私の故郷は、九州の田舎の漁村で炭鉱町だ。
家から歩いて3分の海岸、その横には炭鉱の石炭を積み出す小さな港があった。
小学生の頃の夏休みには、家から海パン一丁で海まで泳ぎに行ったものだ。
折しも、照りつける夏の日射しのような高度経済成長のもと、田舎の時間はゆっくりと流れていた。
中学生になってからは泳ぎにも飽きて、インドア派になった。
1968年、中学2年でビートルズに出会った。
当時流行りの、歌謡史の徒花グループ・サウンズ(GS)とは、ひと味もふた味も違う本格的な楽曲。
GSの話題で盛り上がる同級生たちの横で、ビートルズ・ナンバーを鼻歌で歌い、奇異の目で見られたものだ。
田舎では、迫り来る廃業や閉山の噂もものかは、漁村や炭鉱は最後の光を放っていた。
そんな辺境の田舎町で、その対極ともいうべき、初期のビートルズ・ナンバーを聴きまくっていた。
私にとって、アメリカの象徴がコカ・コーラで、イギリスの象徴がビートルズだった。
1969年1月には寒風の中、洋楽マニアの高校1年の先輩が予約していた『ホワイトアルバム』を、隣町のレコード店で受け取るのについて行った。
先輩の家でコタツに入って、その『ホワイトアルバム』を何度も聴いた。
ずっとシングル盤しか買えなかった私は、中学3年で初めて、英国盤『アビイ・ロード』を通販で購入した。
これから先もっと活躍すると思っていたビートルズは、その数ヵ月後、私の高校入学の直前に解散した。
それまでリアルタイムだったビートルズが過去のものになってしまった。
それとシンクロするように、田舎町の漁村は寂れ、炭鉱は閉山した。
『アビイ・ロード』を聴くたびに、遠く離れた大阪の地で、九州の田舎町の、今はなき漁村や炭鉱の往時を思い出す。
家から歩いて3分の海岸、その横には炭鉱の石炭を積み出す小さな港があった。
小学生の頃の夏休みには、家から海パン一丁で海まで泳ぎに行ったものだ。
折しも、照りつける夏の日射しのような高度経済成長のもと、田舎の時間はゆっくりと流れていた。
中学生になってからは泳ぎにも飽きて、インドア派になった。
1968年、中学2年でビートルズに出会った。
当時流行りの、歌謡史の徒花グループ・サウンズ(GS)とは、ひと味もふた味も違う本格的な楽曲。
GSの話題で盛り上がる同級生たちの横で、ビートルズ・ナンバーを鼻歌で歌い、奇異の目で見られたものだ。
田舎では、迫り来る廃業や閉山の噂もものかは、漁村や炭鉱は最後の光を放っていた。
そんな辺境の田舎町で、その対極ともいうべき、初期のビートルズ・ナンバーを聴きまくっていた。
私にとって、アメリカの象徴がコカ・コーラで、イギリスの象徴がビートルズだった。
1969年1月には寒風の中、洋楽マニアの高校1年の先輩が予約していた『ホワイトアルバム』を、隣町のレコード店で受け取るのについて行った。
先輩の家でコタツに入って、その『ホワイトアルバム』を何度も聴いた。
ずっとシングル盤しか買えなかった私は、中学3年で初めて、英国盤『アビイ・ロード』を通販で購入した。
これから先もっと活躍すると思っていたビートルズは、その数ヵ月後、私の高校入学の直前に解散した。
それまでリアルタイムだったビートルズが過去のものになってしまった。
それとシンクロするように、田舎町の漁村は寂れ、炭鉱は閉山した。
『アビイ・ロード』を聴くたびに、遠く離れた大阪の地で、九州の田舎町の、今はなき漁村や炭鉱の往時を思い出す。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます