敗危険度★★★★★)

●それを言ったら、おしまい
 子どもを信ずるのは大切なことだが、それにも限度がある。その能力のない子どもの親から、「何とかしてほしい」と言われることぐらい、つらいことはない。思わず「遺伝子の問題もありますから」と言いそうになるときもある。が、それを言ったら、おしまい。

●三割削減
 最近だと、学習内容が全体で三割程度削減されることになった。それについて、「このあたりには私立の小学校がないが、どうしたらよいか」と相談してきた親がいた。私立の小学校では、今までどおりの授業をすると思っているらしい。が、それはそれとして、その子ども(年長男児)は私がみたところでも、学校の授業についていくだけでもたいへんだろうな思われる子どもだった。そういう子どもの親が三割削減の心配をする? むしろ三割削減を喜ぶべきではないのか。そう言えば、名古屋市で学習塾を開いているY氏も同じようなことを言っていた。「クラスでも中位以下の子どもの親から、(最上位の)S高校へ入れてくれと言われるくらい、困ることはないよ」と。

●親の過剰期待
 が、この期待が子どもに向かうと、過剰期待になる。何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど子どもを苦しめるものはない。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。事実そのとおりだが、やる、やらないも力のうち。「やればできる」と思ったら、「やってここまで」とあきらめる。が、これがむずかしい。

 誤解、その一……むずかしいワークをやればやるほど、勉強ができるようになるという誤解。しかし事実はまったく逆。無理をすればそのときは多少の力はつくかもしれないが、しかしそういう無理は長続きしない。(勉強から逃げる)→(親がますます無理をする)の悪循環の中で、子どもはますますできなくなる。

 誤解、その二……勉強の量(勉強時間)をふやせばふやすほど、勉強ができるようになるという誤解。しかしダビンチもこう言っている。「食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない」と。意欲をともなわない勉強は、身につかないということだが、実際には逆効果。子どもは時間ツブシや、フリ勉がうまくなるだけ。しかも小学校の低学年で一度、勉強から逃げ腰になると、以後、それをなおすのは不可能といえるほど、なおすのがむずかしくなる。

 誤解、その三……訓練すればするほど、勉強ができるようになるという誤解。たしかに計算や漢字の学習は、訓練すればするほど、それに見合った効果が期待できるときもある。しかし計算力があるからといって、算数の力があることにはならない。漢字をよく知っているからといって、国語(作文)の力があることにはならない。もう少しわかりやすい例では、年中児ともなると、ペラペラと本を読む子どもが出てくる。しかしだからといって、その子どもは国語の力があるということにはならない。たいていは文字を音に変えているだけ。

●一人の母親がやってきた
 しかし母親にはそれがわからない。夏休みになる少し前、一人の母親が私をたずねてきた。私の本の読者だというので、私もその気になっていたが、会うとこう言った。「うちの子は言葉も遅れた。二年生になるとき、特別学級(養護学級)をすすめられているが、今のところ何とか断ることができた。何とか学校の勉強についていきたいので、先生(私)のところで夏休みのあいだだけでもいいから、めんどうをみてくれないか」と。

●ワークブックがぎっしり!
 で、その子どもに会うと、カバンの中に難しいワークブックがぎっしりと詰まっていた。ふつうJ社、G研、O社のワークブックは買ってはいけない。J社のワークブックは、難解な上に、問題がひねってある。G研やO社のワークブックは、問題の「落差」が大き過ぎる。たとえば同じ見開きのページの中でも、左上の一番の問題は、眠っていてもできるような簡単な問題。が、右下の最後の問題は、「こんな問題、できる子どもがいるのだろうか?」と思うほどむずかしい問題であったりする。つまり落差が大き過ぎる。

こうしたワークをかかえたら最後、子どもの学習はそこでストップしてしまう。その子どものワークブックはそのJ社のものばかりだった。しかも、問題量が多いというか、こまかい字のものばかり! 親としては、問題量が多いということは、それだけ「割安」と考えるのかもしれないが、それも誤解。ワークブックはスーパーで買う食品と同じに考えてはいけない。

●ワークブックが足かせに
 ついでながら、子どものワークブックを選ぶときは、(1)動機づけ、(2)達成感の二つを大切にする。動機づけというのは、子どもをその気にさせること。達成感というのは、いわば満足感のことだ。この二つをクルクルまわりながら、子どもは勉強好きになる。

 私が「ワークブックはすべて捨てなさい」と言うと、その母親は目を白黒させて驚いた。さらに私が、「子どもには内緒で、幼児用のワークブックを使わせます」と言うと、さらに白黒させて驚いた。そして「では、指導していただかなくて結構です」と言って、そのまま去っていった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけできればいいの!
ガツガツママのモチ拾い(失敗危険度★★★★)

