goo blog サービス終了のお知らせ 

★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

グレートギャツビー

2013年09月07日 18時45分41秒 | 徒然(つれづれ)
 大学の2回生だったか、3回生だった時に、ゼミで「グレートギャツビー」が取り上げられた。当時はロバート・レッドフォード主演の「華麗なるギャツビー」が公開されたあとで、ゼミの講師が時流に迎合したのかな、くらいの感じだったし、ましてや原書で真剣に読もうなどとは露ほども思わなかった。
 とりあえずはレポートのために、野崎孝訳の日本語本を通読した程度で、授業もほとんど上の空だったように思う。一応、作者のフィッツジェラルドが、ヘミングウェイやフォークナーなどと同じ時期に活躍した「ロストゼネレーション」の作家で、大恐慌時代のアメリカの成り上がりと没落を地で行った人物ということくらいはわかった。

 最近、青空文庫の枯葉(翻訳者名)訳の「グレートギャツビー」を読む機会があった。学生時代とは違い、おぼろげながらに小説の全貌がわかってきた。村上春樹訳の本書もあるのはわかっていたが、彼の入れ込み具合を噂に聞いていたので、そちらのほうは敬遠させてもらった。
 
 学生時代はギャツビーや語り手のニックより年下だったが、今は倍ほど年齢を重ねてしまったこともあり、物語を俯瞰しながら、あるいはディテールを確認しながら読み進んでいけた。
 
 気にかかったことはふたつ。
 
 尊公(原書ではold sport)という二人称の訳と、作中、ギャツビー邸のパーティの参加者たちを、固有名詞でつらつら並べあげていく件。
 youという単語たったひとつで二人称を表すアメリカにおいて、日本語に訳しがたいold sportという二人称があったこと、それをギャツビーが会話の中でくどいほど使っていることに小さな驚きを感じた。
 また、作中人物や物語の進展にはほとんど関係ないと思われる、パーティの登場人物を列記することに、なんの意図があるのか疑問だったし、今もわからない。

 もうひとつ、ギャツビーはその人物像や性格が浮き彫りになっているのに、最愛のデイジーの人物像がイマイチ描ききれていないように思われる。ジョーダン・ベイカーのほうが生き生きと迫ってくる。それは作者(フィッツジェラルド)の意図なのだろうか。

 次に読み返すときは、その辺のことがわかってくるのだろうか、もしくは、また違った読後感になるのだろうか。その前に、レッドフォード版とディカプリオ版の「華麗なるギャツビー」も参考に観る必要があるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする