【子育て】(S男の引きこもり)(特集)
●時の流れ
時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
「時間よ、止まれ!」と叫んでみても、その風は、止まることはない。
手でつかもうとしても、指の間から、すり抜けていく。
私は子どものころから、何か楽しいことがあると、決まってこの歌を歌った。
「♪夕空晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫鳴く……」と。
結婚して子どもができてからもそうで、この歌をよく歌った。
ドライブに行き、その帰り道で、みなと合唱したこともある。
が、そういう時代も、あっという間に過ぎてしまった。
そのときは遅々として進まないように見える時の流れも、終わってみると、
あっという間。
どこへ消えたのかと思うほど、風の向こうに散ってしまう。
時の流れは、風のようなもの。
●私の夢
私には、夢があった。
子育ての夢というよりは、私自身の夢だったかもしれない。
その夢というのは、子どもを育てながら、いつか自分の子どもをオーストラリアへ
送ること。
親が夢をもつのを悪いというのではない。
その夢があるから、親は、子育てをしながら、そこに希望を託す。
その希望にしがみつきながら、仕事をする。
がんばる。
私も、ごくふつうの親だった。
息子たちには、何としてもオーストラリアへ行ってほしかった。
理由がある。
●夢のような生活
私は、学生として、オーストラリアへ渡った。
1970年の3月のことだった。
当時は、それなりの後見人、つまり身元保証人がいないと、正規の留学ができない
時代だった。
その後見人に、現在の皇后陛下の父君の、正田英三郎氏がなってくれた。
そのこともあって、私は、今から思うと、夢のような学生生活を送ることができた。
よく誤解されるが、青春はけっして人生の出発点ではない。
青春時代は、人生のゴール。
ゴール、そのもの。
人は常に、青春時代という(灯台)に照らされて、自分の人生を歩む。
私が、そうだった。
ともすればわき道に迷うそうになったことも、何度かある。
もともと生まれも育ちも、よくない。
ときに道を踏み外しそうになったこともある。
そういうとき、私の道を正してくれたのは、あの青春時代という灯台だった。
それが私の夢だった。
3人の息子たちを育てながら、息子たちにもまた、私がもっているのと
同じ灯台をもってほしかった。
●非現実的世界
私には3人の息子がいる。
ちょうど3歳ずつ、歳が離れている。
計画的に、そうしたわけではない。
結果的に、そうなった。
で、私は子育てをしながら、いつもこう願っていた。
息子たちにも、広い世界を見てほしい、と。
私の時代と比較するのもどうかと思うが、私の時代には、外国へ行くということ
すら、夢のような話だった。
たとえば羽田、シドニー間の航空運賃だけでも、往復42万円。
大卒の初任給が、やっと5万円に届いたというころだった。
いわんや留学など、夢のまた夢。
そのあと私が寝泊りするようになったカレッジにしても、当時のレートで、
月額20万円もした。
が、それだけの価値はあった。
最近、ハリーポッターという映画を見たが、あの中に出てくるような生活
そのままだった。
学生たちは、ローブと呼ばれるガウンを身にまとい、上級生や、
講師、教授とともに、いっしょに寝泊りをする。
「カレッジ」というと、日本では、「寮」と訳すが、日本でいう寮を想像しない
ほうがよい。
カレッジは、それ自体が、独立した教育機関である。
中央にある「大学(ユニバーシティ)」で、総合的な教育を受け、カレッジに
もどって、個別の授業を受ける。
それがイギリスのカレッジ制度である。
しかしこの制度は、そののち、労働党政権になり、大きく崩れた。
予算が大幅に削られた。
昨年、オーストラリアへ行った折に、私がいたカレッジを訪れてみたが、
昔の面影というか、雰囲気は、もうなかった。
で、私は正田氏に後見人になってもらったこともあり、皇族として、大学に
迎え入れられた。
隣人は、インドネシアの王子だったし、廊下をはさんで反対側は、
モーリシャスの皇太子だった。
みな、ファースト・ネームで呼びあった。
●外国
息子たちは息子たちで、そういう私の心を察してか、「いつかは外国へ行く」
ということを考えていた。……と思う。
たぶんに押し付けがましいものではあったかもしれないが、私はそれを喜んだ。
が、息子たちの時代ですらも、外国は、まだ遠かった。
2人の息子を連れて、オーストラリアへ行ったときも、またもう1人の息子と、
