「進撃の巨人」のファイナルシーズン2が始まりましたね。
というわけで昨晩やっと見ることができたものの
ファイナルシーズンはいきなり全然違ったスケールの話になっているため
すっかり前回の細かい部分を忘れてしまっていて
まったく話についていけなかったsachiakiです。
小さな島で巨人と国民の小競り合いであったはずの物語が
突然メタ視点も入って巨人とはなんだ?
みたいなことを第二次戦争とともに振り返る。
みたいな展開になっているので
けっこうポカーンとしてしまうところが多いうえに
かなり細かい伏線が散っていたものを
一つ一つ回収しているシーズンなので
全体像を掴めないまま続きを見ようとすると
なんで内戦してるんだっけ?とかなったりするので
人間関係とか複雑に絡み合っているものを
解きほぐしていかないとなんですよね。
で、もう綺麗に以前の話を忘れてしまっているので…
というよりも欠如しているぐらいならマシで
自分の中で記憶を補完していたりして
話が捏造されている可能性があるから困るんですよね。
サシャは誰に殺された?
大陸マーレにいる同種の子供ガビに。
ではサシャはどこでどのタイミングで殺された?
っていうと、たしかミッションである
飛行船を誘導するための誘導灯を仕掛けている時で
飛行船に戻って来られたものの、
最後に戻ってくるはずの兵士がガビに殺されて
ファルコとともに飛行船に入ってきて
ガビはサシャを見た時に、自分の住んでいた場所の
馴染みのおじさんを殺した人だと気づいて
反射的に銃の引き金を引いた…
ーだったと思うけれど。
さて、それはどんな銃だった?
なぜ中世時代で時間が止まっているエルディア島の人である
調査兵団が飛行船を持っているのか、とか
そういった細かいところが抜け落ちているんです。
そういった細かいところを思い出そうとする時に
つじつまが合うように自分で記憶を捏造してしまっているんですね。
いわゆる記憶改変ってやつです。
で、これぐらいなら
ソースモニタリング(記憶の源が何であったか判断すること)が
あやふやだってぐらいだけど
ここで別の人に
「サシャを殺したガビは悟られないように軍人の格好であったよね?」
なんて聞かれて、服装なんかに注意が向いておらず
記憶に残っていなかった場合、この新しい偽物の刺激情報が上書きされて
サシャを殺したガビはエルディア島内偵部隊として入島しているから
軍人の格好をしていたし、サシャを殺した時はそのミッション中だった。
みたいなありもしない話を作り上げてしまうようなことがあるわけです。
こういったものをフォールスメモリー(虚偽記憶/過誤記憶)というんだけど
マジで人間の記憶なんてそのぐらいあやふやで頼りないものなんですよね。
この手の人間の記憶の曖昧さを丁寧に描いた小説といえば
芥川龍之介の「藪の中 」や森鴎外の「高瀬舟」がまさにそれですね。
「藪の中」では記憶の順序の曖昧さなどで矛盾が生じること
「高瀬舟」の方では下手人がなんども犯行を供述しているうちに
ストーリーが出来上がってしまい真実とずれてしまっていることが描かれている
と言われてもいます。
そういった意味では勝手に意味づけしてしまっている
中島敦の「山月記」もそれに近いかもしれません。
なにせ虎は出てきているものの虎の姿がなくなってから
李徴が激白をするので、
李徴=虎というものの事実性は著しく危ういわけですから。
ただまぁ「山月記」はカフカなどに影響を受けたとある中島敦のことなので
普通に創作の一環として楽しむのが野暮でなくていいですね。
とにもかくにも。
人間の記憶の曖昧さ、理解の乏しさなんてそんなものなので
「解かった!」とというのはだいたい誤りで
むしろ「なんも解からん」の方が正しいというものに似ているね
なんてことを思ったりです。
そしてどんなものでも記憶のみの情報は
かなり確度の悪いものである可能性があるので
頼りにできる客観情報をたくさん備えておいた方がいいね〜と。
聞いたものはなるべくメモに書き留める。
レコーダーに入れておくとなお良し。
事実解析をする時は思い込みのない第三者に見てもらう。
などなど。
事実でさえ解釈でいかようにもねじ曲がることは
数年前のメンタルがヤバい人とのやりとりで
骨を折りまくる経験をしたので
本当に気をつけないとなぁと思うところです。
いや、メンタルがヤバい人が悪いんじゃなくって
その人の言葉は信じるものの、整合性が取れるように
ちゃんと裏取りをして、周りがボロボロにならないように
サポートできるようにするってことですね。
認知の歪みというのは本人ではどうにもできないので。
自分の認知の歪み=スキーマについては
自分がどういった歪みを持っているのか
時々チェックをしておくと良いかもしれません。
ネットでもチェックできるし、
そういったチェックできる本を一冊持っておくのも良いかも。
いつも自分が損をしているって思ったり、
私にこんなことができるわけないって思ったりするのも
認知の歪みなので、客観評価を大切にしましょうね。
と。
なんか「進撃の巨人」からだいぶズレてしまった。
今回の話で良いなと思ったのは
裏切り続けられた調査兵団が牢屋から出られるきっかけとなった
オニャンコポンに対して疑心暗鬼なコニーが
「裏切り続けるのはもうたくさんだ!」と胸ぐらを掴んでブチギレている時に、
アルミンが「いろんな奴がいた方が面白いと君はいった」
「それはジークの思想と相反する。だから君を信じる」
という人を信じる論拠を持っていることでしたね。
誰の言っていることが正しいのか
そういったことがわからなくなった時に論拠を持っていることは
とても強いと思うし、
その論拠が根拠になるまで信じられるのは
メンタルが強い証拠だなぁと思いました。
そういやアルミンは人の普段の言動をよく見て
その人の動く指針のようなものを分析するのに長けているよなぁ。
人を信じるというのは、どれぐらいその人をよく見ているか。
ということなのかもしれないですね。
それも冷静に。
今日も今日とてわかりにくい書き散らした日記だったけれど
自分の脳内はある程度整頓できたのでヨシ。
そんじゃまたお勉強に戻ります。モイモイ。
というわけで昨晩やっと見ることができたものの
ファイナルシーズンはいきなり全然違ったスケールの話になっているため
すっかり前回の細かい部分を忘れてしまっていて
まったく話についていけなかったsachiakiです。
小さな島で巨人と国民の小競り合いであったはずの物語が
突然メタ視点も入って巨人とはなんだ?
みたいなことを第二次戦争とともに振り返る。
みたいな展開になっているので
けっこうポカーンとしてしまうところが多いうえに
かなり細かい伏線が散っていたものを
一つ一つ回収しているシーズンなので
全体像を掴めないまま続きを見ようとすると
なんで内戦してるんだっけ?とかなったりするので
人間関係とか複雑に絡み合っているものを
解きほぐしていかないとなんですよね。
で、もう綺麗に以前の話を忘れてしまっているので…
というよりも欠如しているぐらいならマシで
自分の中で記憶を補完していたりして
話が捏造されている可能性があるから困るんですよね。
サシャは誰に殺された?
大陸マーレにいる同種の子供ガビに。
ではサシャはどこでどのタイミングで殺された?
っていうと、たしかミッションである
飛行船を誘導するための誘導灯を仕掛けている時で
飛行船に戻って来られたものの、
最後に戻ってくるはずの兵士がガビに殺されて
ファルコとともに飛行船に入ってきて
ガビはサシャを見た時に、自分の住んでいた場所の
馴染みのおじさんを殺した人だと気づいて
反射的に銃の引き金を引いた…
ーだったと思うけれど。
さて、それはどんな銃だった?