●基礎教養
 「教育」をどうとらえるかは、人それぞれ。そのハバもその深みも、その人によって違う。ある母親は娘(小二)を育てながら、一方で本の読み聞かせ会を指導し、乳幼児の医療問題研究会を組織し、議会運動までしていた。母親教室にも通っていたし、学校のPTAの役員もし、クラス対抗のお母さんバレーも指導していた。そういうのを「基礎教養」と私は呼んでいるが、その母親のまわりには、その基礎教育があった。が、一方、その基礎教養がまったくない親がいる。ないまま、受験教育だけが「教育」と信じ、それだけに狂奔する。Rさん(三五歳)がそうだ。

●なりふりかまわない子育て
 Rさんは、夫の実家が裕福なことをよいことに、家計にはほとんど関心をもたなかった。夫はある運送会社で荷物の仕分け作業の仕事をしていた。が、Rさんは、子ども(小二男児)の教育には惜しみなく、お金を注いだ。おけいこ塾も四つをかけもちした。空手道場、ピアノ教室、英語教室、それに水泳教室、と。水泳教室にかよわせたのは、子どもに喘息があったからだが、当然のことながら家計はパンク状態。そのつど夫の実家から援助を受けていた。が、それだけではない。夫の一か月の給料でも買えないような学習教材を一式買ったこともある。最近では子どもの学習用にと、中古だがコピー機まで購入している。

●モチまきのモチ?
 Rさんのような母親を見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。不快感すら覚える。それはちょうど、バイキング料理で、「食べなければ損」とばかり、つぎからつぎへと、料理をたいらげている女性のようでもある。あるいは、モチ投げのとき、なりふり構わずモチを拾っている女性のようでもある。「教育」と言いながら、その人を包み込むような高い理念がどこにもない。いや、そういう人にしてみれば教育とは、まさにモチまきのモチでしかないのかもしれない。

●私はハタと困った
 私はそのRさんのことをよく知っていた。が、あろうことか、ひょんなところから、そのRさんから子どもの教育の相談を受けるハメになってしまった。最近、子ども(小二男児)が、Rさんの言うことを聞かなくなったというのだ。そこで一度、面接してみると、その子どもには、いわゆるツッパリ症状が出ていた。すさんだ目つき、乱暴な言葉、キレやすい性格など。動作そのものまで、どこか野獣的なところがあった。ほうっておけば、まちがいなく非行化する。

●私は超能力者?
私のばあい、数分も子どもと接すると、その子どもの将来が手に取るようにわかる。今、どういう問題をかかえ、これからどういう問題を起こすようになるかまでわかる。よく「超能力者のようだ」と言われるが、三〇年も毎日子どもたちと接していると、それがわかるようになる。方法は簡単。まず今までに教えた子どもの中から、その子どもに似た子どもをさがす。そしてその子どもがその後どうなっていったかを知る。さらに私のばあい、幼稚園の年中児から高校三年生まで、教えている。しかも問題のあった子どもほど、印象に強く残っている。あとはそれを思い出しながら、親に話せばよい。そういう意味では、この世界では経験がモノを言う。が、この段階で、私はハタと困ってしまった。「それを親に言うべきか、どうか」と。

●間の距離が遠すぎる
 ここで出てくるのが、「基礎教養」である。もしRさんに豊かな教養があれば、私は迷わず、その子どもの問題点を話すであろう。話すことができる。しかしその教養のない親には、話してもムダなばかりか、かえって大きな反発を買うことになる。それだけの教養がないから、説明のしようがない。それはちょうどバイキング料理をむさぼり食べている女性に、栄養学の話をするようなものだ。もっと言えば、掛け算もまだわからない子どもに、分数の割り算の話をするようなものだ。間に感ずる距離が、あまりにもある!

Rさんはさかんに、それも一方的に、「はやし先生にみてもらえるようになって、うれしいです。よかったです」と言っていたが、私は私で、「少し待ってください」とそれを制止するだけで、精一杯だった。私の話すら、ロクに聞こうとしない。それだけではない。このタイプの親というのは、もともと一本スジの通った哲学がないから、成績がさがったらさがったで、今度は私の責任をおおげさに追及する。それがわかっているから、その子どもの指導を引き受けることができない。で、案の定というか、私が数日後、電話で、力にはなれないと告げると、私の説明を半分も聞かないうちに、携帯電話をプツンと切ってしまった。
 

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