タイへ行ったときも、それなりの覚悟が必要だった。
それだけで1、2か月分の稼ぎが、吹っ飛んでしまった。
少なくとも、今のように、学校の修学旅行で、オーストラリアやハワイへ行く
ような時代ではなかった。
が、それがよかったのか、悪かったのか、私にはわからない。
同じ(外国)でも、人によって、その印象がちがう。
これはあくまでも一般論だが、外国の生活にそのまま溶け込める子どもと、
そうでない子どもがいる。
溶け込める子どもが、3分の2。
溶け込めないで、その世界からはじき飛ばされてしまう子どもが、3分の1。
つまり3人に1人は、外国の生活になじめない。
その割合は、年齢が大きくなればなるほど、大きくなる。
●S男のこと
親というのは、けっして1人の親ではない。
私も3人の息子を育てながら、3人の親になった。
つまり育て方が、みな、ちがった。
概して言えば、S男にはきびしく接した。
二男には、幼児のとき、浜名湖であやうく事故で亡くしかけたこともあり、
「生きているだけでいい」という接し方をした。
三男は、心の余裕ができたこともあり、俗にいう、甘やかして育てた。
そういう点では、S男には、申し訳ないことをした。
期待を、大きくかけすぎた。
夢を、S男にぶつけすぎた。
S男にとっては、私の家は、窮屈で住みにくいところだったことだろう。
今にして思うと、それがわかる。
申し訳ないことをした。
本当に申し訳ないことをした。
しかし当時の私には、それがわからなかった。
中学、高校へと進むにつれて、とくにS男の心は、私から離れていった。
●断絶
最初は小さな亀裂だった。
しかしそれがやがて断絶となり、私とS男の間の会話は途切れた。
私は、うるさい親父だった。
過干渉で、その上、過関心だった。
さらに悪いことに、これは言い訳にもならないが、私は忙しかった。
そのこともあって、私の情緒は、かなり不安定になっていた。
……というより、私は私で、心の問題をかかえていた。
それについては、もう少しあとで書くとして、私にとってもつらい時代だった。
もっとも、父と子、とくに父と息子が断絶するというケースは、珍しくない。
あのジークムント・フロイトは、それを「血統空想」という言葉を使って、
間接的に説明している。
子どもというのは、ある年齢になると、自分の血統、つまり父親を疑い始める。
「私の父は、本当の親ではないかもしれない。私の父親は、もっと高貴な
人物であったはず」と。
これに対して、自分の母親を疑う子どもは、いない。
それもそのはず。
子どもは母親の胎内に宿り、生まれたあとも、母親から乳を受ける。
そういう意味で、母子関係と、父子関係は、けっして同じではない。
平等ではない。
統計的な数字をみても、「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、
79%もいる(「青少年白書」平成10年)。
私もそうした父親の1人、ということになる。
つまり私は、S男と会話が途切れたことについて、それほど深刻には、考えて
いなかった。
私自身も、私の父親とは、中学生になるころには、ほとんど会話をしなくなっていた。
●大学
下宿は、元高校教師の家に決まった。
私はそれを喜んだ。
大学は、友人の紹介で、キャンベラ大学に決まった。
ところでこうした手続きは、自分でするのがよい。
留学の斡旋を専門にするサービス会社もあるが、一般的に、高額。
が、自分ですれば、実費のみ。
昨年(08)、問題になり、破産した斡旋会社は、1人あたり、数百万円の
手数料を荒稼ぎしていたという。
今ではインターネットを通して、入学の申し込み、学生ビザの取得まで
すべてできる。
下宿代も、食事込みで、月額4~5万円程度。
学費も、半期の6か月で、70~80万円程度。
自分で手続きをすれば、ただというわけではないが、数千円の印紙代程度で、
すむ。
●巣立ち
S男は、友人のI君と2人で、大阪の伊丹空港を飛び立った。
3月の、まだ肌寒さの残る朝だった。
空港でいくらかの円を、オーストラリアドルに換えた。
それを渡すと、S男は、こう言った。
「2度と日本には帰ってこない」と。
私は、「そうか」とだけ言った。
親としてはさみしい瞬間であるが、それが巣立ち。
いつかはその日がやってくる。
むしろ私は、そういうS男をたのもしく思った。
と、同時に、内心では、ほっとした。
家の中では、いつもたがいにピリピリとした雰囲気だった。
それがS男にも通じたのか、S男はうしろも振り返らず、黙ったまま、
ゲートを通り過ぎていった。
●私の心のキズ
私が自分の心のキズに気がついたのは、私が40歳も過ぎてからの