なぜ中世時代で時間が止まっているエルディア島の人である
調査兵団が飛行船を持っているのか、とか
そういった細かいところが抜け落ちているんです。
そういった細かいところを思い出そうとする時に
つじつまが合うように自分で記憶を捏造してしまっているんですね。
いわゆる記憶改変ってやつです。
で、これぐらいなら
ソースモニタリング(記憶の源が何であったか判断すること)が
あやふやだってぐらいだけど
ここで別の人に
「サシャを殺したガビは悟られないように軍人の格好であったよね?」
なんて聞かれて、服装なんかに注意が向いておらず
記憶に残っていなかった場合、この新しい偽物の刺激情報が上書きされて
サシャを殺したガビはエルディア島内偵部隊として入島しているから
軍人の格好をしていたし、サシャを殺した時はそのミッション中だった。
みたいなありもしない話を作り上げてしまうようなことがあるわけです。
こういったものをフォールスメモリー(虚偽記憶/過誤記憶)というんだけど
マジで人間の記憶なんてそのぐらいあやふやで頼りないものなんですよね。
この手の人間の記憶の曖昧さを丁寧に描いた小説といえば
芥川龍之介の「藪の中 」や森鴎外の「高瀬舟」がまさにそれですね。
「藪の中」では記憶の順序の曖昧さなどで矛盾が生じること
「高瀬舟」の方では下手人がなんども犯行を供述しているうちに
ストーリーが出来上がってしまい真実とずれてしまっていることが描かれている
と言われてもいます。
そういった意味では勝手に意味づけしてしまっている
中島敦の「山月記」もそれに近いかもしれません。
なにせ虎は出てきているものの虎の姿がなくなってから
李徴が激白をするので、
李徴=虎というものの事実性は著しく危ういわけですから。
ただまぁ「山月記」はカフカなどに影響を受けたとある中島敦のことなので
普通に創作の一環として楽しむのが野暮でなくていいですね。
とにもかくにも。
人間の記憶の曖昧さ、理解の乏しさなんてそんなものなので
「解かった!」とというのはだいたい誤りで
むしろ「なんも解からん」の方が正しいというものに似ているね
なんてことを思ったりです。
そしてどんなものでも記憶のみの情報は
かなり確度の悪いものである可能性があるので
頼りにできる客観情報をたくさん備えておいた方がいいね〜と。
聞いたものはなるべくメモに書き留める。
レコーダーに入れておくとなお良し。
事実解析をする時は思い込みのない第三者に見てもらう。
などなど。
事実でさえ解釈でいかようにもねじ曲がることは
数年前のメンタルがヤバい人とのやりとりで
骨を折りまくる経験をしたので
本当に気をつけないとなぁと思うところです。
いや、メンタルがヤバい人が悪いんじゃなくって
その人の言葉は信じるものの、整合性が取れるように
ちゃんと裏取りをして、周りがボロボロにならないように
サポートできるようにするってことですね。
認知の歪みというのは本人ではどうにもできないので。
自分の認知の歪み=スキーマについては
自分がどういった歪みを持っているのか
時々チェックをしておくと良いかもしれません。
ネットでもチェックできるし、
そういったチェックできる本を一冊持っておくのも良いかも。
いつも自分が損をしているって思ったり、
私にこんなことができるわけないって思ったりするのも
認知の歪みなので、客観評価を大切にしましょうね。
と。
なんか「進撃の巨人」からだいぶズレてしまった。
今回の話で良いなと思ったのは
裏切り続けられた調査兵団が牢屋から出られるきっかけとなった
オニャンコポンに対して疑心暗鬼なコニーが
「裏切り続けるのはもうたくさんだ!」と胸ぐらを掴んでブチギレている時に、
アルミンが「いろんな奴がいた方が面白いと君はいった」
「それはジークの思想と相反する。だから君を信じる」
という人を信じる論拠を持っていることでしたね。
誰の言っていることが正しいのか
そういったことがわからなくなった時に論拠を持っていることは
とても強いと思うし、
その論拠が根拠になるまで信じられるのは
メンタルが強い証拠だなぁと思いました。
そういやアルミンは人の普段の言動をよく見て
その人の動く指針のようなものを分析するのに長けているよなぁ。
人を信じるというのは、どれぐらいその人をよく見ているか。
ということなのかもしれないですね。
それも冷静に。
今日も今日とてわかりにくい書き散らした日記だったけれど
自分の脳内はある程度整頓できたのでヨシ。
そんじゃまたお勉強に戻ります。モイモイ。