ことではなかったか。
「おかしい」とは思っていたが、みなそうだと思っていた。
しかしキズは、たしかにあった。……今でも、ある。
トラウマというのは、そういうもの。
年齢を重ねたからといって、消えるものではない。
私は基本的には、不幸にして、不幸な家庭に生まれ育った。
父と母は、夫婦と言いながら、形だけ。
心はバラバラ。
その上、父は、ふだんはもの静かな学者肌の人だったが、酒が入ると、
人が変わった。
大声を出して、暴れた。
家具をひっくり返し、ふすまや障子のさんを壊した。
私と姉は、そして兄は、そのたびに、父の影におびえ、家の中を逃げ回った。
それが大きなキズとなった。
父が酒を飲んで、人が変わったように、私の中にも2人の「私」がいて、
そのつど、交替で顔を出す。
たとえばこんなことがあった。
私が小学5年生のときのことだった。
●2人の私
私には心を寄せる女の子がいた。
AMさんといった。
が、AMさんは、私には関心を示さなかった。
そういうことが重なって、私はある日、AMさんが教室にいないときを見計らって、
AMさんの机の中から、AMさんのノートを取り出した。
そしてその中の1ページに、乱雑な落書きをした。
しばらくしてAMさんが教室に戻ってきて、それを見て、泣いた。
そのときのこと。
私の中に2人の「私」がいて、1人の私は、それを見て笑っていた。
が、もう1人の「私」もいて、そういうことをした私を責めた。
「なんて、バカなことをしたのだ!」と。
ただ救われたのは、そうしてときどき顔を出す、邪悪な私は、私の中でも
一部であったこと。
また邪悪な私が顔を出すたびに、もう1人の私が、それをたしなめたこと。
もしそれがなければ、私はそのまま多重人格者になっていたかもしれない。
しかし心のキズは、そんなものではない。
●体の震え
私にはおかしな病癖があった。
子どものころから、何かのことで不安や心配になったりすると、体が震えた。
夜、床について、しばらくしてから起こることが多かった。
体中の筋肉がかたまり、そのあと、自分でもわかるほど、体がガタガタと震えた。
年に何度とか、あるいは月に1度とか、回数は多くなかったが、それは起きた。
強度の不安神経症?
パニック障害?
診断名はともかくも、不安が不安を呼び、それが渦のように心の中で増幅し、
やがて制御不能になる。
が、原因が、やがてわかった。
ある夜のこと。
そのとき私は30歳を過ぎていた。
ワイフとふとんの中で、あれこれと話しあっているうち、話題は、あの夜のことに
なった。
あの夜……父がいつもになく酒を飲み、大暴れした夜のことだった。
父は、大声で母の名を呼び、家の中をさがし回った。
「トヨ子!」「トヨ子!」と。
私と姉は二階の、いちばん奥の物干し台の陰に隠れた。
そのときのこと。
父は隣の部屋まで、2度来た。
家具を投げつける音が、壁を伝ってきこえてきた。
私は姉に抱きつきながら、「姉ちゃん、こわいよう、姉ちゃん、こわいよう」と
おびえた。
私はそのとき、6歳だった。
で、その話になったとき、あの震えが起きた。
体中がかたまり、私はガタガタと震えた。
ワイフはそれを見て、牛乳を温めてもってきてくれた。
私はワイフの乳房を吸いながら、心を休めた。
●心を開く
私は子どものころから、「浩司は、明るくて楽しい子」と、よく言われた。
「愛想がいい子」とも、よく言われた。
しかしそれは仮面。
私にも、それがよくわかっていた。
つまり私は、だれにでも尻尾を振る、そんなタイプの子どもだった。
心理学で言えば、心の開けない子どもということになる。
母と私の間で、基本的信頼関係が結べなかったことが原因と考えてよい。
私は乳幼児期において、絶対的な(さらけ出し)ができなかった。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味である。
それもそのはず。
先にも書いたように、私の家庭は、「家庭」という「体」をなしていなかった。
静かに家族の絆(きずな)を温めるという雰囲気さえ、なかった。
ゆいいつの救いは、祖父母が同居していたこと。
祖父が、私の父親がわりになってくれたこと。
もし祖父母が同居していなかったら、その後の私は、めちゃめちゃになって
いただろう。
ともかくも、私は、結婚してからも、ワイフにさえ、心を開くことができなかった。
私の過去にしても、また私が生まれ育った環境にしても、そういうことを
話すのは、(私の恥)(家の恥)と考えていた。
そんなわけで、私は、息子たちにも、心を開くことができなかった。
その影響をいちばん強く受けたのは、S男だった。
●パパ、もうダメだ!
電話は、突然だった。
受話器を取ると、S男はこう言った。
「パパ、もうだめだア」と。
悲痛な声だった。
私はその声の中に、異常なものを感じた。
「すぐ帰って来い!」と。
今のようにインターネットがある時代ではない。
連絡は手紙。
あるいは電話。
急ぎのときは、郵便局でファックス・メールというのを使った。
下宿先には、ファックスはなかった。
S男の様子がおかしいということは、下宿先のホスト・マザーから聞いていた。
しかしそれを詳しく確かめることもなかった。
が、2年間の留学生活を終え、これから専門課程へと進む矢先のことだった。
どこか心配なところはあったが、私の頭の中には、あの伊丹空港を出て行くときの
S男の印象が、強烈に残っていた。
意外というより、「どうして?」という疑問のほうが大きかった。
が、さらに驚いたのは、その翌々日のことだった。
裏の勝手口を見ると、S男がそこに立っていた。
「帰って来い」とは言ったが、そんなに早く帰ってくるとは思っていなかった。
私たちは、何も言わず、S男を家の中に迎え入れた。
S男が、ちょうど20歳になる少し前のことだった。
●長いトンネル
私たち夫婦は、そのあと、長くて苦しいトンネルに入った。
出口の見えないトンネルである。
S男の生活を見ていて、興味深かったのは、毎日、ちょうど1時間ずつ
時間がずれていくことだった。
1日が24時間ではなく、1日が25時間で動いていた。
昨日は午前9時ごろ起きたと思っていると、今日はそれが午前10時に
なる。
そしてそれがつぎの日には、11時になる。
こうして時間がずれていって、夜中は起きていて、昼間は寝るという状態が
つづいた。
ワイフは、「そのうち元気になるだろう」と考えていた。
しかし私は、そうでなかった。
仕事上、そのタイプの子どもを何十例も見てきた。
S男の症状は、まさにそれだった。
「引きこもり」という、まさにそれだった。
●自信喪失
S男については、一度、S男が高校生のときに、自信を失ったことがある。
S男が、隠れてタバコを吸い始めた。
それまでは私は、積極的に、禁煙運動を進めていた。
が、S男がタバコを吸っているのを知って、それ以後、禁煙運動はやめた。
しかし今度は、引きこもりである。
私は大きな衝撃を受けた。
というより、自信を失ってしまった。
当時もいろいろな場で、育児相談を受けていた。
が、心、そこにあらずという状態になってしまった。
(教育)の世界から、足を洗うことさえ考えた。
が、それを止めてくれたのが、ほかの2人の息子たちだった。
とくに、三男が、中学で何かにつけ、活躍してくれた。
学年でもトップの成績を取ってくれた。
生徒会長にもなってくれた。
それを見て、ワイフがこう言って励ましてくれた。
「あなたがしてきたことは、まちがっていないわ」と。
●暖かい無視と、ほどよい親
子どもが引きこもるようになったら、鉄則は、2つ。
(1)暖かい無視と、(2)ほどよい親。
もしS男が他人の子どもなら、私はその親に、こう言ってアドバイスしたこと
だろう。
「暖かい無視と、ほどよい親であることを、徹底的に貫きなさい」と。
暖かい無視というのは、愛情だけは忘れず、何もしない、何も言わない、
何も指示しない、何も干渉しない……ことをいう。
ほどよい親というのは、「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。
子どものほうから何かを求めてきたら、すかさずそれに応じてやる。
しかしこちらからは、あれこれと手を出さない。
しかし実際には、これが難しかった。
●だらしなくなる生活態度
私たちは、S男の生活態度が、日増しにだらしなくなるのを知った。
衣服を替えない。
風呂に入らない。
掃除をしない、などなど。
食事の時間は、もちろんめちゃめちゃだった。
もともと静かで穏やかなS男だったが、表面的には、それほど変わらなかった。
しかし心の中は、いつも緊張状態にあった。
不用意に私やワイフが何かを言うと、ときにそれに反応し、烈火のごとく、
怒った。
やがて私たちは、何も言えなくなった。
S男が、なすがまま、それに任せた。
しかしそれは少しずつだが、私とワイフを追いつめていった。
そのつど、私は、ワイフとドライブに出かけて、その先で、泣いた。
●時の流れ
時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
「時間よ、止まれ!」と叫んでみても、その風は、止まることはない。
手でつかもうとしても、指の間から、すり抜けていく。
私は子どものころから、何か楽しいことがあると、決まってこの歌を歌った。
「♪夕空晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫鳴く……」と。
結婚して子どもができてからもそうで、この歌をよく歌った。
ドライブに行き、その帰り道で、みなと合唱したこともある。
が、そういう時代も、あっという間に過ぎてしまった。
そのときは遅々として進まないように見える時の流れも、終わってみると、
あっという間。
どこへ消えたのかと思うほど、風の向こうに散ってしまう。
時の流れは、風のようなもの。
●私の夢
私には、夢があった。
子育ての夢というよりは、私自身の夢だったかもしれない。
その夢というのは、子どもを育てながら、いつか自分の子どもをオーストラリアへ
送ること。
親が夢をもつのを悪いというのではない。
その夢があるから、親は、子育てをしながら、そこに希望を託す。
その希望にしがみつきながら、仕事をする。
がんばる。
私も、ごくふつうの親だった。
息子たちには、何としてもオーストラリアへ行ってほしかった。
理由がある。
●夢のような生活
私は、学生として、オーストラリアへ渡った。
1970年の3月のことだった。
当時は、それなりの後見人、つまり身元保証人がいないと、正規の留学ができない
時代だった。
その後見人に、現在の皇后陛下の父君の、正田英三郎氏がなってくれた。
そのこともあって、私は、今から思うと、夢のような学生生活を送ることができた。
よく誤解されるが、青春はけっして人生の出発点ではない。
青春時代は、人生のゴール。
ゴール、そのもの。
人は常に、青春時代という(灯台)に照らされて、自分の人生を歩む。
私が、そうだった。
ともすればわき道に迷うそうになったことも、何度かある。
もともと生まれも育ちも、よくない。
ときに道を踏み外しそうになったこともある。
そういうとき、私の道を正してくれたのは、あの青春時代という灯台だった。
それが私の夢だった。
3人の息子たちを育てながら、息子たちにもまた、私がもっているのと
同じ灯台をもってほしかった。
●非現実的世界
私には3人の息子がいる。
ちょうど3歳ずつ、歳が離れている。
計画的に、そうしたわけではない。
結果的に、そうなった。
で、私は子育てをしながら、いつもこう願っていた。
息子たちにも、広い世界を見てほしい、と。
私の時代と比較するのもどうかと思うが、私の時代には、外国へ行くということ
すら、夢のような話だった。
たとえば羽田、シドニー間の航空運賃だけでも、往復42万円。
大卒の初任給が、やっと5万円に届いたというころだった。
いわんや留学など、夢のまた夢。
そのあと私が寝泊りするようになったカレッジにしても、当時のレートで、
月額20万円もした。
が、それだけの価値はあった。
最近、ハリーポッターという映画を見たが、あの中に出てくるような生活
そのままだった。
学生たちは、ローブと呼ばれるガウンを身にまとい、上級生や、
講師、教授とともに、いっしょに寝泊りをする。
「カレッジ」というと、日本では、「寮」と訳すが、日本でいう寮を想像しない
ほうがよい。
カレッジは、それ自体が、独立した教育機関である。
中央にある「大学(ユニバーシティ)」で、総合的な教育を受け、カレッジに
もどって、個別の授業を受ける。
それがイギリスのカレッジ制度である。
しかしこの制度は、そののち、労働党政権になり、大きく崩れた。
予算が大幅に削られた。
昨年、オーストラリアへ行った折に、私がいたカレッジを訪れてみたが、
昔の面影というか、雰囲気は、もうなかった。
で、私は正田氏に後見人になってもらったこともあり、皇族として、大学に
迎え入れられた。
隣人は、インドネシアの王子だったし、廊下をはさんで反対側は、
モーリシャスの皇太子だった。
みな、ファースト・ネームで呼びあった。
●外国
息子たちは息子たちで、そういう私の心を察してか、「いつかは外国へ行く」
ということを考えていた。……と思う。
たぶんに押し付けがましいものではあったかもしれないが、私はそれを喜んだ。
が、息子たちの時代ですらも、外国は、まだ遠かった。
2人の息子を連れて、オーストラリアへ行ったときも、またもう1人の息子と、
タイへ行ったときも、それなりの覚悟が必要だった。
それだけで1、2か月分の稼ぎが、吹っ飛んでしまった。
少なくとも、今のように、学校の修学旅行で、オーストラリアやハワイへ行く
ような時代ではなかった。
が、それがよかったのか、悪かったのか、私にはわからない。
同じ(外国)でも、人によって、その印象がちがう。
これはあくまでも一般論だが、外国の生活にそのまま溶け込める子どもと、
そうでない子どもがいる。
溶け込める子どもが、3分の2。
溶け込めないで、その世界からはじき飛ばされてしまう子どもが、3分の1。
つまり3人に1人は、外国の生活になじめない。
その割合は、年齢が大きくなればなるほど、大きくなる。
●S男のこと
親というのは、けっして1人の親ではない。
私も3人の息子を育てながら、3人の親になった。
つまり育て方が、みな、ちがった。
概して言えば、S男にはきびしく接した。
二男には、幼児のとき、浜名湖であやうく事故で亡くしかけたこともあり、
「生きているだけでいい」という接し方をした。
三男は、心の余裕ができたこともあり、俗にいう、甘やかして育てた。
そういう点では、S男には、申し訳ないことをした。
期待を、大きくかけすぎた。
夢を、S男にぶつけすぎた。
S男にとっては、私の家は、窮屈で住みにくいところだったことだろう。
今にして思うと、それがわかる。
申し訳ないことをした。
本当に申し訳ないことをした。
しかし当時の私には、それがわからなかった。
中学、高校へと進むにつれて、とくにS男の心は、私から離れていった。
●断絶
最初は小さな亀裂だった。
しかしそれがやがて断絶となり、私とS男の間の会話は途切れた。
私は、うるさい親父だった。
過干渉で、その上、過関心だった。
さらに悪いことに、これは言い訳にもならないが、私は忙しかった。
そのこともあって、私の情緒は、かなり不安定になっていた。
……というより、私は私で、心の問題をかかえていた。
それについては、もう少しあとで書くとして、私にとってもつらい時代だった。
もっとも、父と子、とくに父と息子が断絶するというケースは、珍しくない。
あのジークムント・フロイトは、それを「血統空想」という言葉を使って、
間接的に説明している。
子どもというのは、ある年齢になると、自分の血統、つまり父親を疑い始める。
「私の父は、本当の親ではないかもしれない。私の父親は、もっと高貴な
人物であったはず」と。
これに対して、自分の母親を疑う子どもは、いない。
それもそのはず。
子どもは母親の胎内に宿り、生まれたあとも、母親から乳を受ける。
そういう意味で、母子関係と、父子関係は、けっして同じではない。
平等ではない。
統計的な数字をみても、「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、
79%もいる(「青少年白書」平成10年)。
私もそうした父親の1人、ということになる。
つまり私は、S男と会話が途切れたことについて、それほど深刻には、考えて
いなかった。
私自身も、私の父親とは、中学生になるころには、ほとんど会話をしなくなっていた。
●大学
下宿は、元高校教師の家に決まった。
私はそれを喜んだ。
大学は、友人の紹介で、キャンベラ大学に決まった。
ところでこうした手続きは、自分でするのがよい。
留学の斡旋を専門にするサービス会社もあるが、一般的に、高額。
が、自分ですれば、実費のみ。
昨年(08)、問題になり、破産した斡旋会社は、1人あたり、数百万円の
手数料を荒稼ぎしていたという。
今ではインターネットを通して、入学の申し込み、学生ビザの取得まで
すべてできる。
下宿代も、食事込みで、月額4~5万円程度。
学費も、半期の6か月で、70~80万円程度。
自分で手続きをすれば、ただというわけではないが、数千円の印紙代程度で、
すむ。
●巣立ち
S男は、友人のI君と2人で、大阪の伊丹空港を飛び立った。
3月の、まだ肌寒さの残る朝だった。
空港でいくらかの円を、オーストラリアドルに換えた。
それを渡すと、S男は、こう言った。
「2度と日本には帰ってこない」と。
私は、「そうか」とだけ言った。
親としてはさみしい瞬間であるが、それが巣立ち。
いつかはその日がやってくる。
むしろ私は、そういうS男をたのもしく思った。
と、同時に、内心では、ほっとした。
家の中では、いつもたがいにピリピリとした雰囲気だった。
それがS男にも通じたのか、S男はうしろも振り返らず、黙ったまま、
ゲートを通り過ぎていった。
●私の心のキズ
私が自分の心のキズに気がついたのは、私が40歳も過ぎてからの
ことではなかったか。
「おかしい」とは思っていたが、みなそうだと思っていた。
しかしキズは、たしかにあった。……今でも、ある。
トラウマというのは、そういうもの。
年齢を重ねたからといって、消えるものではない。
私は基本的には、不幸にして、不幸な家庭に生まれ育った。
父と母は、夫婦と言いながら、形だけ。
心はバラバラ。
その上、父は、ふだんはもの静かな学者肌の人だったが、酒が入ると、
人が変わった。
大声を出して、暴れた。
家具をひっくり返し、ふすまや障子のさんを壊した。
私と姉は、そして兄は、そのたびに、父の影におびえ、家の中を逃げ回った。
それが大きなキズとなった。
父が酒を飲んで、人が変わったように、私の中にも2人の「私」がいて、
そのつど、交替で顔を出す。
たとえばこんなことがあった。
私が小学5年生のときのことだった。
●2人の私
私には心を寄せる女の子がいた。
AMさんといった。
が、AMさんは、私には関心を示さなかった。
そういうことが重なって、私はある日、AMさんが教室にいないときを見計らって、
AMさんの机の中から、AMさんのノートを取り出した。
そしてその中の1ページに、乱雑な落書きをした。
しばらくしてAMさんが教室に戻ってきて、それを見て、泣いた。
そのときのこと。
私の中に2人の「私」がいて、1人の私は、それを見て笑っていた。
が、もう1人の「私」もいて、そういうことをした私を責めた。
「なんて、バカなことをしたのだ!」と。
ただ救われたのは、そうしてときどき顔を出す、邪悪な私は、私の中でも
一部であったこと。
また邪悪な私が顔を出すたびに、もう1人の私が、それをたしなめたこと。
もしそれがなければ、私はそのまま多重人格者になっていたかもしれない。
しかし心のキズは、そんなものではない。
●体の震え
私にはおかしな病癖があった。
子どものころから、何かのことで不安や心配になったりすると、体が震えた。
夜、床について、しばらくしてから起こることが多かった。
体中の筋肉がかたまり、そのあと、自分でもわかるほど、体がガタガタと震えた。
年に何度とか、あるいは月に1度とか、回数は多くなかったが、それは起きた。
強度の不安神経症?
パニック障害?
診断名はともかくも、不安が不安を呼び、それが渦のように心の中で増幅し、
やがて制御不能になる。
が、原因が、やがてわかった。
ある夜のこと。
そのとき私は30歳を過ぎていた。
ワイフとふとんの中で、あれこれと話しあっているうち、話題は、あの夜のことに
なった。
あの夜……父がいつもになく酒を飲み、大暴れした夜のことだった。
父は、大声で母の名を呼び、家の中をさがし回った。
「トヨ子!」「トヨ子!」と。
私と姉は二階の、いちばん奥の物干し台の陰に隠れた。
そのときのこと。
父は隣の部屋まで、2度来た。
家具を投げつける音が、壁を伝ってきこえてきた。
私は姉に抱きつきながら、「姉ちゃん、こわいよう、姉ちゃん、こわいよう」と
おびえた。
私はそのとき、6歳だった。
で、その話になったとき、あの震えが起きた。
体中がかたまり、私はガタガタと震えた。
ワイフはそれを見て、牛乳を温めてもってきてくれた。
私はワイフの乳房を吸いながら、心を休めた。
●心を開く
私は子どものころから、「浩司は、明るくて楽しい子」と、よく言われた。
「愛想がいい子」とも、よく言われた。
しかしそれは仮面。
私にも、それがよくわかっていた。
つまり私は、だれにでも尻尾を振る、そんなタイプの子どもだった。
心理学で言えば、心の開けない子どもということになる。
母と私の間で、基本的信頼関係が結べなかったことが原因と考えてよい。
私は乳幼児期において、絶対的な(さらけ出し)ができなかった。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味である。
それもそのはず。
先にも書いたように、私の家庭は、「家庭」という「体」をなしていなかった。
静かに家族の絆(きずな)を温めるという雰囲気さえ、なかった。
ゆいいつの救いは、祖父母が同居していたこと。
祖父が、私の父親がわりになってくれたこと。
もし祖父母が同居していなかったら、その後の私は、めちゃめちゃになって
いただろう。
ともかくも、私は、結婚してからも、ワイフにさえ、心を開くことができなかった。
私の過去にしても、また私が生まれ育った環境にしても、そういうことを
話すのは、(私の恥)(家の恥)と考えていた。
そんなわけで、私は、息子たちにも、心を開くことができなかった。
その影響をいちばん強く受けたのは、S男だった。
●パパ、もうダメだ!
電話は、突然だった。
受話器を取ると、S男はこう言った。
「パパ、もうだめだア」と。
悲痛な声だった。
私はその声の中に、異常なものを感じた。
「すぐ帰って来い!」と。
今のようにインターネットがある時代ではない。
連絡は手紙。
あるいは電話。
急ぎのときは、郵便局でファックス・メールというのを使った。
下宿先には、ファックスはなかった。
S男の様子がおかしいということは、下宿先のホスト・マザーから聞いていた。
しかしそれを詳しく確かめることもなかった。
が、2年間の留学生活を終え、これから専門課程へと進む矢先のことだった。
どこか心配なところはあったが、私の頭の中には、あの伊丹空港を出て行くときの
S男の印象が、強烈に残っていた。
意外というより、「どうして?」という疑問のほうが大きかった。
が、さらに驚いたのは、その翌々日のことだった。
裏の勝手口を見ると、S男がそこに立っていた。
「帰って来い」とは言ったが、そんなに早く帰ってくるとは思っていなかった。
私たちは、何も言わず、S男を家の中に迎え入れた。
S男が、ちょうど20歳になる少し前のことだった。
●長いトンネル
私たち夫婦は、そのあと、長くて苦しいトンネルに入った。
出口の見えないトンネルである。
S男の生活を見ていて、興味深かったのは、毎日、ちょうど1時間ずつ
時間がずれていくことだった。
1日が24時間ではなく、1日が25時間で動いていた。
昨日は午前9時ごろ起きたと思っていると、今日はそれが午前10時に
なる。
そしてそれがつぎの日には、11時になる。
こうして時間がずれていって、夜中は起きていて、昼間は寝るという状態が
つづいた。
ワイフは、「そのうち元気になるだろう」と考えていた。
しかし私は、そうでなかった。
仕事上、そのタイプの子どもを何十例も見てきた。
S男の症状は、まさにそれだった。
「引きこもり」という、まさにそれだった。
●自信喪失
S男については、一度、S男が高校生のときに、自信を失ったことがある。
S男が、隠れてタバコを吸い始めた。
それまでは私は、積極的に、禁煙運動を進めていた。
が、S男がタバコを吸っているのを知って、それ以後、禁煙運動はやめた。
しかし今度は、引きこもりである。
私は大きな衝撃を受けた。
というより、自信を失ってしまった。
当時もいろいろな場で、育児相談を受けていた。
が、心、そこにあらずという状態になってしまった。
(教育)の世界から、足を洗うことさえ考えた。
が、それを止めてくれたのが、ほかの2人の息子たちだった。
とくに、三男が、中学で何かにつけ、活躍してくれた。
学年でもトップの成績を取ってくれた。
生徒会長にもなってくれた。
それを見て、ワイフがこう言って励ましてくれた。
「あなたがしてきたことは、まちがっていないわ」と。
●暖かい無視と、ほどよい親
子どもが引きこもるようになったら、鉄則は、2つ。
(1)暖かい無視と、(2)ほどよい親。
もしS男が他人の子どもなら、私はその親に、こう言ってアドバイスしたこと
だろう。
「暖かい無視と、ほどよい親であることを、徹底的に貫きなさい」と。
暖かい無視というのは、愛情だけは忘れず、何もしない、何も言わない、
何も指示しない、何も干渉しない……ことをいう。
ほどよい親というのは、「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。
子どものほうから何かを求めてきたら、すかさずそれに応じてやる。
しかしこちらからは、あれこれと手を出さない。
しかし実際には、これが難しかった。
●だらしなくなる生活態度
私たちは、S男の生活態度が、日増しにだらしなくなるのを知った。
衣服を替えない。
風呂に入らない。
掃除をしない、などなど。
食事の時間は、もちろんめちゃめちゃだった。
もともと静かで穏やかなS男だったが、表面的には、それほど変わらなかった。
しかし心の中は、いつも緊張状態にあった。
不用意に私やワイフが何かを言うと、ときにそれに反応し、烈火のごとく、
怒った。
やがて私たちは、何も言えなくなった。
S男が、なすがまま、それに任せた。
しかしそれは少しずつだが、私とワイフを追いつめていった。
そのつど、私は、ワイフとドライブに出かけて、その先で、泣いた。